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チャレンジ! 箱根の山を自転車で越えてみる
2011年11月5日
2009年は自転車で
富士山五合目
まで行った。2010年は
日光いろは坂
を登った。2011年は…。自転車で箱根を越えてみようと思う。「天下の険」といわれた東海道の最難所であり、正月恒例の箱根駅伝でもお馴染みの、あの山岳ルートである。
最近だと東洋大学の“山の神”こと柏原竜二選手の激走が印象に残る駅伝往路5区の長い長い急な上り坂。あの映像を見て、普通の人はあの道を自転車で走ってみたい、とは思わない。僕も走りたいとは思わなかったが、もし走ってみたら、途中でバテて自転車を押して歩くことになるのだろうなぁ、行楽のクルマや観光バスがたくさん通るだろうし、かっこ悪いことになるだろうなぁ、とは毎年のように想像していた。そして、箱根の坂で悪戦苦闘する想像上の自分の映像はいつしか心の奥底に定着し、今度は自転車でどこへ行こうか、と考えるたびに、そのイメージがちらちらと頭に浮かぶようになり、富士山五合目やいろは坂を制覇した今、いよいよチャレンジの時が来たと考えるまでになっていたのである。
そもそも、なぜ自転車で苦しい思いをして、そんな坂道を上りたがるのか。それこそマトモな人には理解できない感覚だと思う。僕だって最初は上り坂は嫌いだった。今でも坂が辛いのは変わらない。大抵はバテバテのヘロヘロ状態になる。それでも、日本というのは山国なので、自転車で旅をすれば坂道を避けるのは難しいし、実際にあちこちで山越えを経験するうちに、どういうわけか、次はどこの峠に挑戦しようか、などと考えるのが普通になってしまったのだ。かなり変態的と言えるが、やたらと坂道を上りたがる、というのは多くの自転車乗りに広く見られる傾向でもあるようだ。
とにかく、箱根を一度自転車で越えてやろうじゃないか、という野心が最近になってムクムクと急激に頭をもたげてきた。本当は東京・大手町から箱根の芦ノ湖まで駅伝コースの完全走破も考えたのだが、それはまたいつの日かその気になったら、ということにして、とりあえずは箱根越えにチャレンジすべく、11月5日、土曜日の朝6時過ぎに自宅を出て、分解・袋詰めした愛車とともに小田急線に乗り、7時48分、小田原駅に到着した。小田急の急行は早朝から座席がほぼ埋まっていて、僕は1時間半近くずっと立ちっぱなしだった。
さて、小田原駅前で自転車を組み立て、ブレーキの効き具合を確かめつつ、8時に走り出す。輪行で旅に出て、目的地の駅で愛車を組み立てて走りだす瞬間というのは、ものすごく自由になったような解放感で、いつもなら気分最高なのだが、今日にかぎっては、もしかしたら無謀かもしれないチャレンジを前に不安な気持ちの方が強い。なので、颯爽と走りだす、というよりは、何やら重苦しいスタート。
(小田原城のお濠端にて)
まずは小田原城を眺め、桜の葉が色づいたお濠端で愛車の写真を撮ってやり、それから海岸へ行ってみる。陽射しはあるものの、水平線も伊豆や箱根の山々も霞んでいる。天気予報では今日の午前中は晴れで、午後は曇り、明日は雨とのことだ。
(海も山も霞んでいる)
小田原の海岸をあとに、いよいよ箱根路へと出発。
御幸ヶ浜の交差点で国道1号線に入る。ここからは駅伝と同じコースである。箱根口、早川口の信号を過ぎ、JR東海道線・箱根登山鉄道のガードをくぐり、新幹線の高架下を抜ける。このあたりはまだ坂もゆるやかで、快調である。ただ、交通量が多く、バスや大型トラックも頻繁に通るので、要注意だし、排気ガスも気になる。これから坂がきつくなると、毒ガスはますますひどくなりそうだ。
箱根板橋駅を左に見て、まもなく箱根登山線の鉄橋が斜めに道路を越えて、線路が右に移る。当分はこの小さな鉄道とも付かず離れずしながら箱根の山に挑むわけだ。
風祭には小田原蒲鉾の鈴廣本店がある。かつては箱根駅伝4区と5区の中継所だったが、2006年から往路の小田原中継所が3キロ手前のメガネスーパー本社前(小田原市本町)に変更になり、復路6区と7区の中継だけが鈴廣前で行われている。ここから芦ノ湖のゴールまで大体20キロぐらいのはずだ。
入生田を過ぎ、小田原市から箱根町に入る。芦ノ湖から流れ下って相模湾にそそぐ早川の谷もだいぶ狭まってきた。
新宿発箱根湯本行きの小田急ロマンスカーに追い抜かれ、最近「恒久無料化」されたらしい箱根新道(自動車専用)を左に見送ると、まもなく箱根湯本の温泉街が見えてくる。箱根へ登る道路としては、湯本から早川の支流・須雲川に沿って旧東海道のルートをたどる畑宿経由の県道732号線と、宮ノ下、芦之湯経由の国道1号線があり、ここが分岐点だ。最高地点の標高は畑宿経由の方が低く、県道の方が楽なのかもしれないが、ここは箱根駅伝と同じく現在の東海道・国道1号線をそのまま進む(実は県道=旧東海道経由の方が坂がきついらしい、ということはあとで知りました)。
(早川にかかる三枚橋から見た箱根湯本駅。ロマンスカーが停車)
先ほどのロマンスカーでやってきたらしい観光客で賑わう箱根湯本駅前を8時半頃に通過すると、坂も急になってきた。ちなみに箱根湯本駅の標高は108メートルとのこと。小田急の車両が乗り入れられるのも湯本まで。登山電車は湯本を出ると、いきなり80パーミル(1000メートル進んで80メートル上る)という急勾配だ。道路の幅も狭まり、いよいよ山岳地帯に入ったと実感する。まぁ、時間はたっぷりあるし、急ぐ理由は何もないから、のんびり行こう。空はいつしかどんよりと曇って、あまり暑くないのは助かる。といっても、すでに汗をかいているが…。
完全に峡谷となった早川を右岸に渡り、すぐに落石防護の函嶺洞門を抜ける。箱根駅伝でもお馴染みのポイントだし、写真を撮ろうかと思ったが、道幅も狭いし、後続車も次々来るので、そんな余裕もなく、一気に走りぬけた。
ところで、ここまで自転車で箱根の山に挑むのは初めてのように書いてきたが、この道を自転車で走るのは実は初めてではない。ちょうど10年前の2001年9月に富士山麓の河口湖から西湖や忍野八海、山中湖あたりをサイクリングした後、籠坂峠を越えて御殿場に下ったのだが、時間が余ったので、国道138号線で箱根外輪山をよじ登り、乙女峠をトンネルで抜けてカルデラ内に入り、箱根湯本を経て、小田原まで走ったのだ。この時は宮ノ下からいま走っている国道1号線を逆に下ってきたわけだが、連休中のため大渋滞していて、曲がりくねった急な下り坂の左端をクルマの列に沿って走る自転車も全区間ブレーキのかけ通しで、湯本に着く頃には握力がなくなるほどだった。今までで一番辛い下り坂の記憶である。ちなみに、あの時の上りは御殿場の標高がすでに450メートルぐらいだったから、それほど辛くはなかった。今日より暑かったので、楽でもなかったけれど。坂の途中で秋の虫カンタンが鳴いていたのを思い出す。
さて、再び早川の左岸に渡ると、塔ノ沢。駅入口の案内板が立っているが、登山鉄道の駅は山の中腹のトンネルの狭間にあり、道路からは見えない。
もう一度、早川の渓谷を渡り、険しい道を上る。急なカーブと坂が続き、きついが、まだ大丈夫。バスやクルマがひっきりなしに追い抜いていくので、やり過ごすフリをして、適当に休みつつ、ゆっくり上る。ギアはすでに湯本を過ぎたあたりから一番軽くしてある。平地だったらほとんどペダルが空回りする感覚だが、箱根の坂ではちょうどいい。
まもなく箱根登山鉄道の鉄橋の下をくぐった。国道と鉄道は大体並行して走っているはずなのだが、線路は鬱蒼とした山林の中に姿を隠していて、道路から滅多に見えない。このあたりに最初のスイッチバックとなる出山信号場があるはずである。
木々の葉が色づき始めた中を上っていくと、すこし辛くなりかけた頃、左側の崖に小さな滝がかかっていた。蛙(かわず)の滝というそうだ。手書きの説明板がある。
「むかし、この辺に悪い病気がはやった時、この滝の近くに住んでいた蛙が村人の夢まくらに立ち、木かげを作ってくれるなら病気をなおしてあげようと言いました。村人が言うとおりにすると、病気がなおったことから付けられたと言われています」
ずいぶんテキトーな伝説である。車の観光客はノンストップで走り過ぎていく。
(蛙の滝)
その滝のそばに「大平台2km 宮ノ下3km」の標識があった。坂は急になったかと思えば、少し緩やかになる、といった具合で、この調子なら、なんとか行けそうだな、と思う。事前の予想では、この辺ですでにへばっているはずだったが、まだ元気はある。ちょっと滝を見物して、ひと息入れただけで、その後、またスピードアップ。今のところ、時速10キロ以上はずっとキープしている。
やがて、大平台のヘアピンカーブ。ここでも写真を撮って、ひと息。けっこうな急勾配に見えるが、実際には意外に走れる。
(大平台のヘアピンカーブ。二段の道路の間にスイッチバックの駅がある)
8時55分に大平台駅前に出た。スイッチバックの駅で、自転車をとめて、駅を見物。先ほどまで道路より高いところを通っていた線路が、ここでは駅舎から見下ろす位置に崖っぷちにへばりつくようにある。大平台駅は道路のヘアピンカーブに囲まれた位置にあり、線路はここで行き止まりとなり、電車は進行方向を変えてさらに山を上っていくわけだ(すぐ先に第3のスイッチバック、新大平台信号場がある)。ちなみに大平台駅の線路標高は349メートルとのこと。
(スイッチバックの大平台駅)
大平台にはお寺や神社、温泉旅館、商店などがあり、いかにも休憩したくなる雰囲気だったので、自動販売機でスポーツドリンクを買って一服。今朝は家を出る前にパンを一個食べた以外は無補給でここまでやってきた。
集落内に小さなお堂があり、「子育て阿弥陀如来」という石仏が安置されていた。お堂の脇には水が湧き出ていたので、汗にまみれた顔を洗う。さっぱりして出発。
急な上りをなんとか乗り切ると宮ノ下。古くから避暑地・保養地として知られる土地で、昔は外国人専用だった老舗・富士屋ホテルをはじめ、高級そうな宿が並ぶほか、寄木細工の店などもある。
大平台では道路より下にあった鉄道の駅がここではずっと高い位置にあり、国道から急な坂道が通じている。箱根登山鉄道は普通の鉄道ではありえないような急勾配を登ったり下りたりしているのだ。
国道1号線はここで左に折れる。まっすぐ行けば仙石原で、御殿場方面へ抜けられる。この道を10年前に下ってきたわけだ。
(宮ノ下。画面中央に映っているピコットというパン屋も有名らしい)
9時15分に宮ノ下を過ぎると、ここからはまさに初めての道。坂も一段と急になった。楽ではないが、まだバテてはいない。順調に行けば、10時過ぎには芦ノ湖畔に着きそうだ、と頭の中で計算する。
蛇骨野という土地で沢を越える場所があり、そこでまたひと息入れる。急斜面の上の方を登山電車が通過していった。もうすぐ小涌谷駅の踏切に到達するはずだ。
まもなく、道路のすぐ下でガサガサ、バキバキッという動物が逃げる音。あっというまに茂みの中に隠れてしまい、茶色っぽい体がちらっと見えただけだが、音の大きさと敏捷さからシカではないかと思う。ただ確証はない。案外、野良犬だったりして…。
箱根駅伝で選手が通過する際に電車の方が停止して待ってくれるので有名な小涌谷の踏切までやってきた。時刻は9時28分。ちょうど警報機が鳴りだし、小涌谷駅を発車した湯本行きの電車が通り過ぎ、急勾配を下っていった。小涌谷駅の標高は535メートルだそうだ。
ここで強羅へ向かう鉄道と分かれて、国道は箱根カルデラの中央火口丘群の間を縫うように上っていく。
そもそも、箱根は今なお活動を続ける火山地帯である。その形成史は非常に複雑で、解明されていないことも多いようだが、最初に火山活動が始まったのは最近の研究によれば65万年ほど前まで遡るという。タイプの違うさまざまな噴火、爆発を繰り返し、成層火山や溶岩ドームを次々と生み出し、陥没や山体崩壊、浸食などもあり、二重カルデラと多くの中央火口丘を持つ複雑で多様な火山地形を見せてくれる場所である。今年3月の東日本大震災直後には箱根でも火山性地震が増えたというニュースが伝わった。今のところ、地下のマグマは観光客のために温泉を沸かしたり、名物の黒玉子を茹でたりといった活動しかしていないようだが、いつの日か、また本格的に暴れ出し、箱根の地形を変えてしまうのかもしれない。
大平台で買ったスポーツドリンクが早くもなくなりそうなので、小涌谷のコンビニでペットボトルの水を買い、9時40分に小涌園やユネッサン(温泉施設)があり、湯けむりが立ち昇る小涌谷中心部を抜ける。ここで強羅や大涌谷方面への道が分かれ、行楽のクルマの多くはそっちへ向かっていった。
(観光客の多い小涌谷)
いろいろと見どころのあるらしい小涌谷を何もみないまま過ぎると、いくらか坂が緩やかになり、部分的に紅葉がきれいな、静かな山道を黙々と走る。周囲の山々の感じからも、だいぶ登ってきたな、と思う。
やがて、「猿の茶屋」というバス停があった。それらしい茶屋は見当たらなかったが、写真を撮って、また走り出す。最高地点までもうすぐのはずなので、心にはだいぶ余裕が出てきた。もっとバテバテのヘロヘロ状態になる予定だったのだが、このまま無事走破できそうだ。まぁ、駅伝ランナーと違って、あちこちで休みまくっているのだから、自慢はできない。
猿の茶屋バス停の先に気温の電光表示があり、「只今の気温15℃」となっていた。暑くもなく、寒くもなく、自転車で走るのにちょうどいい気温。
(猿の茶屋バス停)
しばらく行くと、左から草深い小道が合流する。「鎌倉古道・湯坂道」とある。江戸初期に東海道が整備される前に主に利用された街道らしい。
徳川幕府が整備させた東海道は箱根湯本から須雲川沿いの谷筋を行き、元箱根に至るが、この湯坂道というのは湯本から湯坂山、浅間山、鷹巣山と尾根筋を行き、芦ノ湯を経て、芦ノ湖畔の元箱根に通じていたそうだ。箱根権現を崇敬した源頼朝が箱根神社や伊豆山神社(熱海市)、三島大社への参詣道として整備させたともいう。
ちなみに、もっと前、古代の街道は箱根外輪山の北側、足柄峠を越えるのがメインルートで、このルートが富士山の噴火による火山灰で埋没した時に開かれたのが箱根越えの湯坂道だったのだろう。
足柄峠
は数年前に自転車で越えたが、今回よりきつかったという印象がある。
さて、湯坂道と合流して、まもなく芦ノ湯。古くから知られた「箱根七湯」(湯本、塔ノ沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、芦ノ湯)の中で最も高い場所にある、由緒ある温泉場だ。
芦ノ湯でいったん下って、また上ると、10時11分、ついに国道1号の最高地点に到達。箱根中央火口丘の駒ケ岳(1327m)と二子山(上二子山、1091m)の鞍部に位置し、標高は874メートルである。休み休みとはいえ、やはり、天下の険・箱根を制したぞ、という達成感がある。楽だったとは言わないが、さほど苦しまずに、ここまで来れたのは意外だった。
お決まりの写真(↑)を撮って、ここからは芦ノ湖畔まで下るだけ。一気にダーッと下るつもりだったが、少し行くと、左手に何やら大きな石塔(五輪塔)が3基並んでいるのが目にとまった。さらに近くの巨大な岩には地蔵尊らしき磨崖仏も…。
まったく知らなかったのだが、このあたり、旧湯坂道に沿って鎌倉時代から室町時代にかけて造られた石塔や石仏が点在しているらしい。案内板によれば、「元箱根石仏・石塔群」として国の史跡にも指定されているようだ。
(左の2基が「曽我兄弟の墓」、右が「虎御前の墓」(1295年建立)
(磨崖仏、「二十五菩薩」の一部)
最初に現れた3基の五輪塔は俗称を「曽我兄弟の墓」と「虎御前の墓」という。
五輪塔は下から地・水・火・風・空という密教における宇宙の五大要素を象徴する石を積み上げた仏塔で、鎌倉時代に墓や供養塔として盛んに造られた。ここにあるのは向かって右端の「虎御前の墓」に刻まれた銘から鎌倉後期の永仁3(1295)年に地蔵講の人々が建立したものと分かるが、それを後世(おそらくは江戸時代)の人たちが鎌倉初期の仇討ちの物語で知られる曽我兄弟と兄・十郎の恋人だった虎御前の墓と見立てたようだ。もちろん、根拠はないが、いずれにしても、700年以上もの歴史を持つ貴重な歴史遺産で、国の重要文化財に指定されている。
石仏・石塔群をめぐる散策路は地下道で国道の反対側に抜けて続くが、とりあえず自転車に戻って国道を走りだす。
(紅葉の始まった精進池あたり)
すぐに右下に小さな水面が広がった。精進池だ。どんよりとした曇り空の下、美しいというよりは寂しげな風情を湛えている。火山活動が生み出したこの小さな池は霧に包まれることも多いといい、街道を旅した昔の人々は厳しい山路の果てに広がる幽玄な眺めに、賽ノ河原や地獄をイメージしたそうだ。そこから地獄をさまよう人々を救ってくれる地蔵菩薩の信仰と結びつき、多くの石仏・石塔が造立されたのだ。
(中世の人々がこの世の地獄と考えた精進池)
(精進池全景)
道路沿いの精進池を見下ろす位置に保存整備記念館というビジターセンターがあったので、立ち寄ってみた。
鎌倉時代に湯坂道が開かれて以来、地獄と見なされてきた精進池周辺の歴史とそこに造られた石仏・石塔に関する解説パネルをざっと眺め、管理人のおじさんの勧めに従って、まずは六道地蔵を見に行く。これだけは見た方がいいとのことだ。
精進池に沿った散策路を歩き、国道下の地下道を抜け、石段を登ると、そこかしこに石が積まれ、賽ノ河原を思わせる風景が広がった。そして、その奥に地蔵堂。ほの暗い中に黒々としたお地蔵さまの坐像。白毫が光を放っている。これが六道地蔵。一見、丸彫りかと思うが、背後の巨岩に浮彫りした磨崖仏である。蓮華座を除く像高は3.15メートルあり、磨崖仏の地蔵菩薩坐像としては国内最大級という。銘文によれば、正安2(1300)年の造立というから、もう700年以上も二子山の麓に当たるこの地で街道を旅する人々を見守り続けているのだ。
(1300年造立の磨崖仏・六道地蔵)
「六道」とは仏教における天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六つの世界をいい、人間は生きては死に、生まれ変わっては、また死ぬという繰り返しの中で、生前の行いに応じて、六道のうちのどこかに生まれてくる。こうして永遠に六道をさまよい続ける衆生を救ってくれるのが地蔵菩薩ということから、いつの頃からか、地獄の地に立つこのお地蔵さまは「六道地蔵」と呼ばれるようになったらしい。
とにかく、お地蔵さまに手を合わせてから、再び地下道を通って、精進池畔に戻り、散策を続ける。
次に出合うのは上部を失った宝篋印塔。造立は室町初期の観応元(1350)年で、「八百比丘尼(やおびくに)の墓」との俗称を持つ。八百比丘尼は若狭国(今の福井県)の漁村に生まれ、人魚の肉を食べたことから永遠の命と変わらぬ若さを手に入れたが、身の回りの人たちにはみな先立たれ、やがては周囲の人々から疎まれるようになり、各地をさまよった末に、世をはかなみつつ、岩窟の中で800年に及ぶ生涯を閉じたという伝説上の女性である。箱根山上の霊場こそが八百比丘尼終焉の地というに相応しいと考えられ、誰ともなく、そこにひっそりと残された石造物を彼女の墓と呼ぶようになったのだろう。
(「八百比丘尼の墓」の俗称を持つ宝篋印塔残欠)
そのそばには岩に刻まれた3体の地蔵尊。応長元(1311)年七月八日の銘があることから「応長地蔵」の名があり、これも国の重要文化財である。
この地域には身内の不幸に際して、このお地蔵さまの前で送り火を焚き、精進池畔で花や線香を供えて、霊を山に送る風習があったことから、応長地蔵は別名「火焚地蔵」とも呼ばれたという。
(精進池に向いて立つ応長地蔵。背後の斜面上に国道)
さらに歩くと、「多田満仲の墓」と呼ばれる立派な宝篋印塔が立っている。
この高さ3.6メートルにもなる石塔は永仁4(1296)年の造立で、塔身部の北面に仏像が浮き彫りされ、他の3面には胎蔵界四仏を表す梵字が刻まれている。ただし、長い年月の間に地震などにより倒壊と再建を繰り返しているらしく、最上部の相輪は後補のものという。1930年の北伊豆地震でも倒壊し、その後、積み直されたが、この時、仏像面を国道側(東)に向けて立てられた。近年、再び倒壊の危険が迫り、また表面の風化も進んでいたことから、1995年から1997年にかけて、すべての部材を解体し、補強、補修を施して再建したとのこと。この時に塔の向きは元に戻されている。総事業費は938万円也(半分を国が補助、残りの3分の1は神奈川県、3分の2を所有者=箱根町が負担)。
ところで、この塔の俗称「多田満仲の墓」。多田満仲(997年没)は源氏の始祖・源経基(清和天皇の孫)の子にあたる人物で、源義家や源頼朝、あるいは足利尊氏、新田義貞などはみな満仲の子孫である。満仲は摂津国の多田(今の兵庫県川西市)に土着したことから多田姓を名乗ったわけだが、僕の地元である東京都世田谷区から目黒区にかけて、平安時代から菅刈荘と呼ばれた地域があり、これが多田満仲に関係のある荘園だったのでは、という説があって、個人的にちょっと興味のある人物でもあるのだ。もちろん、この宝篋印塔と多田満仲を結びつける根拠は何もないのだが。
(多田満仲の墓。左写真の仏像が彫られているのが北面。背後の斜面は二子山)
(精進池と二子山。山腹に六道地蔵堂が見える。
それから精進池を一周する散策路を歩き、改めて整備保存記念館で復習して、自転車に戻ったのが11時05分。結局、石仏・石塔めぐりに1時間近くも費やしてしまった。
あとは急カーブの続く坂道を一気に下って、畑宿経由の旧東海道(県道732号線)と合流し、芦ノ湖畔の元箱根に着いた。芦ノ湖の湖面標高は725メートルなので、最高地点からは150メートル近く下ってきたことになる。
霊気に満ちた精進池とは対照的に、人だらけ、クルマだらけの賑わいで、芦ノ湖には遊覧船やボートが浮かんでいる。こういう超有名観光地では自転車はちょっと浮いている。ただ、電動自転車のレンタサイクルもあるようだ。僕は電動自転車には乗ったことがないのだが、あれだと箱根の坂も楽勝で上れるのだろうか。芦ノ湖畔で借りて、湯本あたりまで下って、また上ってくるとか…。途中で充電が切れたら悲惨である。
(芦ノ湖までやってきた!)
まずは箱根神社に参拝。
古来、箱根は山岳信仰の霊場だったが、奈良時代の天平宝字元(757)年、万巻上人が御神体とされた駒ケ岳の麓にあたる現在地に里宮を建てたのが箱根神社の始まりだという。祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)の夫婦神とその子・彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)で、あわせて箱根大神(ハコネノオオカミ)という。仏教、特に修験道と結びつき、箱根大権現と呼ばれ、関東総鎮守として、源頼朝以来、歴代の関東の支配者たちにも厚く崇敬されたが、豊臣秀吉軍の小田原攻めの際に戦火で焼失。徳川家康が再建し、幕府の祈願所として保護し、東海道・箱根宿が開かれたことから武家から庶民まで、より多くの信仰を集めた。その後、明治の神仏分離により箱根神社と改称され、交通の発達にともなって参拝者は増え続け、明治天皇の行幸以降、天皇家の方々も多く参拝されている。
(箱根神社)
長い石段を登り、千歳飴を手にした七五三の子どもの姿もちらほら見られる神社を拝み、境内にある九頭龍神社の龍神水をペットボトルに汲み、今度は石段を湖岸まで下り、有名な湖上に立つ朱塗りの鳥居(平和の鳥居)を見て、再び自転車で走りだす。
(龍神水と「平和の鳥居」。戦後日本が独立を回復した1952年に建立。扁額の「平和」の文字は吉田茂の揮毫)
ずっと曇りのままかと思ったら、いつのまにか青空が広がってきた。
山のリゾートっぽいホテルやレストランの続く湖岸の道をあてもなく走り、元箱根の観光街に戻る。
遊覧船が発着する湖畔に出ると、富士山もちゃんと見えている。まだ雪化粧はしていない。西から東へと雲が流れていて、それが時折、富士山を隠したり、駒ケ岳の山頂を覆ったりしている。
NHKの朝のニュース番組でもお馴染みの芦ノ湖と箱根神社の鳥居と富士山というお決まりの写真を撮ったり、湖上を行く海賊船を眺めたり、湖岸の一角に古い石仏や石塔が並んだ「賽ノ河原」を訪れたりして、しばらくはのんびり時間を過ごす。
(箱根といえば…の定番写真)
(左が駒ケ岳、右が二子山。その間を越えてきた)
(曳航されるスワンボートの行列)
食事をしたいのだが、どの店も非常に混んでいる。全身サイクリングウエアでビシッときめたロードバイクの本格派サイクリストが湖畔でコンビニのおにぎりを食べている。僕もコンビニ弁当でも買おうかと思ったが、それも気が進まない。
結局、何も食べないまま、走り出す。旧東海道の杉並木や関所跡を過ぎ、ようやく箱根駅伝のゴール地点にやってきた。最後の曲がり角のところに「襷」の文字が彫られた石碑のある駅伝広場があったり、往路ゴール/復路スタート地点を示す標柱が立っていたり、箱根駅伝ミュージアムまであるのだった。
(箱根駅伝の往路ゴール/復路スタート地点。突き当たりは芦ノ湖)
さて、このあとどうするか。外輪山にぐるりと囲まれた箱根カルデラ内にいるので、どちらへ下るにしても、まずは上らなければならない。同じ道を小田原に引き返すのはつまらないので、大観山経由で湯河原に下るか、または国道1号をそのまま進んで箱根峠を越えて三島に下るかだ。迷ったのだが、今回は箱根越えにチャレンジという趣旨なので、東海道のルートに従って三島へ向かうことにする。たぶん、それが一番楽でもあると思う。
芦ノ湖畔をあとに再び上り始める。右にカーブしていくと、湖の展望が広がり、続いて左にヘアピンカーブを曲がると、1キロ足らずで箱根峠の道の駅に着いた。ここで、なめこ蕎麦の昼食。三島市の農産物も販売していて、1本100円の焼いももあったので、これも買う。
(道の駅・箱根峠)
熱くてホクホクの焼いもを食べながら、箱根の大景観を眺める。箱根は東京人にとっては身近な観光地だし、僕も子どもの頃から何度となく訪れているけれど、今回の精進池のように知らない場所もまだまだたくさんある。自転車ももちろん楽しいけれど、箱根は登山電車やケーブルカー、ロープウェイ、遊覧船などの乗り物ワンダーランドとしても周遊ルートが確立していて、これも魅力的。そして、湯坂道や旧東海道を歩いてみるのもいいな、と思う。また来よう。
ところで、ここに芦ノ湖の成立に関する説明書きがあった。
「芦ノ湖が生まれたのは、約2万6千年まえと言われています。噴火によるたい積物で早川がせき止められ、仙石原を含め現在の芦ノ湖より4倍も広い、古芦ノ湖が誕生しました。
古芦ノ湖の水位は現在より50mほど高く、早川のほか須雲川にも水を落としていましたが、小塚山付近の侵食が進み、早川への流れが増すにつれ水位が下がり、須雲川への流れが止まりました。
そして、いまから3千年前大涌谷の爆発で起きた神山の山崩れによって、古芦ノ湖は仙石原と現在の芦ノ湖に分離され、下流に位置する仙石原は水が早川へ流出し、干上がって湿原となりました」
(芦ノ湖の向こうに左から雲をかぶった駒ケ岳、上二子山、下二子山。いずれも箱根カルデラの中央火口丘)
道の駅を出発して、さらに少し上ると芦ノ湖から直線的に登ってきた旧街道と出合い、続いて箱根新道と分岐・合流し、まもなく標高846メートルの箱根峠。ここから静岡県函南町に入る。
(箱根峠付近の旧街道と味気ない現代の箱根峠)
あとはひたすら下るだけだ。路側帯の幅も十分にあって、グングン加速していく。しかし、ここは国道1号線。交通量も多く、しかも大型車が頻繁に来るから注意せねばならない。途中でタヌキも轢かれて死んでいた。おまけに道路際のススキや笹が路上にはみ出していて、ススキはともかく、笹が腕などに当たると、ムチで打たれたみたいに痛い。木の枝だともっと怖い。避けたくても車道側にふくらんで走ると、後続車があり危険だ。最初は広かった路側帯も急に狭くなったりして、そうなるとクルマに怯えつつ、ビシビシバシバシと腕をムチで打たれっぱなしで下るほかないのだった。
(ビュンビュン下るが、路上にはみ出たススキや笹が多い)
危険だし笹のムチも痛いので、なるべくスピードは控えめにと思いつつ、それでもビュンビュン風を切って下る。小田原側がどちらかといえば鬱蒼とした印象だったのに対して三島側は尾根筋の明るい道が続く。下界の見晴らしもよく、遠くに海も霞んで見える。沼津方面だろう。
函南町から三島市に入ると、まもなく石畳の旧街道と出合い、国指定史跡の山中城址がある。山中城は戦国末期の永禄年間(1558-70)に箱根山の西麓、標高580メートル付近を中心に小田原の北条氏が築いた山城だが、天正18(1590)年3月、天下統一をめざす豊臣秀吉軍の前にわずか一日で落城した。三島市が発掘調査と史跡公園化を進めていて、興味はあったが、想像以上に広くて、歩くと時間がかかりそうなので、空濠の跡をちらっと見ただけで出発。
(山中城址)
(遠くに海が見える)
あとはとにかく三島の街までひたすら下って、三島駅から電車で帰るだけ。だんだん高度が下がり、沿道にも人家が増えてきた。東海道最大の難所、箱根八里を完走して、ゴールはもう目前だ。
本日の走行距離は59キロ。
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