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錦糸堀車庫を寝倉とした25系統 西荒川〜日比谷(末期は須田町まで)や38系統 錦糸堀車庫〜日本橋(末期は門前仲町
まで)には現:荒川線と同様に専用軌道が多かった。荒川線(27・32系統)の生い立ちが王子電車であったように、この両系
統も城東電車から都電に編入された路線である。
※城東電車についての詳細は
城東電車江戸川線とトロリーバス
を参照願います。
これは、市街化された山手線の内側は東京市電、その外側の郊外路線は私鉄という住み分けが、市街地の拡大や戦争中の
統制もあって都電化されたものである。言い換えれば、郊外路線ゆえに専用軌道が多かったということであり現在も営業して
いる東急世田谷線(旧:玉電)にも見て取れる。
昭和47年11月 錦糸堀車庫前(現:丸井) 昭和43年9月 錦糸堀車庫 錦糸堀にしかいない半流線形
の1500型と6000型が主流
後年に他で余剰となった7000型・8000型が多く入ってくる
昭和43年9月 錦糸堀車庫前 昭和46年10月 錦糸堀車庫前 正面3枚窓の7017 手前のポイントが入出庫線 折り返し線で38系統門前仲町へ
左 昭和43年9月 京葉道路松代橋の架け替え工事による仮軌道
右 昭和46年10月 橋梁架け替え後の同所
現在は左側の建物が都営住宅と都バス操車場
昭和45年1月 京葉道路と越中島貨物線のオーバーパス 昭和45年1月 亀戸駅前交差点
昭和43年11月 亀戸駅前 昭和43年11月 亀戸駅前
昭和43年11月 水神森 昭和43年9月 25系統 亀戸9丁目
真っ直ぐが25系統 西荒川行 25系統はここから京葉道路と分かれて専用軌道となる
右折が29系統 葛西橋行 38系統 日本橋行 風景は一変し、軌道の左右には工場が軒を連ねる
の分岐点となる
昭和43年7月 中川専用橋 昭和43年7月 小松川三丁目
江東ゼロメートル地帯と呼ばれ、水面スレスレを 城東電車時代は新町電停だった
走っていた。水面は真っ黒で悪臭を放っていたのを覚えている。
昭和43年9月 小松川4丁目 昭和43年9月 西荒川付近
城東電車小松川線開業当時は、小松川電停 9月28日の25系統廃止を控えて、隣で首都高7号線の基礎工事
と呼ばれここが終点 が始まっている。38系統よりも早く廃止となったのはこれが原因。
ここの手前に終戦前まで車庫があったが空襲で消失
昭和43年9月 小松川3丁目付近
昭和43年7〜9月 西荒川 何ともうら寂しい終点であった 城東電車時代に荒川・中川放水路に専用鉄橋を建設して
川向こうの江戸川線 東荒川〜今井橋 と繋ぐ計画もあったそうだが、都電時代も含めてついにその夢は実現せず幕を
閉じてしまった。
なおこの辺りは、再開発によりマンションが建ち並んで昔の面影は全く無い。また道路も付け替えられ、軌道跡を探索する
のは結構難しいエリアである。
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