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ここ数年、鉄道の利用者が減っています。都会で通勤や通学に利用している人にとっては、まだまだ混んでいると感じられるかもしれませんが、地方では確実に利用者が減っています。車の便利さになれてしまえば、1時間近く待たねばこない鉄道を利用する人は限られてきます。また、一番のお得意さまであった学生も、少子化の影響を受け少なくなっています。
このような状況下では、近代化から取り残された鉄道は、その使命を終える以外に路がなくなっています。積極策に打って出て、近代化して利用者を増やそうとしても、その投資額は一企業にはあまりにも重過ぎます。また、そもそも需要自体が存在しない場合もあります。
このページは、そんな最近に消えた、あるいは消える運命にある鉄道についての記録です。
1999年3月31日までで廃止、この区間の廃止と引き換えに新関−関間が開通しています。実は、関と美濃の間には長良川鉄道という第三セクターの会社も走っています。客が少ないので名鉄は撤退し、長良川鉄道にその輸送を任せたのですが、新関の駅は長良川鉄道の関市の駅と離れていたので、そこまで延長したのです。
現在、美濃町の駅跡には2両の電車が保存されています。(上の写真)
岐阜からは一部の時間を除き、電車は直通せず、新関でワンマンカーに乗り換えていました。この頃の美濃町線は、新関−美濃町間のみがワンマン運転でその他の区間は車掌が乗っていましたが、今は全区間がワンマン運転となり、2001年10月よりは運転本数も少なくなっています。(残った区間も2005年3月で廃止となりました。
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を参照)
1999年4月4日までで廃止、こちらについては 「再び来ない新潟の冬」 にまとめてあります。
1999年10月3日までで廃止、こちらについては 「蒲原鉄道」 をご覧ください。
2000年11月25日までで廃止、但し、黒崎駅前−熊西間は第3種鉄道事業者として存続、筑豊電鉄が第2種事業者として営業中。
かつては北九州市一円に路線を伸ばしていた西鉄の路面電車も、最後の区間が廃止されました。この区間は、専用軌道を走っていたので残っていましたが、JR鹿児島本線と完全に併走する形であり、JRが便利になると客はどんどん減っていきました。
2001年3月31日までで廃止、国鉄から民間会社へ転換された2社のうちの1社でした。(もう1社は、弘南鉄道の黒石線ですがこれも1998年に廃止されています。民間会社へ転換されたのはともに青森県の会社で、どちらもすでに廃止されたというのは、単なる偶然ではありません。)
本州最北を走る私鉄でしたが、本来は下北駅をターミナルにする線ではなく、JR大湊線で一駅行った大湊をターミナルとしていましたが、民営化時に線路が切られ直通できなくなってしまいました。沿線にはイタコで有名な恐山への入り口となる田名部があり、大畑から先大間を目指しましたが完成はしませんでした。
大畑の駅は今ではバスターミナルとなっていますが、鉄道施設は残されており、JASのパイロットの方が施設を借りて車両の動態保存を行っています。(現在、保存活動はNPO法人が行っています。)
2001年3月31日までで廃止、七尾線電化の際にJR西日本から移管された。(正確には、のと鉄道が第2種鉄道事業者で、JR西日本が第3種鉄道事業者)実家から距離的には近かったが、能登半島の先は遠くて、ついに訪れることはありませんでした。
2001年9月30日までで廃止。美濃町線廃止から2年で、またまた岐阜地区の4線区が廃止されました。愛知の三河地区でも同時期に廃止表明された線区がありますが、そちらは自治体からの補助を受けひとまず存続していますが、予断は許しません。
谷汲線は、揖斐線の黒野から華厳寺のある谷汲までを結んでおり、古い車両が1両で行ったり来たりしており、趣味的には大変趣のある線でした。昔は、新岐阜の駅前から直通の電車もあったようですが、廃止時には黒野で乗りかえる形を採っていました。
揖斐線は、忠節から本揖斐までの線ですが、末端部分の黒野から本揖斐までが廃止されました。路線としては1つですが、こちらも黒野で乗りかえる形態となっていました。谷汲線は、川沿いや山の中を行くといった雰囲気を持っていましたが、こちらは田園の中を行くというイメージが強かったです。
谷汲線と揖斐線と樽見鉄道、近鉄揖斐線は比較的近くを走っており、各線を結ぶバス路線もあり(本数はそんなに多くありませんが)、効果的に巡ることができるのでお気に入りの地域でした。
八百津線は、広見線の明智駅から分岐しており、以前は電車が走っていましたが、合理化のため架線がはずされディーゼルカーが走っていました。この線には記憶する限り、2度しか乗っていません。最初に乗ったときもすでにディーゼルカー(多分そのときの車両はキハ10型で今はくりはら田園鉄道にいます)でしたが、架線は残っていたように記憶しています。この車両を造った富士重工も鉄道車両生産からの撤退を表明しています。
竹鼻線も戸籍上は、本線の笠松から分岐して大須までが1つの線でしたが、江吉良と大須の間のみが廃止されました。江吉良からは新羽島まで羽島線が分岐しており、最近ではこちらの方がメインルートとなっていました。新羽島は、新幹線の岐阜羽島の駅前にあり、岐阜市内からの新幹線連絡を担っています。竹鼻線は、名鉄の支線区にしては珍しく写真にあるようなパノラマスーパーの増結車などが使われていましたが、利用客はそんなに多くなかったようです。
2002年3月31日までで廃止、河東線はしなの鉄道(元JR信越本線)の屋代から木島までが1つの線ということになっていますが、実際は、屋代−須坂間、須坂−信州中野間、信州中野−木島間の3つに分けられ運転されていました。長野−須坂−信州中野−湯田中が長野鉄道の本線格になり、信州中野−木島間は、通称木島線と呼ばれていました。木島は、飯山や野沢温泉に近く、結構、観光資源も豊富に思え、昔は国鉄からの直通列車もあったようですが、最近のお客は年寄りと通学生のみだったようです。
2002年5月25日までで廃止、和歌山県が第3種で、南海が第2種鉄道事業者であった線です。終点の水軒には何もなく、電車は1日に2往復、それもなんか中途半端な時間にあるだけでした。本来は、貨物用に造られたようですが、線路が廃止になるずっと前に貨物列車は廃止になっていました。
2002年7月31日までで廃止。東北新幹線の青森延長を期待して長い間休止していた南部縦貫鉄道が、皮肉にも東北新幹線の八戸開業を前にして、廃止されました。現役時代も運転本数が少なく、利用しにくい鉄道のひとつでした。開業時から上の写真に載っているレールバスを使っていました。野辺地と千曳の間は昔の東北本線を使っており乗り心地もまあまあでしたが、そこから先、七戸間での線路はあまり状態はよくなく、私が乗ったときもひどいピッチングで新幹線の運転手は怖くて乗っていられないのではと思いました。
貨物をあてに計画されましたが、開業時には運ぶものはなくなっていました。
2002年9月30日までで廃止。新潟港の臨海鉄道として営業していた新潟臨海鉄道は、赤字のためではなく、路線の一部が新潟港の改修計画に引っかかったために廃止されました。貨物は、趣味の範囲外なので黒山は通ったかもしれませんが見た記憶はありません。廃止にはなっていますが、路線の一部は生き残っており、新潟トランシス(旧 新潟鐵工所の鉄道車両生産部門)からの車両の発送に使われているようです。
2002年10月20日までで廃止、永平寺線を除く福井支社の各線はえちぜん鉄道(3セク)に譲渡され運転再開を目指して整備中です。2回の正面衝突事故を起こし休止中であった京福福井支社の各線のうち永平寺線については、3セク化されずに廃止されました。永平寺線には昔1回乗っただけでしたが、記憶が正しければ杉林の中の坂を走っていました。この線の目的はその名の通り永平寺に参拝する人を運ぶことですが、参拝客のほとんどが車を利用するようになってはいたし方ありません。また、越前本線の電車に連絡して運転されていたのですが、連絡するのは2本に1本で、もう1本はバスが電車と同じ扱いで走っていました。
2002年12月31日までで、廃止。廃止時には1日2往復それもなぜか昼前(朝夕には運転しない)、土日は運休ととても乗りづらい鉄道で、結局、廃止が決定してから1度だけ利用しました。鉄道の走っていない時間は、バスが代行していましたが、そのバスも写真に写っているレールバスよりも小型の車両が使われています。もともと収入の大半を貨物に頼っていたので、国鉄(JR)の貨物輸送改革による貨物の廃止時点で命運は決まっていたと言っても過言ではないと思います。
2003年11月30日までで廃止。可部線は、横川から三段峡までの路線ですが、途中の可部までは電化されており、そこから先は非電化でした。可部までは広島から電車が直通しており、そこから先へ行くのには、原則可部で乗り換えでした。本数にも大きな開きがあり、可部-三段峡間は、ローカルムードにあふれていました。廃線跡に観光鉄道を走らせようと活動している団体があるようです。
2004年1月30日までで廃止。この部分は都会の真中の路線の廃止であり、他の路線とは事情が違います。東急の本線といって良い東横線の横浜側の終端部が廃止となりましたが、これはみなとみらい線との相互乗り入れの開始によるものです。したがって終わりというよりは、再出発と言って良いでしょう。でも、少々疑問に感じる部分もあります。みなとみらい線との相互乗り入れとなったため、桜木町(みなとみらい線ではみなとみらい)方面と東急線は、運賃が合算となりあがってしまいました。割増運賃を適用してもかまわないので、みなとみらい線を東急の第二種区間とできなかったのでしょうか?第3セクターである横浜高速鉄道での運営には疑問が残ります。
2004年3月31日までで廃止。名鉄三河線の北端部と南端部がともに廃止となりました。先に廃止された八百津線と同様に、こちらも電車での運行からディーゼルカー(LDC)での運行になって久しい年月が経っています。この区間の廃止により、名鉄のDCは全滅となります。経費節減のため、電化から非電化の道を選ばざるような路線は、もう鉄道として維持するのは困難なようです。同じ選択をしたくりはら田園鉄道も廃止を表明しています。(くりでんも2007年3月で廃止になりました)
2005年3月31日までで、廃止。茨城県の私鉄の中で、唯一電化されていた日立電鉄線が、廃止となりました。昔から、合理化を進めていて早くからワンマン運転などの対策を行っていました。また、近年は、車両の近代化にあたり、営団(現 東京メトロ)銀座線の車両を導入していましたが、冷房車0の状況ではもはやとしか言えない....。
2005年3月31日までで廃止。第3セクターへ移管された国鉄線としてははじめてのケース。(私鉄へ移管されたものではすでに青森県で2線ありますが。)これにより、同社の路線は、第2種区間である七尾線のみとなりました。北海道ちほく高原鉄道の廃線も決まりました。(
ちほく線
は2006年4月に廃止されました。20参照)
鉄道で金沢から蛸島へ行くのは、東京へ行くのよりも大変でした。
2005年3月31日までで廃止。ついに、名鉄の600V線区がすべて廃止となりました。廃止前には、上下分離で岡山電軌への経営委託や、フランス鉄道運営会社への引継ぎ等の話題がありましたが、いずれも実現しませんでした。環境問題から、路面電車の復権が話題になる昨今ですが、一私企業だけでの運営、赤字の内部補助という形態には無理があるようです。
岐阜市内線は、末期には朝夕のラッシュ時を除いてすべての電車が揖斐線へと直通する形となり、市内線専用の570形は朝夕しか運転されていませんでした。直通電車だけとはいえ、日中でも15分間隔での運転であり、運転本数には問題がありませんでしたが、最後まで安全地帯があるのは岐阜駅前のみでした。なを、廃止時には、道路工事の関係から岐阜駅前-新岐阜駅前間は休止状態でした。
揖斐線は、すべての電車が岐阜市内線へ乗り入れており、1時間に4本の電車が走っていたので、ここで取り上げている廃止になったほかの線よりもずっと恵まれた環境にあったといえるでしょう。大正生まれの510形は、定期運用はありませんでしたが、大変人気者でした。私も、好きな路線だっただけにちょっとショックな出来事です。
美濃町線は、
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にもあります通り、廃止時には美濃までは行っていませんでした。徹明町-関間の路線でしたが、運行的には、名鉄岐阜(新岐阜から改称。但し、岐阜市内線の新岐阜駅前は廃止までそのままでした。)から、田神線を経由して関までがメインで、徹明町からは岐阜市内の日野橋あるいは野一色までの運行でした。
田神線は、先にも書いた通り、美濃町線と新岐阜(田神線の廃止時には名鉄岐阜と改称)の間を直接結ぶために造られた線路です。田神からは、各務原線へ入って名鉄岐阜まで行きました。そのため、田神には田神線用の低くて短いホームと、各務原線用の高くて長いホームがありました。また、架線電圧が違うため、美濃町線から田神線を経由して新岐阜まで運転する電車は、複電圧対応の設備が必要でした。
2006年4月20日限りで廃止。国鉄(JR)から転換された路線としては、初めての完全廃止となりました。もともと、3セクとして存在することに無理があったので、よくここまで持ったとも言えます。路線の一部は、保存鉄道として再開の予定です。
2006年9月30日限りで廃止。愛称ピーチライナーという新交通システムが廃止となりました。新交通システムとしては、初めてのケースとなります。わずか15年の歴史に終止符がうたれました。連絡している路線が、名鉄小牧線で都心へ直結していなかったこと、ニュータウン開発が予定通り進まなかったことなどから、利用者は最後まで伸びませんでした。
2006年11月30日限りで廃止。岐阜の山奥に残っていた国鉄転換路線の神岡鉄道も廃止となりました。もともと貨物輸送(硫酸)がメインで残された鉄道ですから、その貨物輸送がなくなってしまえば、運命は決まってしまいます。こちらの路線も、飛騨市が観光路線としての復活をめざしてます。
2007年3月31日限りで廃止。宮城県のくりこま高原の近くを走っていた、非電化の3セクの路線が廃止となりました。元は、栗原電鉄という電化されたローカル私鉄でしたが、親会社の三菱マテリアルが経営から撤退するに当たり株式が、地元自治体に譲渡され、非電化の3セク会社として再出発しました。しかし、鉄道として運営できるだけの乗客を集めることはできませんでした。ディーゼル化されたのちもほとんどの区間の架線が残っていましたが、スクラップの値上がりにより撤去を請け負う業者が現れたのは何か皮肉めいたものを感じます。
2007年3月31日限りで廃止。鹿島参宮鉄道、関東鉄道鉾田線、鹿島鉄道と時代とともに変わった路線も、つくばエクスプレスの開業と言う沿線外で発生した影響を受け廃止されてしまいました。社名にある鹿島とは、開業時に鹿島神宮を目指したことに由来します。鹿島に達することはありませんでしたが、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線開通後は、終点の鉾田から新鉾田へ歩けば(15分ぐらいはかかりますが)鹿島に行くことも可能になりました。
2007年3月31日限りで廃止。線名の由来となった宮地岳へ行かなくなったので、翌日より残った区間は貝塚線と改称された。同じ日に廃止された他の2線に比べ恵まれた環境にあったが、大手私鉄の路線の一部であったため廃止されてしまった。以前であれば、大手の路線網の一部として少々の赤字であっても内部補填で維持されることが多かったが、現在では大手であることが足かせとなって廃止される路線が見受けられる。
2005年9月6日の台風被害以来運休していた高千穂鉄道の延岡方が、2007年9月6日実施で廃止されました。(行政上の廃止実施日は実際に列車が運行されなくなる日を指します。このページでは原則、最終運行日を記述していますので手続き上はその翌日が廃止日です。高千穂鉄道については、長期の運休後の廃止のため、手続き上の日を】記述しています。)残りの区間についてもすでに2007年12月27日に廃止届けが出されているので、全線の廃止が決定されています。自然災害によって廃止を余儀なくされましたが、高千穂あまてらす鉄道という会社によってまずは遊覧鉄道として復活を目指しています。
2008年3月31日限りで廃止。もともと人の移動と合っていない線形でよくここまでもったと思います。ここは、三木の駅を神鉄の駅まで延長して初めて転換する価値があり、残念ながら当初からバス転換すべき路線だったのではないでしょうか?
2008年3月31日限りで廃止。雲仙普賢岳の大噴火から立ち直った区間も、ついには旅客減から廃止となりました。ただ、加津佐から諫早方面へ列車では遠回りで、同社のバスの方が早かったのですね。でもライバルは自家用車で、ドアツードアの魅力にはなかなか勝てません。ただ、高齢化社会を向かえやがて車を運転できない弱者の問題が大きくなることが予想されています。
2008年12月28日実施で、2005年以来台風被害で休止していたものが、ついに廃止されました。2007年に延岡-槇峰間の廃止(26項参照)以降も観光鉄道としての復活を目指す会社もあったので休止扱いになっていましたがついに廃止されました。地元も観光鉄道で復活に一本化できなかったようです。
2008年12月27日限りで廃止されました。近年、閑散路線の廃止を勧めている名鉄でまた路線が廃止されました。ただこの路線は、遊園地へのアクセスとモノレールの実験線的な目的で建設されたもので、老朽化もあり役割を終えての廃止だともいえます。
(以下続く)
地球温暖化や高齢化の問題から鉄道が見直される動きもあるようですが、まだまだ地方の鉄道は厳しい状況が続いています。
茨城交通湊線はひたちなか海浜鉄道に移行し、南海貴志川線は岡山電軌に経営が譲渡され和歌山電鐵として再出発。JR西日本富山港線は富山ライトレールに引継がれLRTとして再出発。JR西日本吉備線にもLRT化が言われているがどうなるか
近鉄北勢線は、三岐鉄道に譲渡され、近鉄養老線と伊賀線はそれぞれ分離子会社による第三種運行が行われている。
本当に、寒い時代になったものだ。このページが更新されない時代がくることを祈る。
2001/09/30作成
2002/06/04加筆
2003/05/26加筆
2004/04/11加筆
2005/06/19加筆
2007/01/01加筆
2007/06/24加筆
2008/06/08加筆
2009/07/25加筆
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