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私の好きなインドネシアインドネシア政府公認の歴史記述とは?←2013年05月06日更新

インドネシア政府公認の歴史記述とは?

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在外イ大使館Webの記述在カナダ大使館他在オランダ大使館おまけ

在外インドネシア大使館Webに見る歴史記述

国内の学校教育で使われる歴史教科書の記述は「国内」向けですが、それに対して在外インドネシア大使館のWebページに掲載されている英文の歴史は「国外」向けであり、外国人が読むことを前提としています。教科書ほど詳細には記述していませんけど、その記述は教科書を読んで受けるイメージとは微妙に異なるように感じます。

また、国によって記述が随分と異なるケースがあり、なんか「二枚舌」じゃないかな~と感じてしまう場合も。

日本占領時代(1942-1945)の記述を中心に、インドネシア大使館Webで掲載されている「歴史」(政府公認の対外的な歴史)記述を紹介しましょう。

[補足]

インドネシア歴史・社会科教科書の翻訳ページも随時拡充させています。是非ご一読ください。

次のページも是非ご覧ください。

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在カナダ、ドイツ、ノルウェーのインドネシア大使館Web

インドネシア情報省が制作している“Indonesia : An Offical Handbook”の記述(その歴史の部分)を基にしていると思われるページです。掲載内容の確認時期は2008年5月7日。記述内容は、20世紀初頭のインドネシア民族運動勃興期から日本の占領、そしてオランダとの独立戦争期まで。上の3つのページともに文章は全く同じです。

なお、実際にWebページを閲覧し文章を隅から隅まで確認したのは上の三箇所だけですが、Googleで検索すると他にもたくさん出てきます。

情報省のHandbookを出展と明記しているページは次のurlにあります。→ http://www.wirantaprawira.net/verein/div/hiancien.htm 外部サイトへのリンク。これは個人のページみたいです。大使館掲載の文章とほぼ同じ内容です。

では、日本占領期(The Japanese Occupation )の部分を和訳し、下に掲載します。(英文ですので、一度原文をご覧になることをお勧めします。)

日本の占領

ハワイのパールハーバー攻撃後、日本軍は東南アジア諸国を征服するため南下した。シンガポール陥落の後、彼らは蘭領東インドを侵略。1942年3月、[蘭領東インドの]植民地軍は降伏した。

スカルノとハッタは拘留を解かれた。日本はいわゆる“大東亜共栄”というプロパガンダ・キャンペーンを開始した。しかし、すぐにインドネシア人は、それがオランダ植民地主義に取って代わる日本の帝国主義をカモフラージュするものだと理解した。

インドネシア独立という大義のため、スカルノとハッタは日本当局と協力しているように見えた。しかし、実際にはインドネシアの民族活動家たちは地下にもぐり、ブリタル(東ジャワ)、タシクマラヤとインドラマユ(西ジャワ)、そしてスマトラ及びカリマンタンでの反乱を背後から指導していたのだ。[*1]

補給線が寸断されるという太平洋戦争4年目[*2]のプレッシャー、そしてますます増加するインドネシアの反乱という状況の下、日本はついに譲歩し、紅白旗をインドネシア国旗として掲揚することを許した。そして次に“インドネシア・ラヤ”を国歌、インドネシア語を国語として承認した。ここに、1928年の青年の誓い[*3]が達成されたのだ。

そして粘り強い要求を受け、結局日本は民政をインドネシア人の手に移管することを合意した。これは、インドネシアの独立宣言を準備していた民族主義者たちにとって千載一遇のチャンスだった。

[訳注]

※:[ ]内は訳者の補足追加箇所。( )内はもともと原文で( )内に記述されているもの。

*1: スカルノやハッタが日本軍政に協力しつつ、シャフリル他の対日非協力を標榜していた民族主義者は地下組織を形成し、各地の反乱を組織していた。そして、日本軍政への協力者も非協力者もお互いの立場・役割を理解し連携していた、というのは歴史教科書でも解説されています。→ 闘争戦略インドネシア高等学校用歴史教科書「日本軍占領時代」 から)

*2: 太平洋戦争4年目。原文“4th Pacific war”。残念ながら意味不明。インドネシア語の“tahun ke-4 perang pasifik”(太平洋戦争4年目)の英語訳であろうと無理やりこじつけました。

*3:青年の誓い。1928年、第二回青年会議で採択された誓い。「唯一の祖国インドネシア」「唯一の民族インドネシア」「唯一の言語インドネシア語」をスローガンとした。

この後、独立宣言と独立戦争の記述が続きます。上の内容はどうでしょうか? 教科書の記述に比べると極めて簡略。日本は終始「侵略国」という位置づけですね。短い文章に纏めると結局こうなるのでしょう。インドネシアはオランダに対してと同様、日本に対しても抵抗し独立を勝ち取ったという主張です。

で、上の文章(英文)は、あちこちの国のインドネシア大使館Webに掲載されているのですが、ブラウズしていて2つ例外があることに気がつきました。それは日本とオランダにある大使館のWebページです。

まず、在日本 インドネシア大使館のページ: http://www.indonesianembassy.jp/ 外部サイトへのリンク。なんと、インドネシア史のページが見つかりません。さすがに上の文章を掲載するのはマズイと思ったのか、単に掲載をサボっているだけなのか。。。。堂々とそのまま掲載すれば良いのに。ついでに出来たら日本語訳で。もし、掲載urlを見つけたという方がいらしたら、下の「お問合わせフォーム」を使ってお教えいただけるとありがたいです。

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在オランダ インドネシア大使館のWebページ

Indonesia History 外部サイトへのリンク(英文です。オランダ語のページがあるかどうかは不明)

さすが旧宗主国にある大使館のWebページ。歴史のページは結構な分量であり、他の大使館に掲載されている歴史(情報省のHandbook)とは異なる内容です。

「日本の占領」(Japanese occupation)とその前後の部分を和訳し、下に掲載します。

第二次世界大戦

1940年5月、第二次世界大戦の初期、オランダはナチス・ドイツに占領された。蘭領東インドは非常事態を宣言。日本向けの輸出を米国・英国へ向け変更した。航空燃料の供給確保を目的とした日本との協議は1941年6月に挫折した。そして、同年12月に日本は東南アジア征服を開始した。その同月、スマトラの[独立運動]勢力が、オランダ戦時政府への反乱に日本の援助を求めようとした。1942年3月、オランダ軍は日本に敗北した。

日本の占領

第二次世界大戦の間、オランダはドイツの占領下におかれた。日本は1941年12月ジャワと蘭領東インドの重要な石油供給を目指し第五列運動[*1]を開始した。1942年7月、スカルノは日本の戦争を支持するため世論を結集せよという日本の申し出を受け入れた。スカルノとハッタは1943年、日本の天皇から勲章を授かった。[*2] しかし、日本のインドネシア占領によって受けた経験は、一人一人が生きた場所やその社会的地位によって相当異なっていた。戦争遂行のため重要とされた地域に暮らした多くの人々は、拷問、性奴隷、専制的な逮捕・処刑、その他の戦争犯罪を経験したのだ。戦時労働者(romusha)[*3]としてインドネシアから連れ去られた多くの人々が、虐待や飢餓の結果死亡した。オランダ人やオランダ人−インドネシア人の混血は特に日本占領下でターゲットとされた。

1945年3月、日本は独立のためのインドネシア人委員会(BPUPKI)[*4]を組織した。5月、最初の会議では、スポモが国家の統合を主張し、個人主義に反対した;他方、ムハマッド・ヤミンは、新国家は戦前の蘭領東インド全域に加えてサラワク、サバ、マラヤ、ポルトガル領ティモールを要求すべしと提案した。委員会は1945 憲法を起草した。それは多くの修正を経たが、今も効力を保っている。

1945年8月9日、スカルノ、ハッタ、ラジマン・ウェディオディニングラットは寺内元帥に会うためベトナムへ飛んだ。彼らは、日本が8月24日にインドネシアの独立をアナウンスするつもりであると聞かされた。しかし日本が降伏すると、スカルノは8月17日にインドネシアの独立を一方的に宣言した。

インドネシア民族革命

8月16日、日本がもはや決定権を持っていないことを知ると、その翌日スカルノは一方的で簡略な“プロクラマシ ”[*5](独立宣言)を読み上げた。独立宣言の言葉は短波放送やチラシによって広められた。同時に、祖国防衛義勇軍(PETA)[*6]、青年派 他は新共和国の支持に結集し、しばしば日本人から政府オフィスを取り上げ占拠した。

~以下略~

[訳注]

※:[ ]内は訳者の補足追加箇所。( )内はもともと原文で( )内に記述されているもの。

2008年05月21日修正↓

*1: 第五列運動。原文“five-prong campaign”。この英単語は意味不明です。しかし、おそらくは正規軍の進攻を容易にするため被進攻国内部で組織される第五列(fifth column)のことと推測します。

2008年05月21日修正↑

*2: 1943年11月、スカルノ、ハッタ、キ・バグス・ハディクスモの3人が訪日。天皇へ拝謁。また3名への受勲となった。

*3: romusha。“労務者”です。そのままインドネシア語の単語として通用します。“強制労働者”の意味で使われる。

*4: BPUPKI。“Badan Penyelidik Usaha Persiapan Kemerdekaan Indonesia”(インドネシア独立準備調査会)の略。

*5: “プロクラマシ”。原文“Proklamasi”。[独立]宣言の意味。

*6: 祖国防衛義勇軍(PETA)。原文“the Indonesian war-time military (PETA)”。日本語訳として一般的な“祖国防衛義勇軍”としました。

他の国の大使館Webに掲載されている内容と随分異なりますね。文中で気になるのは“インドネシアの独立を一方的に宣言した”(原文:unilaterally proclaimed Indonesian independence)という表現。これは「日本に対して」一方的に宣言したのか、「オランダに対しても」一方的に宣言してしまった、ということなのか。しかし、上の文章から受けるイメージは「スカルノ、ハッタは対日協力者ということ」を訴えているような。

これは、特にオランダ向けの内容なんでしょうか? 文中に書かれているスポモやヤミンの発言といい、オランダとインドネシアの関係史をもっと知らなければ、文脈の理解は難しい。

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2008年06月02日追加↓

おまけ:日本外務省の記述

驚きました。それは我が国の 外務省ホームページにあるインドネシアについての記述 外部サイトへのリンクについてです。その「7.略史」には、過去にポルトガル及びオランダがインドネシアへ進入した記述はあるのですが、第二次大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)~日本の進攻~の記述が全く抜け落ちています。まあ、お役人様のことですから、『略史なんで、スペースの関係から記述を省いています。特に他意はございません、云々』とでも説明するんでしょうね。

▼▼▼ 2013年05月06日更新 ▼▼▼

あちこちから批判の声があがったのかもしれません。上記外務省のページの記述が更新されており、「日本軍占領」の期間が明記されました。

▲▲▲ 2013年05月06日更新 ▲▲▲

この情報を知ったのは、次のブログの記事。

ブログの表題からするとバタック出身の方でしょうか。一本とられましたね。まいりました。

なお、外務省のページで他の国についての記述を見てみると;

「歴史を教えるのは文部科学省だけの仕事」じゃないと思いますけど。

↑2008年06月02日追加

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在外イ大使館Webの記述在カナダ大使館他在オランダ大使館おまけ

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