このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


《東京の水辺を訪ねる》
野川じてんしゃ散歩 Part1(二子橋〜神明橋)

 
 国分寺市恋ヶ窪に源を発し、武蔵野の湧水を集めて流れ、世田谷区で多摩川にそそぐ全長20キロ余りの小河川、それが野川。古代の多摩川の流れによって武蔵野台地が削られて形成された国分寺崖線(地元の方言でハケと呼ばれますが、正確にはハケとは崖下の湧水のある窪地のことだそうです)に沿った野川は名前の通り、東京の川にしては緑が多く、その川沿いの道は僕のお気に入りのサイクリングコースでもあります。下流から上流へと、のんびり走ってみました。

 
(注)説明文中に「右岸」「左岸」という表現がたびたび出てきますが、これは川の流れる方向、つまり河口に向かって右、左ということですので、念のため。

   パート2(中流編)    パート3(上流編)    パート4(源流編)     東京の水辺へ     自転車の旅Indexへ     トップページへ


     兵庫島(世田谷区玉川3丁目)

 野川は東急田園都市線・二子玉川駅付近で多摩川に合流します。その合流点付近にあるこんもりとした林が兵庫島
 伝説によれば、南北朝時代の1358年、新田義貞の子・義興が新田家再興をめざし、軍勢を率いて鎌倉に向かう途中、矢ノ口の渡し(現在の調布市)で敵軍の罠にはまり、全滅。義興の従者だった由良兵庫助の遺体が流れ着いたのがこの場所で、土地の人々が密かに葬ったことから、兵庫島の名がついたそうです。ただし、義興が謀殺されたのは、ここより下流の矢口の渡し(現在の大田区)だという説もあり、そこには義興の祟りを恐れて建立されたという新田神社もあります。となると、遺体が川上の兵庫島に流れ着いたというのは不自然にも思えますが、当時の多摩川はこのあたりまで潮の干満の影響を受ける感潮域だった可能性もあり、そうだとすれば満ち潮にのって流れ着いたとも考えられます(ちなみに現在の感潮域は田園調布の調布取水堰までです)。


     野川と多摩川の合流点                      二子玉川駅ホームから見た兵庫島と野川


     野川最下流部(世田谷区鎌田1丁目・玉川3丁目)

 野川の最下流部は多摩堤通りに接するように流れており、右岸側に自動車教習所があったのですが、平成11年から8年の歳月をかけて流路の変更が行われ、野川と教習所の位置関係が逆になりました。そして、教習所付近から吉沢橋まで左岸に遊歩道が整備されました。

 


     吉沢橋(世田谷区鎌田1・3丁目)

 吉沢橋は元は鉄道の鉄橋でした。いわゆる“玉電”の支線・砧線がここを走っていたのです。それが、昭和44年5月の廃止後に道路橋に転用されたわけです。吉沢橋のすぐ上流に新吉沢橋も並んでありましたが、最近、どちらも撤去され、新しい吉沢橋が新たに架けられました。2車線で両側に歩道つきです。この橋の欄干に玉電のレリーフが取り付けられています。また、歩道部分に玉電と吉沢橋についての写真付きの説明書きがあります。

「この橋は関東大震災直後1924年(大正13年)玉電・砧線の開通に合せて架けられた鉄道橋でした。砧線は現在の二子玉川駅と砧本村を結ぶ約2.2kmの路面電車で、人々の通勤・通学手段としてだけでなく、関東大震災復興のため多摩川の砂利を都心方面へ運搬するため大きな貢献を果たしました。しかし、その後車社会の到来とともに路面電車は姿を消すこととなり、1969年(昭和44年)玉電は世田谷線を除き全線廃止となりました。廃止後は道路橋として世田谷区に移管され今日に至っています。この度、野川の河川改修と合せて上流の新吉澤橋と吉澤橋を統合し、新しい吉澤橋に架け替えました。平成19年3月」

 

(吉沢橋の北側にある吉沢バス停。ここに吉沢駅があった)


     砧線跡遊歩道(世田谷区玉川4丁目)

 ここでちょっと野川から離れて玉電・砧線の跡を辿ってみましょう。吉沢橋のすぐ北側の吉沢駅跡に吉沢バス停があり、その先で多摩堤通りの信号を渡ると、砧線跡遊歩道が始まり、二子玉川の街まで続いています。途中には中耕地駅跡の碑や玉電のイラストをあしらったマンホール、鉄道のレールを使ったガードレールなどがあります。
 砧線は単線で、まだ田園風景が残る中を日中は単行、朝のラッシュ時は2両連結の電車が走っていたそうです。



 吉沢から先の区間は普通の道路になっていて、吉沢橋を渡り、道なりに行くと、砧本村のバス折り返し所があります。ここは昔の駅前広場の雰囲気を残しています。そして、バス停の背後にある「鎌田二丁目南公園」がかつての駅跡です。昔の写真を見ると、単線の線路がコの字形のホームに突き当たる、きわめて小さな終着駅だったようです。
 なお、現在の世田谷区砧の町域はここよりずっと北に位置していますが、鉄道開業当時はこの付近も東京府北多摩郡砧村に属していたため、この路線名と駅名でした。

 (砧本村駅跡)

 吉沢橋から上流はずっと川沿いに道があり、のんびり走れます。


     野川水道橋(世田谷区鎌田)

 吉沢橋から野川に沿って行くと、左(南)側に野球グラウンドがあり、野川の水面よりも土地が低いのが分かります。これは大量の砂利採取によってできた窪地を利用しているためで、似たようなグラウンドがこの付近には数カ所あります。ここで採取された砂利の運搬が砧線の当初の使命だったわけです。

 さて、吉沢橋の次の橋が野川水道橋です。最近まで人道橋でしたが、新しく架け替えられ、自動車も通れるようになりました。名前の通り、水道管を渡すのが本来の役目で、ここを通っていたのが渋谷町営水道です。豊玉郡渋谷町(今の渋谷区)が人口急増に対応するため、大正時代に自前で整備した水道です。多摩川の伏流水を採取して、砧下浄水場で濾過し、送水管を通じて駒沢給水所経由で渋谷へと給水していたわけです。この水道はその後、東京都水道局に移管されています。




     仙川合流点(世田谷区鎌田)

 野川水道橋を過ぎると、小金井市貫井北町に源を発する仙川が北から合流します。この川が開析した谷によって国分寺崖線は分断された形になっています。現在の仙川は両岸をコンクリート護岸で固められた味気ない姿ですが、この川の流域にもいくつかの湧水があり、コイやカルガモ、カワセミ、シラサギなどの姿を見ることができます。流れの至るところに段差があるので、元々はかなりの急流だったと思われ、場所によっては、なんとなく峡谷っぽい風情があったりもします。



     丸子川(六郷用水)

 ちょっと野川から離れて仙川を500メートルほど遡ると水神橋という橋があり、そこから右(東)へ伸びる小川があります。これが丸子川で、国分寺崖線に沿って流れ、丸子橋付近で多摩川に注いでいます。水は仙川の水を浄化して流しているほか、崖線からの湧水も随所で流れ込んでいます。
 また、この丸子川は江戸時代初期に掘削された六郷用水の名残でもあります。六郷用水は今の狛江市和泉で多摩川から取水し、世田谷区内を多摩川と並行して流れ、大田区の六郷方面に通じる灌漑用水で、徳川家康の命により1597年から15年の歳月をかけて用水を整備した小泉次太夫にちなんで次太夫堀とも呼ばれます。
 仙川もかつては六郷用水に水を取り込まれ、ここから下流へは流れていませんでした。


 左の写真は仙川の西谷戸橋。向こうに見えるのが水神橋で、かつてはそこで六郷用水に合流していました。左側の水路には仙川の水を浄化して流していて、水神橋の脇で左(東)に折れて、丸子川(六郷用水)となります。
 この仙川の浄化水はほかに地下の送水管を通じて等々力渓谷で知られる谷沢川にも送られています。

 ちなみに、仙川の本来の水源は三鷹市新川の勝渕神社前にあった「丸池」の湧水でした。そこから上流は戦後(昭和25年頃)、ふだん水が流れていなかった水田の排水路を利用して小金井市まで延長したということです。丸池の湧水はその後、涸れてしまい、池も埋め立てられましたが、近年、復元され、新川丸池公園となっています。現在の仙川の最大の水源は同じ三鷹市新川にある東部下水処理場の処理水だったりします。
 その水を水神橋の400メートルほど上流にある新打越橋付近の浄化施設で再度浄化した上で、野川や丸子川、谷沢川に流しているわけです。





     激坂地帯・岡本

 国分寺崖線の高低差は15〜20メートル程度で、とりわけ世田谷区内で高低差が大きいようです。
 南と西を国分寺崖線と仙川に囲まれ、町内を谷戸川が急流で下る世田谷区岡本は“激坂”が多い土地で、車もなかった昔は上り下りが大変で苦労するから「かわいい娘は岡本には嫁にやるな」と言われたそうです。
 僕も中学生の頃、友人が「あそこに45度ぐらいの坂がある!」と断言するので、いくらなんでも45度の坂なんてあるはずがない、と分度器を持って一緒に自転車で測りに行った記憶があります。さすがに45度はなかったものの、かなりの斜度で、自転車では登れなかったと思います。それ以来、チャレンジしていません。今はそれでも舗装されているのでまだマシですが、昔は特に雨や雪の日など滑って大変だったことでしょう。


     岡本公園民家園(世田谷区岡本2丁目)

 寄り道をもう少し。丸子川(旧六郷用水)沿いに東へ少し行くと、岡本公園民家園があり、昔の農家が保存されています。公園内には湧水の池があり、ホタルの飼育も行なわれています。背後は国分寺崖線で、高台の上には岡本の鎮守・八幡神社があります。
 また、野川水道橋を渡った送水管はここから八幡神社の真下をトンネル(岡本隧道)で通り抜けています。

  


     静嘉堂文庫と静嘉堂緑地(世田谷区岡本2丁目)

 岡本民家園の東に続く舌状台地の小高い丘とその周辺は木々が鬱蒼と茂る静嘉堂緑地で、かなりの巨樹も見られ、武蔵野の自然がよく保存されています。森の中には湧水も多く、溢れ出すようにして丸子川(六郷用水)に流れ込んでいます。この湧水は「東京の名湧水57選」に選ばれています。
 丘の上には三菱財閥の岩崎家が収集した和漢の古書を収蔵する英国風建築の静嘉堂文庫と美術館があります。

  (静嘉堂文庫と緑地内の湧水)

 丸子川(六郷用水)は静嘉堂緑地の北側から流れてきた谷戸川と合流して、さらに東へと流れていきます。谷戸川は昔はこのまま南下して多摩川に注いでいましたが、水を六郷用水に取り込まれたことで、下流部(谷川)が分断されてしまいました。この下流部の跡は現在は遊歩道となっていて、暗渠の谷川(やがわ)は新二子橋の下で野川に合流しています。

 (静嘉堂緑地下の丸子川と谷戸川合流点)


湧水の流れ     瀬田4丁目広場(旧小坂邸)(世田谷区瀬田4丁目)

 国分寺崖線は谷戸川の刻んだ谷戸によって途切れますが、すぐにまた続きがあります。静嘉堂緑地の向かい側の崖線の斜面一帯の鬱蒼とした樹林が瀬田4丁目広場(旧小坂邸)で、馬坂と呼ばれる急坂を登ったところに入口の門があります。
 この付近は多摩川を望む景勝地として知られ、政財界人などの別邸が多く建てられた土地ですが、この小坂邸はそうした別邸建築で唯一現存するものです。実業家で戦前に衆議院や貴族院の議員を歴任した小坂順造氏(1881-1960)が別邸として建て、渋谷区の住居が戦災で焼失後は本宅として使われた和洋折衷の建物と庭園が現在は世田谷区によって管理され、公開されています。
 邸宅は高台上に立ち、庭園は崖線の斜面を利用して作られており、湧水もあります。崖下の湿地には木道が設けられ、菖蒲が植えられています。また、他から移された2基の庚申塔もあります。


おおくら大仏〜火災予防運動実施中     大蔵3丁目公園の湧水池と「おおくら大仏」

 さらに寄り道。水神橋から今度は仙川沿いに北へ行くと、世田谷通りにぶつかる手前に大蔵団地があり、その中に湧き水を集めた池があります。鬱蒼とした雑木林の崖に湧いた水が流れ込み、池にはコイのほかニジマスまで泳いでいました。池の水は水路を通じて仙川に流れ込んでいます。
 また、仙川の対岸の妙法寺には「おおくら大仏」があり、世田谷通りからも見えます。この大仏、朝夕向きが変わる回転式になっています。

 (追記)2006年6月に訪れた時は池のコイもニジマスもまったくおらず、ヤゴなどの水生生物保護のため、コイやマスなどの魚を放さないように、という立て看板がありました。





     大蔵氷川神社(世田谷区大蔵6丁目)

 仙川の水神橋から西へ行くと、右手の高台に大蔵の鎮守・氷川神社が見えます。神社のある高台は国分寺崖線と仙川にはさまれた舌状台地で、殿山と呼ばれています。この殿山の北から東側を巻くように流れる水路は昭和初期の地図を見ると昔の仙川の分水路のようです。当時は仙川本流は六郷用水に流れ込んでいて、その分流が氷川神社の東側を巻くように流れ、六郷用水の上に樋を渡して立体交差で越えて、現在の野川付近に達していたようです。ちなみに、この水路は仙川本流から東名高速道路下の清水橋の真下で分かれています(上流部は暗渠)。
 この仙川の分水路と六郷用水が交差する地点に小さな社があり、水神が祀られています。また、ここにはかつて水車がありました。水車を経営していた安藤家の建物は次太夫堀公園民家園に移築・保存されています。

 (高台の上の氷川神社とその下を流れる仙川分水路)


     永安寺(世田谷区大蔵6丁目)

永安寺 氷川神社の西側には1490年に開かれた古刹・永安寺(天台宗)があります。そもそも永安寺とは鎌倉公方・足利氏満(尊氏の孫)が鎌倉の大蔵谷に開いた寺の名前で、氏満の子・足利持氏が室町幕府に背いて永享の乱を起こし、1439年に永安寺で自害。寺も廃れてしまいます。その後、持氏の遺臣の子・清仙上人が寺の再興を願い、鎌倉の大蔵谷と同じ地名のここ大蔵村に永安寺を開いたわけです。境内には樹齢数百年の大イチョウがそびえ、本堂内には本尊の千手観音や石薬師が安置されています。
 永安寺の西側には殿山を越える、いい雰囲気の切通しがありましたが、いつのまにか道が拡幅され、両側がコンクリートで固められて、風情はすっかり失われてしまいました。


 (永安寺切通し Before&After)

 永安寺の門前の道はかつての「筏道(いかだみち)」でもあったようです。まだ交通が発達していなかった頃、奥多摩で伐り出された木材は筏を組み多摩川の流れを利用して下流の都市へ運ばれました。木材を河口まで運んだ筏師たちが多摩川沿いに歩いて帰ったのが筏道です。こうした古い道筋にはお寺や神社、地蔵尊や庚申塔、馬頭観音などが点在し、味わいがあります(上の写真の切通しも筏道で、多摩川沿いの道が洪水で通れない時に利用されたということです)。
 また、永安寺前の道に沿って六郷用水が流れていましたが、この付近では水の流れを見ることはできません。

(六郷用水跡の碑)


天神森橋の下流側     天神森橋(世田谷区鎌田) 

 再び野川に戻って、仙川合流点の上手にある橋です。近くに菅原道真を祀った天神社があることから、この名前がついています。橋の名前には古い地名や神社の名前がつけられ、土地の歴史を感じさせるものが多く、なかなか味わい深いものがあります。
 このあたりも古い地図によれば、昔は田圃や畑が広がり、改修前の野川も多摩川氾濫原の低湿地を今よりもっと曲がりくねって流れていました。
 また、かつては橋の北方に水車があり、水車そのものは現存しませんが、今も水車用の水路と水車橋の名前が残っています。この水路は六郷用水から分水し、天神森橋の下手で野川に合流しています。

 (天神社と水車橋)

 天神森橋から南へ行くと、かつての砧線の終点、砧本村駅跡に出ます。また、天神森橋のすぐ南側で小さな川を渡りますが、これは野川の支流・町田川(宇奈根川)で、天神森橋の下手で野川に合流しています。町田川は狛江市の泉竜寺の湧水を水源とする清水川から喜多見の慶元寺下付近で分かれ、宇奈根地区を南下して多摩川に合流していますが、用水の一部は再び北上して野川に合流していました。町田川の大部分は暗渠化されて、遊歩道になっていますが、下流部に開渠も残っています。また、昭和初期の地図を見ると、この町田川の最下流部は野川の旧河道でもあるようです。

 (町田川の最下流部は野川旧河道。天神森橋のすぐ下手で現・野川に合流)


庚申塔     町田橋(世田谷区宇奈根)

 天神森橋の次は町田橋。永安寺前で南に折れた筏道はこの橋を渡っています。
 このあたり、右岸には畑があり、野菜を販売する無人スタンドがあります。また、江戸時代に建立された庚申塔が2基、道行く人々を見守っています(1717年と1790年の建立)。以前は背後が畑でしたが、今は駐車場になってしまいました。
 このあと東名高速道路の下をくぐり、新井橋で多摩堤通りを横切ります。

(町田橋の上流側。向こうに東名高速道路が見えます。)

(現在、町田橋の前後の区間は河川改修工事中で、町田橋も架け替え工事を行っています)


     喜多見小学校裏の湧水(世田谷区喜多見3丁目)

 野川に注ぐ湧水のほとんどは国分寺崖線の下に湧いていて、左岸側に位置しますが、珍しく右岸側にも湧水を見つけました。この一帯は野川が流れている立川段丘(国分寺崖線下の段丘面)の南東端に位置し、その斜面下からの湧水がいくつかあるようです。
 下の写真の湧水は喜多見小学校の北西側の道端に湧き出しています。この水は道路脇を流れ、民家の中の湧水と合流し、途中では農家の洗い場などにも利用されているようです。ごく短い水路ですが、下流で、狛江市に水源をもつ清水川と合流して野川に流れ込んでいます。

  (湧水と小川)

 この湧水は水が止まっていることも多く、2008年12月に確認した時はちょろちょろと流れていましたが、先行きは心許ない感じです。また、この一帯(喜多見東部地区)は現在、大規模な区画整理が進行中です。湧水の里の風情を残した保全措置をとってもらいたいものです。


     新井橋(世田谷区大蔵5丁目・喜多見3・5丁目)

 野川が東名高速道路の高架橋をくぐる地点で多摩堤通りを渡すのが新井橋です。ここで右岸側から清水川が合流します。
 
 野川はずっと国分寺崖線下の立川段丘上を流れてきたわけですが、ここが立川段丘の末端にあたり、ここから下流は多摩川沿いの低地を下って行きます。

(新井橋の近くで見つけた野川旧河道。清水川に接続し、東名道下から現・野川に並行し、すぐ合流)


     新井堰跡(世田谷区大蔵5丁目)

 かつての野川は今の狛江市内で六郷用水と合流し、さらに入間川の水も合わせて、ここまで流れていました。そして、旧六郷用水は新井橋の次の大正橋の下手から現在の野川より北東寄りのルートをとり、国分寺崖線のすぐ下を流れ、そのまま永安寺方面へまっすぐ通じていました。その用水跡は新井橋の左岸側に今も残っています。この用水跡が東名道に分断される手前にかつては「新井堰」という堰があり、用水の増水時などに余分な水を分けていたようで、つまり、ここで六郷用水と野川は再び分かれていたわけです。新井橋の上手に北東側から流れ込む暗渠水路がありますが、これが六郷用水から分かれた野川旧河道と思われます。そして、この旧河道を遡って崖線に突き当たるところが新井堰のあった場所でしょう。
(大正橋の下流で現在の野川から左に分かれていく六郷用水跡)

(国分寺崖線の真下をまっすぐ流れる。正面の東名道手前に新井堰があったと思われる)

(新井堰で六郷用水からほぼ直角に分かれた旧野川跡。撮影地点の背後で現野川に合流)


大正橋の下流側大正橋の上流側     大正橋(世田谷区喜多見) 

 新井橋の次の橋が大正橋です。このあたりの雰囲気は昔から好きですが、林が伐採されて住宅になったりして、だんだん風景が変わってきました。
 写真左が上流側。向こうに写っている橋は世田谷区を南北に一直線に貫く荒玉水道道路を渡す水道橋です。
 写真右が下流側。右奥に東名高速道路が写っています。

(両岸に林があった頃の大正橋下流。1980年代後半)

 大正橋のすぐ下手で左岸から合流する水路があります(下写真)。国分寺崖線の湧水でしょう。また、大正橋の南側にも暗渠水路(旧河道? 用水路跡?)があり、大正橋直下で合流しています。

 (大正橋下で湧水が流れ込む)

   大正橋ライブカメラ


園内を流れる次太夫堀     次太夫堀公園(世田谷区喜多見)
 
 世田谷区の“観光スポット”のひとつ。農村時代の世田谷の風景を再現した公園です。
 区内の古い農家(江戸時代後期の建築)を移築した民家園や田圃、畑があり、復元された六郷用水が流れています。六郷用水はまた次太夫堀とも呼ばれていました。江戸時代初めに用水を整備した小泉次太夫にちなんだ名称です。
 現在の用水には野川から汲み上げて浄化した水が流れていて、大正橋の上手で再び野川に流れ込んでいます。

 (復元された六郷用水=旧野川にかかる内田橋)


     水道橋と荒玉水道道路(世田谷区喜多見)

 大正橋の次が水道橋で、ここで渡すのが荒玉水道道路です。関東大震災後、東京西郊の人口が激増し、これに対応するため関係町村が荒玉水道町村組合が結成し、多摩川の伏流水を採取して砧浄水場から野方(現・中野区)、大谷口(現・板橋区)の給水所まで送る水道管が建設されたのでした(水道はその後、東京都水道局に移管)。この水道上を砧浄水場前から杉並区梅里までほぼ一直線に造られた道が荒玉水道道路で、現在も水道管保護のため通行車両の重量制限があり、大型車の進入防止のため、随所で道路の両端にポールが立てられています。
 もうずいぶん前のことですが、この橋の下で野川の水をのぞき込むコラムニストの泉麻人さんを見かけたことがあります。その時のことは泉さんの著書『東京自転車日記』(新潮文庫)の中の「荒玉水道一直線、多摩川を見に行く」に書かれています。


     茶屋道橋(世田谷区喜多見5・6丁目)

 水道橋の次が茶屋道橋。何の変哲もない橋ですが、ここで野川を渡るのが世田谷通りの前身にあたる旧津久井往還(登戸道)で、江戸から登戸・津久井を経て甲州へ通じる街道でした。ただし、昔は野川はもう少し南(今の次太夫堀公園内に復元されたのが六郷用水=旧野川の川筋)を流れていたため、ここに橋は存在せず、登戸道を少し南へ下った内田橋で渡っていたと思われます。
 茶屋道橋の名は昔、喜多見の地を治めた喜多見氏(江戸氏の後裔)の居館から茶室へ通うのに使う道だったことに因んだようです。成城3丁目にお茶屋坂という急坂があるので、国分寺崖線上の高台に茶室があったのでしょう。
 橋のたもとには地元の農家の野菜直売所があります。

(茶屋道橋の上流で多摩堤を渡す喜多見大橋)


中野田橋の下流側コイの群れ     中野田橋(世田谷区喜多見7丁目)

 次太夫堀公園の北側にかかるのが中野田橋。このあたりは比較的川幅が広く、写真のように大きなコイがたくさんいます。大抵はシラサギやカルガモもいるし、カワウなどもやってきます。また、冬にユリカモメが群れをなしているのもこの橋の周辺です(下の写真)。
 写真右は下流側の眺めで、右の樹林は次太夫堀公園。向こうの橋は多摩堤通りの喜多見大橋です。

(中野田橋に集結したユリカモメ)


     成城3丁目緑地(世田谷区成城3丁目))

 次太夫堀公園から多摩堤通り(上の中野田橋より一つ下流側の喜多見大橋)を北へ行くと世田谷通りとぶつかります。この交差点の北西側の一角が成城3丁目緑地です。もともと林野庁宿舎があった場所で、その後、貴重な緑地として保全されています。数ヶ所の湧水があり、国分寺崖線の赤土の斜面をサラサラと澄んだ水が流れ下っている光景は、ここは本当に東京だろうか、と思ってしまうほどです。
 この水は成城さくら公園の池を経て、雁追橋付近で野川に流入しています。

 (成城3丁目緑地の湧水)


     雁追橋(世田谷区喜多見7丁目)

 中野田橋の次が雁追(がんおい)橋です。この一帯は昔は田畑が広がっていましたが、秋になると雁が渡ってきて、作物を荒らすので、川の対岸の雁を追い払うために丸木橋を渡したことに由来するそうです。もちろん、昔と今では川の流路が異なり、橋の位置も違います。
 この橋の下で成城3丁目緑地の湧水が野川に注いでいます。





世田谷通りから上流側を見る。     世田谷通り・中之橋(世田谷区成城3丁目・喜多見7・8丁目)

 中之橋は世田谷通りを渡す橋で、ここでサイクリング道路も分断されています。世田谷通りを横断するには1つ下流側の雁追橋で右折すると横断歩道があるので、ここで世田谷通りを突っ切り、もう1本北側の崖線沿いの道を左に行くと再び野川沿いに出られます。あるいは中之橋から世田谷通りを左へ行って信号のある地点で渡って戻ってくるか、です。

 写真は中之橋の上流側の風景で、前方に小田急線の高架橋が見えます。高架が2段に見えるのは、成城学園前駅から喜多見電車基地に入る線路が本線上を跨いでいるためです。





     野川旧河道と六郷用水

 中之橋(世田谷通り)のすぐ下手で右岸側から瀧下橋緑道が合流していて、そこで暗渠の水路が野川に流れ込んでいます。この水路が六郷用水の跡で、野川の旧河道でもあります。ここから上流の野川は昔は今よりずっと西寄りを流れていて、多摩川から取水した六郷用水に狛江市内で合流していたのです。六郷用水の造成に野川の流路を利用したものと思われますが、あるいは、六郷用水開削前のさらに昔の野川は狛江市内(現在の小田急線高架をくぐる地点)で立川段丘から多摩川氾濫原の低地に下り、今の清水川の流路を辿っていた可能性もあります(現地の地形を見ると、そのように思え、実際、それらしい水路跡が存在します)。
 いずれにせよ、中之橋付近から上流の野川の現在の流路はかつての入間川(野川の支流)でした。
 つまり、六郷用水は多摩川の水だけでなく、野川の水も引き込み、さらにここで入間川の水も合わせて世田谷南部を西から東へ流れていたわけです。そして、六郷用水と野川は今の東名高速道路のあたりで左右に分かれ、六郷用水はさらに国分寺崖線に沿って東へ流れ、仙川や谷戸川の水も引き込んで、世田谷や六郷(現大田区)を灌漑していました。

 (野川にぶつかる瀧下橋緑道と対岸から見た六郷用水=旧野川の合流点)

(瀧下橋緑道)

(六郷用水説明板・昭和30年頃の写真。喜多見地区内田橋上流を流れる次太夫堀)

 さて、瀧下橋緑道を辿っていくと、かつての六郷用水の写真などを載せた説明板があったり、瀧下橋の親柱が保存されていたりしますが、ほんの数百メートルで世田谷通りに合流し、吸収されてしまいます。ここから狛江市内に入り、世田谷通りに二の橋一の橋という信号やバス停がありますが、そこを六郷用水(野川)が流れていた証拠です。用水跡は600メートルほどで世田谷通りから分かれていちょう通りに入り、小田急線の高架をくぐったところが、かつての六郷用水と野川の合流点です(下の写真)。
 六郷用水の跡はいちょう通りをそのまま行き、狛江駅の北側で福祉会館通りに入って、やがて多摩川と出合います。水神前という信号とバス停があり、実際に水神様が祀られています。そこが取水口でした。
 さて、野川の旧河道はこの先ずっと野川緑地公園という遊歩道になっており、狛江の住宅地や畑の間をくねくねと曲がりくねりながら続き、小金橋付近(狛江市西野川2丁目)で現在の野川と再会します。

 (手前から流れる旧野川と右から来る六郷用水の合流点)

(野川緑地公園)

(御台橋の親柱)

 では、再び中之橋に戻って、現在の野川に沿って遡っていきましょう。


     上野田橋と小田急橋梁(世田谷区成城・喜多見)

 中之橋の上流は野川改修前の入間川ということになります。次の橋が上野田橋で、その向こうを小田急線の高架橋が跨いでいて、「野川を渡るロマンスカー」が「せたがや百景」に選ばれています。かつてはシンプルなガーダー橋で、確かに絵になったのですが、小田急線が高架化され、さらに成城学園前駅と喜多見電車基地を結ぶ出入庫線が本線を跨ぐ形で建設されたので、本線を走る電車はほとんど見えませんし、電車の車窓からも野川は見えなくなってしまいました。
 たまたま最新型ロマンスカー60000形MSEが電車基地に入庫するシーンに出くわしたのですが、気がつくのが遅く、ご覧のような写真になってしまいました。

 (野川を渡る小田急ロマンスカーMSE)


     喜多見不動堂(世田谷区成城4丁目)

 小田急線の高架橋(成城学園前駅〜喜多見駅間)の手前の上野田橋でいったん川から離れて右へ行き、小田急の下をくぐるとすぐに喜多見不動堂があります。この不動堂は喜多見・慶元寺の境外仏堂で、安置されている不動明王像は明治初期、多摩川の洪水時に喜多見の河原に流れ着いたところを地元の人が見つけ、成田山新勝寺で入魂したものだといいます。
 不動堂はハケ上にあり、その崖から2筋の滝が落ちていて、かつては水行の場ともなっていたそうです。
 滝の水は上野田橋の下で野川に注いでいます。

(喜多見不動滝)


     神明の森みつ池(世田谷区成城4丁目)

 喜多見不動堂の脇から成城方面へ急坂が始まりますが、そちらへは行かず、国分寺崖線の裾を縫う道を辿ると、まもなく「神明の森みつ池」の前に出ます。崖線を覆う鬱蒼とした森で、湧泉が4つほどあり、東京23区内では極めて貴重なゲンジボタルの自然発生地として知られています(皇居内と港区白金台の国立自然教育園とここだけだそうです)。そのため、世田谷区の特別保護区、東京都の緑地保全地区に指定され、柵で囲われ、通常は立ち入りできません。しかし、梅雨の頃、柵越しに夜の森の奥を覗くと、幻想的なホタルの光を見ることができます。


     神明橋(世田谷区成城4丁目・喜多見9丁目)

 小田急線の高架橋を過ぎて、最初の橋が神明橋で、このあたりは野川のバードウォッチングのポイントになっています。サギやカモ、セキレイなどのほか、カワセミも姿を見せます。また、このあたりは両岸とも桜並木になっています。
 右岸側には小田急の車両基地の屋上に造成された「きたみふれあい広場」があります。
 下の写真の左が下流側。右が上流側で、冬場はここにカモ類が集まります。
 


きたみふれあい広場     きたみふれあい広場(世田谷区喜多見9丁目)

 右の写真の真下が小田急の電車基地であるとは俄かには信じられないかもしれませんが、そうなのです。車両基地建設に際し、緑豊かな野川の景観が損なわれないように人工地盤で上部を覆って緑化されました。園内には芝生の広場や池、花壇などがあり、冬場には富士山も見えます。




ビジターセンター     ビジターセンター(世田谷区成城4丁目)

 「せたがやトラスト協会」改め(財)世田谷トラストまちづくりが運営するビジターセンター。神明橋の上流、左岸にあります。
 野川の自然に関する情報提供、さまざまな展示のほか、オリジナルグッズの販売などをしています。図書室コーナーやトイレもあるのでサイクリングや散策の休憩ポイントとしても利用できます。毎週月・火曜日は休館です。

 財団のホームページ:  http://www.setagayatm.or.jp/


 ビジターセンターを過ぎると、世田谷区をあとに狛江市、そして調布市へと入っていきます。


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