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私の好きなインドネシアインドネシア歴史教科書「日本占領時代」

第五章 日本占領時代

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A.政治指導B.社会・経済の動員C.独立宣言への歩み更新記録

2008年7月20日追加↓

C.独立宣言への歩み

1. 青年層に生まれた一体感

セイネンダン、ケイボーダン、PETA*1といった様々な組織の設立は、日本にその支援労力として利用されるものだった。しかし、それらは独立準備のためインドネシア民族によっても利用が可能であることが明らかとなった。例えば、青年Abdul LatifとSukarni は、独立準備において極めて大きな役割を担った。オランダ軍の第一次・二次侵攻といったオランダの再来に抵抗し治安を維持する上でヘイホ*2やPETAの部隊が担った役割もその重要さでは負けていない。日本占領時代、多くのインドネシア青年が厳しい様々な訓練を受けたことは幸運だった。それら訓練は連合国に抵抗する日本を助けるためだけでなく、むしろインドネシア民族自身の利益のためとなったことを証明した。

トナリグミ*3として教育された村落部の青年たちは自信を持った。その団体を通じて、民族の利益のために働くことを教え込まれたのだ。オランダ政庁から与えられていた軍事訓練・軍備は十分なものではなかったが、日本政府はインテリ層、都市部・村落部の青年など全階層からまさに軍事力を生み出した。[日本の]補助的なものと見なされてはいても、彼等はその経験を民族のために利用することができた。この事は、軍事的な能力を既に手に入れていたということから、特に自らを信じるという面で独立準備への大きな資質となったのだ。

[訳注]

*1:セイネンダンケイボーダンPETA。セイネンダンは原文「Seinendan」(青年団)、ケイボーダンは原文「Keibodan」(警防団)。PETAは「Pembela Tanah Air(祖国防衛義勇軍)」の略。

*2:ヘイホ。原文「Heiho」。兵補。日本軍の補助として組織された。

*3:トナリグミ。原文「tonarigumi」。「隣組」です。

2. 独立準備

太平洋戦争における日本軍はますます圧迫された状況にあった。特に1944年7月、太平洋での日本の防衛基地として極めて重要なサイパン諸島がアメリカの手に落ちて以降は。

そのような状況の中、小磯総理大臣は1944年9月7日、インドネシアに対し将来の独立を約束した。その約束を受けて、日本国旗*1の掲揚が許された。この事は、連合国に対決する上でインドネシア側からの支持を得る目的のため日本が実施したものだった。

それに続き、1945年3月1日にはインドネシアの独立準備作業研究の任を受けた組織の設立が、日本軍司令官原田将軍から公表された。また、この組織は独立インドネシアの政府システムに関する重要な諸問題の研究もその任務としていた。この組織はインドネシア人60名と日本人8名から構成されていた。しかし日本人8名は議決権を保有していなかった;だが、その組織の構成員は1945年4月29日*2に発表されたのだった。その議長として、長老派*3の闘士であるK.R.T. Rajiman Wedyodiningratが任命された。副議長は、インドネシア人であるR.P. Surosoと日本人イチバンガセ*4の2名だった。その組織の開会式は1945年5月28日に行われた。それはBPUPKI*5(インドネシア独立準備調査会、日本語ではドクリツ ジュンビ チョウサカイ*6)と名付けられた。

BPUPKIは2回の会議を開くことが出来た。最初が1945年5月28日−6月1日、二回目が同年7月10日−17日だった。最初の会議では、まず独立インドネシア国家の基礎についての問題が審議された。BPUPKI議長Rajiman Wedyodiningratが全会員に対し一つの質問を発したのはその場であった;我らが打ち立てるであろう独立インドネシアの基礎は何なのか? 多くの会員がその問いに対し答え、見解を表明した。それら記録の中には、Moh. Yamin、Supomo、スカルノがいた。しかし、解答者たちの中で、1945年6月1日のスカルノ(ブン・カルノ*7)の解答だけが的を得たものだった。

1945年6月1日、スカルノ工学士*8はパンチャシラ*9と呼ばれる5つの原則について説明した。この言葉については、まず言語学の専門家と協議を行っており、その結果5原則の命名として適切であると感じられた。この5原則とは次の通りである;

スカルノの提案によって、国家の基盤を決定するという最初の会議は成功したと判断された。インドネシア国家の基礎について、意見の一致はまだなかったとはいえ、スカルノの演説は熱い反応を得たのだった。この第一回会議の後一ヶ月の休会となった。そして、その休会前にスカルノが指導する9人委員会が形成された。その委員会の任務は、会員たちからの助言、提案、構想を取り纏めることだった。

1945年7月10日、BPUPKI第二回会議の最初にRajiman議長は9人委員会の成果報告を要請した。1945年6月22日、9人委員会は会議開催のための発議を行ったと、スカルノは報告した。9人のメンバーとはつまり、スカルノ、ハッタ、スバルジョ、Moh. Yamin、A. A. Maramis、K.H. Wachid Hasyim、H. Agus Salim、Abdul Kahar Mazakir、Abikusno Corosuyosoであり、彼等は一つの合意に達していた。それこそが、後にジャカルタ憲章またはジャカルタ・チャーター*10とM. Yaminが命名したものであった。1945年6月22日の憲章には、次のようなパンチャシラ国家の基本概念が織り込まれていた。

パンチャシラ国家*11の基本構想が仕上げられたのだ(その後、8月18日インドネシア独立準備委員会*12によって再び審議され、公式且つ合法的なものへ定式化された)。BPUPKIの第二回会議では、1945年7月10日−17日にかけて憲法法案が作成された。これは1945年8月18日に修正を少し加えられ、インドネシア独立準備委員会(PPKIもしくはドクリツ ジュンビ イインカイ*13)により1945憲法*14として制定されることになる。

1945年8月7日、BPUPKIは解散となり、21人から構成されるPPKI(インドネシア独立準備委員会)がそれに代わった。ブン・カルノがその議長となり、副議長にはブン・ハッタがなった。PPKIを公式に開設するにあたり、日本帝国の東南アジア司令官寺内元帥は、スカルノ、ハッタ、Rajimanを南ベトナムのサイゴン近くにあるダラトへ招聘した。その地で、この3人は寺内から日本帝国の名においてインドネシア民族に対し独立を与えると知らされた。サイゴンから帰路の途中、1945年8月14日シンガポールで、この3人はスマトラ出身のPPKIメンバー、Teuku M. Hasan、Abdul Abbas、M. Amirと会い、同じ飛行機でジャカルタへ向った。彼らがジャカルタに到着してみると、青年派と長老派の間に独立準備をめぐって対立のあることが明らかとなった。長老派にとっては、日本の敗北が確かだとしても、これまで切り開いた路線をそのまま継続することだった。しかし、逆に青年派は日本臭さが決して染み付かないように独立宣言の実行へ向けて指導したかったのだ。

その対立で青年派は政治家シャフリルの影響下にあった。青年派はジャカルタのPegangsaan Timurにある細菌学研究所*15で今後の活動を調整した。1945年8月15日のその時、その集まりの指導者はChaerul Salehだった。そこでの決定は、即座に日本との関係を断ち切り、日本の敗北を待つことなくインドネシアの独立を宣言するようスカルノとハッタに要求することだった。そのためにDarwisとWikanaが青年派の要望を伝えるためスカルノと会うよう要請された。しかし、スカルノはその要求を受け入れることが出来ないとわかり、そのため緊張が発生した。ハッタとスバルジョは青年派たちに、待つのが嫌なら自分たちで独立宣言をすれば良いと返した。スカルノたちの意見は、依然としてまず最初にPPKIの会議を開くべきということだった。この理解一致が得られなかったことの結果、8月16日早朝に青年派はYusuf Kunto、Sukarni、Singgihを派遣し、スカルノとハッタを“誘拐”してカラワン県のレンガスデンクロックへ連れ去った。これはレンガスデンクロック事件として知られている。彼等は何故レンガスデンクロックへ連れ去られたのか? レンガスデンクロックは郡部の一都市であり、その町ではどの勢力の手からも安全であった。さらにその地にはPETAの革命派部隊が存在していたのだ。

8月16日、前田*16はスカルノとハッタに日本降伏の知らせを伝えるつもりだった。スバルジョ*17はスカルノとハッタを探す任務を前田から命じられた。Wikanaの手助けによって、スバルジョはスカルノとハッタの居場所を見つけることが出来た。レンガスデンクロックに着くや否や、スバルジョは日本が降伏を明らかにしたと伝えた。そして、長老派指導者と青年派指導者の間では、スカルノとハッタをジャカルタへ戻し、出来るだけ早くインドネシアの独立宣言を行えるようにするという合意に達したのだ。彼等は夜遅くジャカルタに到着した。

彼等はジャカルタに到着後、PPKI、チュウオー サンギ イン*18、青年派の面々を集めることに成功した。最初、スカルノとハッタは独立宣言についての話をするため第16軍総務部長であるニシウラ*19の家に向った。しかし、ニシウラは連合国に日本が敗北した結果、1945年8月15日以降日本軍の任務は現状維持であるという確固たる考えであることが明らかとなった。その結果、行政管理者としてのニシウラはインドネシア民族に対し少しのチャンスも与えることが出来ないのだという結論が引き出された。とはいえ、彼はインドネシア国民の動きに対し、目と耳をふさぐつもりだった。PPKIの全メンバー並びに他指導者たちは、ホテルDes Indes(Duta Indonesia)*20で会議を行うとしたが、夜間の時間規制(22:00以降の集会は禁止されていた)のため、許可されなかった。

海軍提督前田は、ジャカルタのJalan Imam Bonjolにある自宅を独立宣言作成会議のために利用することを喜んで許可した。この歴史に残ることとなる部屋は食堂とベランダであった。独立宣言の起草は、スカルノ、ハッタ、スバルジョが行った。スバルジョとハッタの助言に基づき、スカルノが草稿を書き出した。また、Sayuti Melik、Sukarni、B.M. Diah、Sudiroが、この起草作業の証人となった。

朝の4時頃、独立宣言草稿が全会議参加者の前で読み上げられた。そして手書きの草稿はその後若干修正された。読み上げられた草稿は次の通りである。(綴りは修正済み*21)

独立宣言

我らインドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。
権力及びその他の委譲に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。

ジャカルタ、05年8月17日*22
インドネシア民族の代理として

当初、出席者全員がインドネシア民族代理として草稿に署名する予定だったが、青年派が反対した。なぜならその会議は日本の臭いがしていたからだ。Soekarniがインドネシア民族の名においてスカルノとハッタが独立宣言へ署名することを提案した。その提案は賛成され、草稿は次のような内容となった;

独立宣言

我らインドネシア人民はここにインドネシアの独立を宣言する。
権力及びその他の委譲に関する事柄は、完全且つ出来るだけ迅速に行われる。

ジャカルタ、1945年8月17日*23
インドネシア民族の名において
スカルノ/ハッタ
(スカルノ署名)
(ハッタ署名)

草稿は、当時青年派の一員だったSayuti Melikによってタイプ打ち[清書]された。この清書作業は小さなことのようだったが、やがて長老派と青年派の統一された精神を特色付けるものとなった。この2つの集団は独立宣言文の内容について当初譲り合わなかったのだから。次に、この宣言文を読み上げるのはどこであるか?ということだ。Sukarniは、民衆を集めるためIkada広場*24の準備が完了しており、問題はないと提案した。しかし、スカルノは安全のため別の考えを示した。Pegangsaan Timur 56、つまりスカルノの自宅の方が良いと。それは、Ikada広場で行った場合に予想される日本軍によるインドネシア独立宣言への干渉を懸念したからである。Pegangsaan Timur 56番で、10:00(日本時代のジャワ時間10:30)*24に独立宣言文を読み上げることが、会議で合意された。

<写真5.11 ブン・ハッタに付き添われ、Pegangsaan Timur 56で独立宣言を読み上げるブン・カルノ>

<写真5.12 1945年8月17日、独立宣言後のインドネシア国旗掲揚>

[訳注]

※[ ]内は、訳者が追加。他方、( )内は原文に元からある注。

*1:日本国旗の掲揚が許された。原文「diperkenankan mengibarkan dengan bendera Jepang」。「日本国旗」ではなく「紅白旗(インドネシア国旗)」の誤植だと思います。なお、1942年日本軍の到来を紅白旗と日の丸で迎えたインドネシアでしたが、同年3月末には、日本国旗(日の丸)のみが掲揚を許される旗となり、1944年9月7日の小磯宣言が出されるまで、紅白旗の掲揚は許されませんでした。
布告第四号 国旗使用ニ関スル件 昭和17年3月20日アジア経済研究所 - 図書館 - 岸幸一コレクション外部サイトへのリンクを参照ください。

*2:4月29日は当時の天皇(昭和天皇)誕生日。また「天長節」と当時呼ばれていた。

*3:長老派。原文「golongan tua」。当時、独立を目指す人々の中には世代(年代)によるグループが発生していた。一般に、青年派・長老派と呼ばれている。 中学校2年生向け社会科教科書「独立準備の過程」の記述 を参照のこと。

*4:イチバンガセ。原文「Ichibangase」。おそらく「一番ヶ瀬」という名前と思われるが詳細不明。 インドネシア版Wikipedia独立準備調査会 外部サイトへのリンクには「Hibangase Yosio」という名前で掲載されている。継続調査要。

*5:BPUPKI。Badan Penyelidik Usaha Persiapan Kemerdekaan Indonesiaの略称。

*6:ドクリツ ジュンビ チョウサカイ。原文「Dokuritsu Zyumbi Tyoosakai」。

*7:ブン・カルノ。原文「Bung Karno」。Bunは兄貴、兄さん、同志といった感じの呼称。ブン・カルノは親しみを込めてスカルノを呼ぶ際の呼称。

*8:スカルノ工学士。原文「Ir. Soekarno」。Ir.はinsinyur(技師/工学士/エンジニア)の省略形。独立の闘士としては妙な肩書きに見えるかもしれませんが、オランダ植民地支配下では、相当な高学歴者の証でした。

*9:パンチャシラ。原文「Pancasila」。サンスクリット語起源の言葉。pancaが「5」、「sila」が「原則」を意味している。

*10:ジャカルタ憲章。次のページに全訳がありますので、興味のある方は是非ご覧ください。
ジャカルタ憲章インドネシア共和国憲法

*11:パンチャシラ国家。原文「negara Pancasila」。パンチャシラを神聖不可侵な国是とするのはスハルト体制の特徴であったと言えます。この「negara Pancacila」という言葉は、このサイト内に訳出しているスハルト体制崩壊後の教科書( 中学校2年生向け高等学校3年生向け )には登場しません。また、パンチャシラという言葉の登場頻度もずっと少ないです。

*12:インドネシア独立準備委員会。原文「PPKI」。Panitia Persiapan Kemerdekaan Indonesiaの略称。

*13:ドクリツ ジュンビ イインカイ。原文「Dokuritsu Zyunbi Iinkai」。独立準備委員会のこと。PPKIと同意。

*14:1945憲法については、このサイト内の次のページもご覧ください。
インドネシア共和国憲法

*15:細菌学研究所。原文「laboratorium Mikrobiologi」。

*16:前田。ジャカルタ海軍武官府の前田精(マエダ タダシ)少将のこと。独立宣言文起草の場となった前田少将邸宅は「 独立宣言文起草博物館 」として現存しています。

*17:スバルジョはジャカルタ海軍武官府に勤務していた。

*18:チュウオー サンギ イン。原文「Chou Sangi In」。中央参議員のこと。

*19:ニシウラ。原文「Nisyura」。誤植です。正しくは「西村(ニシムラ)」総務部長。
西村総務部長の対応については、 中学校2年生向け社会科教科書訳 の注も参照ください。
西村総務部長の解答(ハッタ回想録から)

*20:ホテル デス・インデス。ジャカルタ市内のどこあたりにあったのか分かりません。なお、( )内は原注。直訳すると「インドネシア大使」の意味。

*21:綴りは修正済み。当時のインドネシア語は現在と若干綴り方が異なっており、この教科書に掲載されている文章は、現代風に綴りを修正している。綴り方の差異については、次のページを参照ください。
皇紀2605年の表記

*22:05年8月17日。この「05年」とは皇紀2605年(1945年)の「05」年。1942年~1945年の日本軍占領下では皇紀の使用や東京時間(現在のジャカルタ時間より2時間早い)の採用といった政策がとられていました。
布告第一五号 紀元及日本ノ名称使用ニ関スル件 昭和17年4月29日アジア経済研究所 - 図書館 - 岸幸一コレクション から)外部サイトへのリンク
「第一條 紀元ハ皇紀ヲ使用スヘシ皇紀ニ依レハ本年ハ二千六百二年ナリ」

*23:1945年8月17日。オリジナルの独立宣言文では「05年8月17日」と記載されています。しかし、現在のインドネシアでは西暦を使用しており、独立当時の記述も全て西暦に訂正されています。

*24:Ikada広場。現在、独立記念塔(Monas)のある辺り。

*25:10:00(日本時代のジャワ時間10:30)。日本時代のジャワ時間は東京時間と一致しており、現在のインドネシア西部時間(ジャワ島の時間帯)より2時間進んでいました。この「10:30」という表記はよく分かりません。

※この後、練習問題のセクションが続きますが、内容が次の章(独立戦争時期)に関するものであり、本章との関連性が低いので訳出は省かせていただきます。

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