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私の好きなインドネシアインドネシア歴史教科書「日本占領時代」

第五章 日本占領時代

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A.政治指導B.社会・経済の動員C.独立宣言への歩み更新記録

A. 政治指導

1.民族運動の管理

アジアを支配するというその願望を達成するために、日本はまず戦闘・戦略上重要な場所を押さえる必要があった。そういった場所の一つがハワイの米国海軍基地、つまりパールハーバーだった。1941年12月8日(現地時間は1941年12月7日)日本の強力な航空艦隊はその地を攻撃した。こうして第二次世界大戦の一部としての太平洋戦争が勃発した。

この攻撃の翌日、Tjarda van Starkenborgh-Stachouwer総督は大胆にも蘭領東インドの対日本宣戦を布告した。しかし、日本は極めて迅速にアジアの広範囲~インドシナ、ビルマ、マレーシア、シンガポール、フィリピン、そして蘭領東インド(インドネシア)~を占領してしまったのだ。蘭領東インドの占領は、まず第一に石油、そしてゴムと食料といった資源の豊かさゆえに極めて重要であった。日本が第一に行ったことは、戦争遂行のため非常に重要である原油地帯の支配であった。その攻勢はタラカンとバリクパパンに始まり、同地は1942年1月に占領されてしまった。そして次のパレンバンは1942年2月に占領された。これら地域の占領の後、他地域へ攻撃が開始された。

日本軍は容易に蘭領東インドの地を奪い取った。意味のある唯一の抵抗は、連合国艦隊が日本に対抗した1942年2月28日のジャワ海海戦だけだった。しかし、連合国の艦隊はその団結を欠いていたので、日本艦隊の勝利が可能となった。

2008年5月6日追加↓

その時、今村*1の指揮下にあった日本軍は、1942年3月1日に一挙3箇所~つまり、バンテンのトゥルク、エレタン地域(インドラマユ)そしてレンバンのクラガン地区~を素早く占領することに成功した。1942年3月5日、ジャカルタが日本に占領された。そして他の各地域への攻勢が継続した。

エレタンに上陸した日本軍はカリジャティの空軍基地を奪い、バンドゥン攻撃の準備を開始した。1942年3月3~4日、エレタン・ウェタンとカリジャティ地域を奪還すべく行われた連合国軍の反攻はむなしく失敗に終わった。こうして両者の勢力は拮抗しておらず、オランダは敗北した。

<写真:1942年3月8日、オランダはカリジャティで日本に対し無条件降伏した。>*3

バンドゥンを攻めるにあたって、日本はこの街のオランダ(連合国)防衛本部を直接攻撃しようと試みた。日本軍は南側からスバン方面へ侵攻した。そしてオランダにより侵攻を遮られたチアテルで停止した。ゆっくりと日本軍は進軍を継続した。そして終にオランダ軍は後退し、レンバンで持ちこたえた。そして、この地でオランダと日本は交渉を行った。1942年3月9日、カリジャティで行われた交渉では、蘭領東インド軍司令官Ter Poorten将軍がオランダ側を代表した。その交渉の結果、オランダは無条件降伏した。

インドネシアが日本へと引き継がれると、日本はインドネシアの防衛・行政を円滑に行うための諸事業を急いで実施した。日本によってインドネシアは次の3つの軍政支配地域に分割された。

[訳注]

*1: 今村。原文は“Immamura”と表記。この教科書で今村中将が登場するのはこの部分だけです。

2008年5月10日追加↓
今村将軍について、インドネシア側ではどのように書いているのか検討する作業を始めました。
インドネシア人は今村将軍に感謝している?
↑2008年5月10日追加

*2: ウジュンパンダン。原文“Ujungpandang”(Ujung Pandangとも綴る)。現在は「マカッサル(Makassar)」と地名が変わっている。なお、ややこしいことに、日本軍が占領していた頃もマカッサルと呼ばれており、ウジュンパンダンと呼ばれていたのは1971~1999年の間とのこと。(情報出展:Wikipedia http://en.wikipedia.org/wiki/Makassar 外部サイトへのリンク) この教科書は1998年出版なので、ウジュンパンダンと表記している。

*3: 出版元の了解を得ていませんので、教科書に掲載されている写真・図・インドネシア語原文の掲載は行いません。

2008年5月20日追加↓

さて、各地域の軍政府を指導したのは軍政監と呼ばれる陸軍もしくは海軍の幕僚長だった。日本は官僚機構を運営するための十分な人的リソースを持っていなかったので、インドネシア人をそこへ登用した。これはそれ以前の状況とは全く異なっていた。オランダは、現地住民たちを高級職員の地位に座らせるほど彼らを容易に信じてはいなかった。とはいえ、日本は実用的な方法を求めただけだった。

社会の広範囲から共感・支持を得るための事業として、日本は3A運動をプロパガンダとした。その内容は十分興味を引くものだった。つまり;

Nipponとは、日本の意味である。この運動の指導者は、あまり著名ではない民族主義者Samsudin(大インドネシア党*2の若い指導者)だった。

結局のところ、3A運動は人気を集めることが出来なかった。その結果、日本は著名な民族主義指導者たちに接近した。その目的は彼らを日本側へ引き込むことだった。その後、日本はプートラ*3、ジャワ奉公会*4、MIAI*5を設立した。いずれの組織も日本を援助し、連合国に対抗する力を動員することが目的だった。

<写真5.2 左側から:Ki Hajar Dewantara、ハッタ、スカルノ、K.H. Mansyur(プートラの4人組)>

[訳注]

*1:日本。原文「Nippon」。日本占領下では、日本の呼称は「Nippon」もしくは「Dai-Nippon」と定められ、Japan(英語)やDjepoen(マレー語:つまり当時のインドネシア語)など外国語の使用は厳禁された。
布告第一五号 紀元及日本ノ名称使用ニ関スル件 昭和17年4月29日アジア経済研究所 - 図書館 - 岸幸一コレクション から)外部サイトへのリンク
“第二条 日出スル国ハDai-Nippon又ハNipponノ名称を用ウヘシ
外国ヨリ来タ又ハ外国語ニ由来スル名称例ヘハDjepoeng又ハJapanノ名称ヲ使用スルコトヲ厳禁ス”

*2:大インドネシア党。原文「Parindra」。Partai Indonesia Rayaの略称。

*3:プートラ。原文「Putera」。Pusat Tenaga Rakyatの略称。「民衆総力結集」といった意味。

*4:ジャワ奉公会。原文「Jawa Hokokai」

*5:MIAI。Madjlisoel Islamil A'laa Indonesiaの略称。

2008年5月29日追加↓

プートラ[Putera]*1とは、民衆総力結集[Pusat Tenaga Rakyat]の略称である。この団体は日本によって組織され、スカルノ、ハッタ、Ki Hajar Dewantara、Abikusno Cokrosuyono、K.H. Mas Mansyur、Sutarjo、Supomoといった活動家たちが協力した。プートラの指導を任された人物はスカルノ、ハッタ、Ki Hajar Dewantara、K.H. Mas Mansyurだった。日本[占領]政府の願望は、この組織がとりわけ活動力(労働力)と資金を動員する上で、日本占領政府の存在を援助するということだった。

プートラは1943年4月16日に設立された。この組織の活動は、次の2点にのみ限定された。

設立当初、プートラは、すでにオランダ時代から存在していた様々な組織がそれへ合同して従うという、真に積極的な反応を得ていた。それら組織とは;

[訳注]

*1:[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。

*2:a.のPGIは「Persatuan Guru Indonesia」の略称。以下、b. PTTR は「Perkumpulan Pegawai Pos, Telepon, dan Telegrap, dan Radio」、c. BAPERPIは「Badan Perantaraan Pelajar-Pelajar Indonesia」、d. はBarisan Bantengで適当な訳語不明、 e. ISIは「Ikatan Sport Indonesia」、f. 大インドネシア夫人管理団体は「Pengurus Besar Isteri Indonesia」である。いずれも対応する適切な日本語名称があるか不明。

2008年6月17日追加↓

これらの組織と連携することにより、プートラは特に主要都市部で成功した。当時、ラジオ放送はニュース報道に対し大きな役割を果たしていた。これによって遠隔地でもニュースを知ることができ、民衆はこのメディアを活用し始めた。この[ラジオ放送]*1事業は、独立準備過程におけるインドネシア民族の精神的な準備のひとつとなったのだ。

村落部では、資金的な問題からプートラは大きな成功をおさめることが出来なかった。この組織が必要とする資金は、日本から一銭の援助もなく*2、その結果プートラは自立しなければならなかった。当時、組織の活動費用を支払うことができるほど十分な資金を村落部の民衆が持つことは不可能だった。

非常に迅速なその運動のせいで、日本はプートラの別の面の存在を理解した。その組織は、日本の権益のためよりも、民族運動グループやコミュニケーション・メディアによって利用される傾向があり、メディアは独立準備のため統一精神や民族の統一感を強化していることが明らかとなった。そのため、日本はプートラの影響と世間の目をそらせようと試みた。その組織[プートラ]は、その後解散となり、 ジャワ奉公会 という献身団体を意味する名前の新しい組織が設立された。この組織は日本人職員によって直接指導され、インドネシア人はその監督のもと働いた。この組織はプートラの代替品となることが目的であり、明確に次の方向を目指していた;この団体を通して日本の権益のために力と知恵を献身的に結集させること。この事は、もし次の3つの基礎に基づく日本の忠誠心の伝統に一致しているならば可能だった。

ジャワ奉公会は、医師奉公会(医師の献身団体)、教育奉公会(教師の献身団体)、啓民文化指導所(文化センター)、奉公会(企業)、婦人会(女性の献身[団体])*4他、多くの職業団体をバックボーンとしていた。これらの組織は、例えば金、宝石、鉄、アルミニウムといった戦争資源ための資金を調達すべく試みた。日本のプロパガンダによれば、日本の勝利は[インドネシアの]独立を意味するがゆえに、連合国に対する日本の勝利が早期に到来すべく、民衆は犠牲を捧げる義務があった。

[訳注]

*1:[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。

*2:プートラに対して、日本側から一切の資金援助がなかったのか?念のため資料をいくつか当たってみることにします。

*3: 「見たり触れたりすることが可能な、ハッキリとした証拠に基づいて物事を実行する」(原文:melaksanakan sesuatu dengan bukti nyata, dapat dilihat atau dirasakan) これが「日本の忠誠心の伝統」に一致する行為なんでしょうか? 残念ながら意味不明です。

*4: これら団体の名称は、ほとんど日本語のままです。ローマ字としてそのままインドネシアで使われた。以下、原文を掲載しておきます。

Izi Hokokai(医師奉公会:医師の献身団体)
Kyoiku Hokokai(教育奉公会:教師の献身団体)
Keimin Bunka Syidoso(啓民文化指導所:文化センター)
Hokokai(奉公会:企業。これは各企業内に設置された奉公会ではないかと思います)
Fujinkai(婦人会:女性の献身[団体])

2008年6月21日追加↓

宗教関係の方向性を規定する組織はMIAI(Madjlisoel Islam A'laa Indonesia)だった。それは1937年に設立されていたが、日本占領政府によって、プートラやジャワ奉公会といった民族主義活動家たちからなる団体に対しバランサーとして存続することを許された。しかしながら、その運動はイスラム祝日を祝うことや社会での助産師*1という枠に限定された。その運動が制限されたとはいえ、会員数は非常に多く、その後、政治的な文様を帯びたMasyumi(インドネシア・イスラム教徒協議会*2)へ名前を変更すると、さらに会員は増加した。

MIAIは日本時代に存在した唯一の党だった。それゆえ、日本はMIAIの成長に恐れを感じ、その結果この党の活動は常に監視された。より効果的な管理は、キアイ*3たちに用意されたプログラムを通じて運用された。[キアイの]候補者は事前に彼らの出身地の知事により、不純物を除かれ選抜されねばならなかった。このことは、そのプログラムに参加するのが、どんな人物でも良いわけではなく、日本を支援するよう大衆を動かすことが可能な影響力を持つ人物であることを目的として、実施されたのだ。

MIAIが日本を懸命に支援していたにもかかわらず、その結果はまだ[日本の]満足の行くものではなかった。そのため、1943年11月にその組織は解散となり、Masyumi(インドネシア・イスラム教徒協議会)へ変えられた。K.H. Hasyim Asyari、Mas Mansyur、K.H. Hasyim、K.H. Hakhrowi、Zainul Arifin、Karto Sudarmo、K.H. Farid Ma'rufらがその指導者として選ばれた。

当然のことながら、日本は民族運動に抑制を加えていた。彼らは、プートラ、ジャワ奉公会、MIAI、Masyumi[の活動]に制限を付ける事が出来た。しかし、それらの独立への魂を抑えることは出来なった。[インドネシアの]民族主義階層と宗教階層を対立させ内部分裂させようとする試みは成功しなかった。なぜなら宗教階層もまた民族主義者だったからだ。

[訳注]

※[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。

*1:社会での助産師。原文「bidan sosial」。意味不明です。この文章全体を次に引用しておきます。「Namun, geraknya dibatasi dalam bidan sosial dan peringatan hari besar Islam.」

*2:Masyumi。「Majelis Syuro Muslimin Indonesia」(インドネシア・イスラム教徒協議会)の略称。

*3: キアイ。原文「kyai」。イスラム導師のことです。

2008年6月29日追加↓

2. 戦時動員*1

日本は連合国への対抗がますます困難な状況となっていることを自覚した。とりわけ1942年5月の珊瑚海海戦*2ならびに1942年6月のミッドウェイ海戦発生後において。それは、その戦いで日本が敗北を喫していたからだ。これ以降は逆転となった。日本はずっと圧倒され続け、その兵の数は減り続けた。そういった理由から、インドネシアを含む日本占領地域からの支援は、極めて緊急な必要案件とされた。そのため、日本軍を補助するための要員として軍事的な訓練を施された青年部隊が急ぎ組織された。

最初に設立された組織は1943年3月29日のセイネンダン*3(青年の部隊)だった。それは1943年4月29日*4、正式に設立された。プロパガンダによれば、インドネシアの自力での祖国防衛を可能とするだったが、実際のところ、その青年たちの動員は軍の予備隊となるための準備だった。セイネンダンのメンバーとなるための資格は、14−22歳で精神的・肉体的に健康な青年男子あることだった。この他に、小学校・中学校生徒のための生徒部隊(ガクトタイ*5)も組織された。それら組織が民族主義的な精神によっても育まれていたことは、ハッキリと認識されてはいなかったが、セイネンダン指導者の中に、SukarniとAbdul Latif Hendraningratがいた。この二人の青年は民族主義の考えを持つ人物だった。

軍人・兵士の補助とは別に、やはり青年を対象とした警察の補助のための動員も行われた。その部隊はケイボーダン*6と呼ばれた。そのメンバーとなるための資格は、23−25歳で精神的・肉体的に健康な成人男子だった。セイネンダン構成員の中で、民族主義グループの影響力が大きいことが明らかとなった為、ケイボーダンの設立となった。日本は、[ケイボーダンへ]民族主義的な人物を決して関与させないよう試み、注意した。ケイボーダン構成員を求めるにあたって、23−25歳の青年がケイボーダン構成員として入るよう義務付けるといった強制が存在した。また、地域によってその名前は異なっていた。例えば、スマトラではボーゴダン*7、カリマンタンではボルネオ・コーナン・ホーコクダン*8と名づけられた。当時の記録によれば、ケイボーダンの構成員数は28,000人に達した。

セイネンダン、ケイボーダンの他、この差し迫った時代にヘイホ*9と呼ばれる日本陸海軍の補助部隊も設立された。ヘイホ構成員となる資格は、18−25歳で精神的・肉体的にに健康な成年男子だった。

ヘイホの構成員は訓練後日本軍の部隊へと配置された。その役割が補助であったとはいえ、対空砲を操作するなど、彼らは武器を持って現実に戦場へ向うことが明らかとなった。彼らは、ビルマをはじめとして様々な地域へ配置されていった。

この切迫した状況を見て、民族主義者層は祖国を防衛するための軍隊を設立するという千載一遇のチャンスを感じ取った。この軍隊はインドネシア以外での任務を与えられてはならなかった。そういった理由からGatot Mangkuprajaはただちに軍隊設立の許可を得るため、日本軍指揮官へ請願した。そしてそれは同意されたのだった。1943年10月3日、日本はジャワとマドゥーラを支配していた第16軍司令官原田中将の署名にて"法令"(治政令*10)を発布した。新しい部隊は、PETA、つまり祖国防衛義勇軍と名づけられた。

その後ただちに訓練が開始され、ボゴールで最初の部隊が形成された。スマトラでは、1943年11月22日付け声明によってPETAが設立された。大隊指揮官としての訓練に合格したものは、ダイダンチョー*11と呼ばれ、中隊指揮官はチュウダンチョー、小隊指揮官はショウダンチョーと呼ばれた。ダイダンチョー及びチュウダンチョーとなるための教育を受けた人々は、社会的な名士である宗教指導者層や影響力のある政府高官出身者がその大部分だった。ショウダンチョー候補者たちは、中高等学校生徒から選ばれた。その他に、チマヒとマゲランで下士官の訓練が行われた。それを終了すると、10人程度の軍人(ギユウグン*12)を指揮する部隊指揮官(ブンダンチョー*13)となった。彼らは小学校卒業資格のある青年から構成された。

PETAは日本から訓練を受けた初めての軍事的エリートであり、その後の独立戦争時に重要な戦闘を行ったということを、知っておくことは重要である。彼らはゲリラの専門家だった。A. Yani*14、スハルト*15、そしてSudirman*16の各将軍は、PETA構成員の見本である。

女性の集団もまた同様に訓練へと忘れず駆り出されていた。その組織はフジンカイ*17と名づけられ、1943年8月に設立された。

[上記のような]一般的な組織・団体とは別に、イスラム層もヒズブラー*18(アラーの軍隊)と名づけられた半軍隊式の隊へと組織された。それは上記組織と同様に日本への支援を期待されていた。ヒズブラー(アラーの軍隊)は、1944年12月15日に設立され、その構成員は合計で50,000人に達した。ヒズブラーの訓練拠点はボゴールのCisaruaに置かれ、その訓練期間はおよそ2ヶ月だった。

[訳注]

※[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。

*1:戦時動員。原文「Pengerahan Barisan untuk Keperluan Perang」。直訳すると「戦時需要のための隊列動員」。単純に「戦時動員」としました。

*2:珊瑚海海戦。日・米両軍の被害状況に限定すると、日本側の方が被害は少なかったようです。しかし、この海戦の結果、日本軍は当初の目的「ポートモレスビー攻略」を放棄することとなり、それまで続いていた日本軍の前進は阻まれることとなりました。

参考ページ: 珊瑚海海戦-Wikipedia 外部サイトへのリンク

*3:セイネンダン。原文「Seinendan」。青年団をローマ字表記したもの。

*4:4月29日は昭和天皇誕生日。当時は「天長節」。

*5:ガクトタイ。原文「Gakutotai」。学徒隊をローマ字表記したもの。

*6:ケイボーダン。原文「Keibodan」。警防団をローマ字表記したもの。

*7:ボーゴダン。原文「Bagodan」。Bogodan(防護団)の綴り間違いと思われる。訂正しています。

*8:ボルネオ・コーナン・ホーコクダン。原文「Borneo Konan Hokokudan」。Hokokudanは報国団のローマ字表記。Konanはどういった日本語なのか分からず。

*9:ヘイホ。原文「Heiho」。兵補をローマ字表記したもの。

*10:治政令。原文「Osamu Seirei」。第16軍の別名は「治」でした。

*11:ダイダンチョー。原文は「Daidanco」。大団長のこと。以下同様に「Cudanco」(中団長)、「Shodanco」(小団長)

*12:ギユウグン。原文は「Giyugun」。義勇軍をローマ字表記したもの。

*13:ブンダンチョー。原文は「Bundanco」。分団長をローマ字表記したもの。

*14:A. Yani。PETA出身の陸軍軍人(中将)として有名。1965年の9/30事件で殺害された。中部ジャワ SemarangのA. Yani空港は同将軍の名前を採ったもの。

*15:スハルト。スハルト元大統領もPETA出身である。

*16:Sudirman。スディルマンはインドネシア独立戦争期の代表的な将軍。インドネシア各地の都市には、同将軍の名前を採った通りJalan Jenderal Sudirman(スディルマン将軍通り)が存在する。

*17:フジンカイ。原文「Fujinkai」。婦人会をローマ字表記したもの。

*18:ヒズブラー。原文「Hisbullah」。注意!→ヒズボラ(レバノンを中心に活動しているイスラム教シーア派の政治組織)は、Hizbullahと綴られることが多い。

練習問題

以下の質問に答えなさい!

課題(*1)

入手可能な学習資料を利用し、日本占領時代のインドネシア民衆の生活を映した写真について(5人前後の)グループで行う。日本占領時代に発生したブリタルでのPETAの反乱、もしくは他の反乱について簡単な解説をグループで作成する。クラス内でその解説を発表する。

[訳注]

*1: この「課題」(原文 Tugas)の内容は明らかに、次のセクション「B.社会・経済の動員」に関するものなのですが、「B.」に入る前に記述されています。このセクション「A.政治指導」の内容とは関連しませんので、誤解のないように。

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A.政治指導B.社会・経済の動員C.独立宣言への歩み更新記録

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