このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

芸北高原鉄道の歴史

芸北高原鉄道は、夢の鉄道。

誰もが大好きな故郷を大切に思う心でつくられ育てられる夢の鉄道だったのです。
















→ 山陽東海軌道整備事業団    → 沿革その1      → 沿革その3    → 車輌の増備

建設と運営

金城浜田高架、大佐傍示連続トンネルなど難工事が進む一方、運営の諸準備も急ピッチで進められていきました。

会社基幹人員は、非現業部門においては各出資者による出向社員でしたが、運行・車両整備部門の現業を各私鉄OB・鉄道ファンボランティアが核となり構成された特別職社員が、鉄道法の法整備と合わせて採用されました。

一方で、VJC(ビジットジャパンキャンペーン)積極推進や首都機能一部移転で条例化されたハートフル芸北条例に基づき、可部−浜田間全26駅と新戸河内−聖湖三段峡口間全6駅は全線有人駅にしなければならなかったのですが、駅運営管理は地元企業・自治体職員(JR接続駅はJR)が担うというかたちで取り決めがおこなわれ、芸北高原鉄道の人員は最小限に抑えることができています。また、鉄道施設は鉄建公団や下物保有を一部区間広島県・島根県(第三種鉄道事業者)がおこない、保線など施設保持はJRに委託、というような役割分担になっています。こういう分担の結果、芸北高原鉄道会社自体は非常に身軽な財務体質の会社になっていました。

そのような中で、肝心の鉄道サービスにおいては、JRの役割はたいへん大きいものとなっています。車両の譲渡、芸北鉄道線競合の高速バス休止(代わりに沿線と鉄道駅を結ぶフィーダーバス事業認可)、可部−広島間接続路線整備(輸送密度が高く周辺拡張不能な軽便鉄道から発展した可部線経由を諦め、芸備線を可部まで延伸し広島—可部間を複線電化高規格線に整備=芸備延伸線と呼称)、九州方面や山陰各地への利便性確保のため芸北線の広島・浜田・江津到着時刻には必ずJRの接続列車があるようダイヤ改正、などがおこなわれました。

建設と同時に、利用促進活動も積極的に展開されました。芸北から山陰にかけては年中観光資源が豊富であり、春のうららかなシーズン、夏の山陰海岸への海水浴や高原キャンプ、秋の芸北高原の紅葉、冬の芸北高原のスキー、また年間を通し有福・温泉津・温井スプリングスといった温泉リゾートや、日本海の新鮮な海産物やマツタケ・ししなべといった山のグルメリゾート、石見神楽の郷土芸能など、観光ディスティネーションを積極的に関西・首都圏・九州、さらには台湾・韓国・中国など諸外国でもPRが積極的におこなわれたのです。

本社、車両基地のある芸北高原駅はガーラ湯沢をお手本としてスキー場を隣接(スキー場を運営する会社が駅を運営管理)、浜田では海産物直売センターや、石見海浜公園、大型水族館アクアス、各温泉などに直結する駅やフィーダーバスが整備されました。

さらに、広島都市圏からも1時間以内・新首都機能芸北の通勤圏として、加計など芸北高原以南の各市町村では宅地造成が積極的におこなわれ、その結果人口増加が続き、かつての可部線に比べると非常に高い輸送密度になり、そののちの開業後にはいきなり列車本数の不足を起こす事になったのはうれしい悲鳴といえます。

また、建設コストを最小にする工夫もおこなわれました。高架は出来るだけさけ盛土に、路盤の良い国道との併行、列車運行は4両以下(駅施設も一部の基幹駅を除き島式4両サイズで資材も統一)など決して過剰な施設投資をせず、手堅いPFIプロジェクトと評価されました。

 

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こうして、建設はもちろん、鉄道事業におけるほとんどの部分で、関係者の努力により開業に向けて順調に進んだのでした。

しかし…

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