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明治19(1886)年、明治政府は臨時建設局を設置し、官公庁関連の建造物の近代化(煉瓦造化)
に着手した。そして同年に、ドイツ人建築家ウィルヘルム・ベックマンとヘルマン・エンデを、お雇い外
国人として日本へ招いた。来日したベックマンは、各庁舎を日比谷一帯に集中させ、煉瓦で建設すること
を計画した。また、建物には良質の煉瓦が大量に必要となることから、機械を使った煉瓦製造工場の建設
が必要であることを明治政府に進言した。
これにより、明治20(1887)年に「日本煉瓦製造会社」が、武蔵国榛沢(はんざわ)郡上敷免(じ
ょうしきめん)村に設立された。大量の煉瓦を供給するための民間会社で、ドイツから技術を導入した。
当初は官営工場とする案も出ていたようだが、『煉瓦は臨時建築局が優先して買い上げること・工場には
外国人技師を派遣すること』を条件として、民間会社としてスタートした。なお煉瓦の材料となる土は、工場の計画段階では工場周辺
の畑地から採掘する予定だったが、工場の誘致を歓迎していた近隣の14村が無償で供与することになった。
設立時の中心人物は、渋沢栄一(榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)村出身の実業家)である。他に池田 ↓当時の渋沢栄一
栄亮(初代理事長、利根運河会社の創設役員)、増田孝(三井物産会社)、諸井恒平(本庄市出身、後に秩父セ
メントを創設)らが名を連ねている。
日本煉瓦製造会社(のちに日本煉瓦製造と改称)は、日本で初めての機械方式による煉瓦製造工場である。設
立当時から、煉瓦の製造工程のうちの素地(粘土+砂)の混成・成形、乾燥、焼成が機械化されていたようであ
る。例えば、ドイツ製の動力式煉瓦型抜き機械、コール式室内乾燥室、ホフマン式輪窯(3基)などが導入され
ている。
ホフマン輪窯の1号窯が完成し、火入れが行われたのは明治21(1888)年9月である。1号窯で煉瓦を
造りながら、工場の建設がすすめられた。明治22(1889)年5月に工場の付属施設が完成し、日本煉瓦製
造が本格的に操業を開始した。ちなみにホフマン輪窯2号・3号も、1号窯で焼いた煉瓦で建設された。
工場の建設当初は、機械の動力源は蒸気式の原動機(燃料は石炭)であったが、後に電動機が導入され、機械設備の全面的な電力化が
図られた。明治39(1906)年8月には、高崎水力電気株式会社と契約し、工場内に電灯線を架設した。
←東京駅の絵葉書(大正4年)
工場の設計者は辰野金吾(JR東京駅や日本銀行旧本館などを設計)、施工は清水
店(現在の清水建設)である。辰野は当時、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学
部)の教授であったが、建築事務所も設立していた。辰野事務所の開業は明治19(
1886)年なので、日本煉瓦製造の工場設計は、辰野事務所の開設とほぼ同時期に
行われていることになる。よって日本煉瓦製造は、辰野事務所としての極めて初期の
作品といえる。
なお、辰野の最高傑作である中央停車場(現在のJR東京駅)の建設には、辰野自
身が設計した工場(日本煉瓦製造)によって製造された煉瓦が使われている。
当初、日本煉瓦製造会社は製品の東京への輸送手段として、利根川の舟運を使っていた。小山川から利根川に入り、約40km下り、千葉県の関宿町付近から江戸川に入るというルートであった。しかし、増産体制が確立されると、舟運では輸送力の不足と遅さが問題になった。
明治26(1893)年5月には、操業以来初めての生産縮小に陥った。これは、輸送能力の不足が原因で煉瓦の在庫が大量に発生してしまい、煉瓦の保管場所がなくなってしまったからだった。煉瓦を迅速かつ大量に輸送するためには、新たな輸送方法を確立する必要があった。その結果、明治28(1895)年に、工場から日本鉄道(現在のJR高崎線)の深谷駅までの約4kmの区間に、上敷免鉄道(日本初の民間専用線、昭和50年に廃線)が敷設された。この専用線の発案者も、渋沢栄一である。
工場と深谷駅が直結されたことにより、需要に応じた生産と運営体系が確立され、製造された煉瓦は日本鉄道を経由して日本各地へ運ばれた。
日本煉瓦製造会社は、その高品質の煉瓦と突出した煉瓦製造能力から、関八州の覇王とも称され、ブ
ランド名である上敷免製の赤煉瓦は、日本各地の煉瓦構造物に使われた。JR東京駅、日本銀行旧本館
(表面は石張り)、法務省赤れんが棟(旧司法省本館)、赤坂離宮(現在の迎賓館、表面は石張り)、
碓氷峠鉄道施設(めがね橋やトンネル)、東京市街高架鉄道(例えば万世橋高架橋)など・・・。これ
らに使われている赤煉瓦は、日本煉瓦製造が造ったものである。
旧司法省本館 →
地元の埼玉県では、明治期から大正期にかけて、250基以上もの煉瓦水門が建設された。全国でも
類のない事で、これも日本煉瓦製造会社の存在が大きな要因であった。
日本煉瓦製造会社が設立されて以来、明治・大正時代の埼玉県には、約30戸の煉瓦工場が創設され
ている。しかし、明治30年代以降に建設された煉瓦水門に使われた煉瓦のほとんどは、日本煉瓦製造
の製品であった。
← 甚左衛門堰枠(じんざえもん せきわく) - 埼玉県指定文化財 -
前述の上敷免鉄道には、ポーナル(Charles.A.W.Pownall・・・明治政府によって招か
れたイギリス人の鉄道技師)によって設計された『ポーナル型プレートガーダー橋(桁
は鋼製、橋台は煉瓦造り)』がある。これらは、明治28(1895)年前後に建造さ
れた。鉄道史において高い評価を受けているだけでなく、日本の近代産業の黎明期を象
徴する貴重な産業遺産でもある。
現在は、上敷免鉄道の線路跡は「あかね通り」と名づけられた遊歩道になっており、
備前渠(びぜんきょ)鉄橋(国指定重要文化財)・福川鉄橋・唐沢川鉄橋が保存されている。
あかね通り →
以下は、国の重要文化財として指定された4施設である。
旧事務所(日本煉瓦史料館) ホフマン輪窯六号窯 旧変電室 備前渠鉄橋
参考文献一覧
◆ 日本煉瓦製造
( http://www.geocities.jp/fukadasoft/renga/factory.html )
◆ 産業技術遺産探訪〜旧・日本煉瓦製造会社・煉瓦製造施設
( http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2000/nichiren/nichiren.htm )
【 作成:2007(平成19)年10月4日 】
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