このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
1942年の1月・2月、日本軍はインドネシアへ侵攻した。スマトラとカリマンタンの石油生産地域は第一の目標とされた。なぜなら、それは侵略を継続するための重要な天然資源であったからだ。タラカン、バリクパパン、バンジャルマシン、ポンティアナック、パカンバル、ブキッティンギ、パレンバンといった町が日本軍の手におちた。H. TerPoorten中将に率いられた連合国軍は、日本軍の攻撃に対処する能力がないようだった。1942年2月27日のジャワ海海戦[*4]で、日本海軍は連合国軍の艦隊を打ち負かすことに成功した。その結果、イギリスの艦船はコロンボ(スリランカ)へ退避し、アメリカの艦船はオーストラリアへ退避した。
ジャワ海海戦で、連合国軍の艦隊が敗北したことにより、ジャワ島は日本軍の攻勢に全く無防備な状態となった。ジャワ攻略の任務を負った日本軍部隊は、今村 均中将によって率いられていた。1942年3月1日、日本軍はバンテン、エレタン・ウェタン(インドラマユ)、クラーガン(ルンバン)への上陸を成功させた。日本軍はこれらの上陸地点から内陸へ向けて進撃した。
1942年3月5日、蘭領東インド政府は、バタヴィア(ジャカルタ)を開城すると発表した。これは、バタヴィアが無抵抗で敵の侵入を受けるとういうことを意味した。バタヴィアとボゴールは、直ちに日本が支配することとなった。蘭領東インドは、その中心をバンドゥンへ移動した。また、バンドゥンは既に避難民たちで一杯の状態だった。
連合国軍は、内陸への侵攻を進める日本軍の速度を妨げるべく努めていた。チアテルの防衛線をめぐって戦いが発生したが、連合国軍は敗北した。1942年3月5日、チアテルが陥落し、3月7日にはレンバンも陥落した。チアテルとレンバンを奪還しようとするオランダ軍の試みは失敗した。
今村 均 中将は、既に日本の手に落ちていたスバンでTjarda Van Starkenborgh Stachouwer総督との会議を要請した。その会議は、1942年3月8日カリジャティの空軍将校邸宅で行われた。その会議には、Tjarda総督の他、H. Ter Poorten中将、Pesman少将、Bakker少将など蘭領東インドの高官たちが出席した。また通訳はGerharz大尉が勤めた。その会議で、今村はTjardaとTer Poortenに対して「無条件降伏しませんか?」[*1]と尋ねた。Ter Poortenの回答はバンドゥンのみ降伏する(つまり、蘭領東インド全ての降伏ではない)というもの。今村は同じ質問を繰り返し、Ter Poortenからは同じ回答が返された。そこで、今村はオランダが無条件降伏しないのなら、バンドゥンの町を爆撃すると脅した。
Tjarda総督は板ばさみ状態に直面した。オランダ政府(ロンドンに亡命していた)からは降伏するなと命令され、他方、日本はオランダが降伏しないなら、避難民で一杯のバンドゥンを爆撃すると脅かしたのだ。H. Ter Poorten中将は、もうこれ以上耐えられないと感じ、また犠牲者の発生を避けるため、カリジャティのスバン(カリジャティの首府、1942年3月8日)で、無条件降伏した。日本側は、今村 均中将が代表をつとめた。その後、Tjarda総督とTer Poorten中将は逮捕され、満州(中国北部)に連行された。そして、1945年8月第二次世界大戦終結後にようやく解放された。
日本軍がインドネシアに侵攻してから数えて(1942年1月初旬、日本軍は東カリマンタンのタラカンに侵入していた)、蘭領東インドを屈服させるのに約2ヶ月を要した。これほど早く蘭領東インドが日本軍に敗北したのは、次のような要因のせいだった。
日本軍政府による支配の間、社会生活のさまざまな面~経済、社会、文化、政治 等~で多くの変化が発生した。1945年8月1日[*3]日本が連合国軍に無条件降伏した時、このような大きな変化の結果、インドネシアは独立への準備を完了していた。
日本軍のインドネシア占領は、短期間(1942-1945)にすぎなかったが、インドネシア民族にとって異常な苦しみを引き起こした。
*1:教科書の原文(インドネシア語)は次の通り。このインドネシア語のニュアンスはちょっと判断に苦しむ。
"Apakah Tuan ingin menyerah tanpa syarat?"
「責任 ラバウルの将軍今村均」角田房子著(新潮社)には今村中将の質問として『総督は無条件降伏をしますか』と書かれていた。(同書 p.211)
なお、この教科書で今村中将が登場するのは、このジャワへの侵攻の個所だけ。これでは、今村将軍は「侵略者」ですね。。。。ところが、ジャワの軍政司令官として、今村中将の後任である原田熊吉中将は「オランダの植民地支配からインドネシアを解放したいと表明した」軍人としてこの教科書で紹介されています。(
練習問題を参照ください
) なお、PETA(祖国防衛義勇軍)が設立された当時の司令官が原田中将なので、こういった記述が入っているかも。
今村将軍について、インドネシア側ではどのように書いているのか検討する作業を始めました。
インドネシア人は今村将軍に感謝している?
*2:「大東亜戦争とインドネシア −日本の軍政−」加藤裕著(朱鳥社/星雲社)によれば、兵力数は逆で、日本軍が5万5千人、連合国軍側が9万8千人とある。(同書 p.120) 日本で出版されている他の書籍でも、ほぼ同様に連合国側の兵力を多く記述していたように思う。(書名は失念したが。。。)
*3:日本軍の無条件降伏は8月15日。どの程度(日付やデータなどについて)史実に正確な教科書なのか少々不安を覚える。。。。
*4:ジャワ海海戦図の文字がにじんでおり、判読困難。もともと教科書の印刷がにじんでいるもの。ご了承ください。なお、「ジャワ海海戦」は連合国側の呼称であり、日本側の呼称は「スラバヤ沖海戦」です。
上記和文は、 原文 2~3ページ目に対応。最後に訳した「コンセプト」は、2ページ目右側本文枠外にあるもの。似たセクションで、3ページ左側枠外にある「Cobalah」(考えてみよう)は訳を省いてます。
今村均中将 http://www.jttk.zaq.ne.jp/bachw308/page029.html#352 (インドネシア専科内)
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