このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

《東京の水辺》
 野川じてんしゃ散歩 Part4(源流編)

 武蔵野の湧水を集めて流れる野川を多摩川合流点から上流へと辿る旅もいよいよ国分寺市に入ります。野川そのものは三面をコンクリートで固められた味気ない姿になりますが、見どころはまだまだいっぱいあります。

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     鞍尾根橋から長谷戸橋へ(国分寺市南町1丁目)

 鞍尾根橋で小金井市から国分寺市に入ると、野川の姿はがらりと変わります。ここまで緑の中を流れる、まさに野の川だったのが、いきなり三面をコンクリートで固められた味気ない姿になってしまいます。武蔵野の湧水を集めて気ままに流れていた本来の野川が周辺の都市化にともなって昭和の高度成長時代にこんな姿にされてしまったのでしょう。これは典型的な昭和の都市河川の姿と言えます。ただ、ここから下流の野川が極力直線化されているのに対して、ここから上流はかなり曲がりくねっていて、直角に近いカーブ区間もあります。
 次の長谷戸橋まで野川沿いの道はありませんので、東京経済大学の「新次郎池」を見学後、大学の敷地の南縁を辿る道を行きましょう。国分寺崖線に沿って、野川より一段高いところにつけられた道で、なかなかいい感じです。

(崖線沿いの道。右側が東京経済大の敷地))


     長谷戸橋(国分寺市南町1丁目・東元町1丁目)

 東京経済大学に沿って道なりに行くと、ファミリーマートのある「東経大南」信号に出ます。ここでぶつかる道が丸山通り(東経大通りともいうようです)。これを右折すると、坂を上って国分寺駅へ通じます。一方、左折すると、すぐにすっかり細くなった野川に再会します。そこに架かる橋が長谷戸橋です。長谷戸はこのあたりの古い地名で、この付近が谷戸地形になっていることに由来します。橋から丸山通りの国分寺駅方面を眺めると、緩やかに上る坂道の両側が高台の斜面になっているのが分かります。つまり、ここで国分寺崖線が武蔵野台地に深く切れ込むように谷が形成されているわけです。谷の最奥部はJR中央線の線路の北側で、中央線の電車で都心から国分寺駅へ向かうと、国分寺駅の手前は線路際の土地が線路より少し高くなっていますが、一瞬だけ陸橋で道路を越えます。ここが長谷戸の谷です。昔はそのあたりに湧水があり、そこから流れ出す水が武蔵野台地を侵食しながら野川に流れ込んでいたのでしょう。
 この長谷戸の西隣には殿ヶ谷戸がやはり深く切れ込んでおり、2つの谷戸がハの字形に並んでいます。そして、この2つの谷戸と野川に囲まれた高台が丸山と呼ばれていたようです。とにかく、このあたりの国分寺崖線はとても複雑に入り組んでいます。
 ちなみに丸山通りは小金井市貫井南町4丁目の「寛政六年の庚申塔」の立つ分岐点で「右小川・すな川道」と表記されていた道の延長上にあたり、長谷戸橋を渡った地点から2車線となります。

 ところで、長谷戸橋。僕は当然「ながやと橋」と読むと思ったのですが、近くにあるバス停の標示は「はせど橋」となっています(「はせど理容」という理髪店もあります)。昔は長い谷戸という意味で「ながやと」と読んだはずですが、いつのまにか読み方が変わってしまったのでしょう。

(長谷戸橋を渡り、谷戸の中を緩やかに上っていく丸山通り)


     平安橋と平安神社(国分寺市東元町1丁目)

 長谷戸橋からは再び野川沿いに道があります(遊歩道ではなく一般道です)。右岸側の道を行くと、野川が直角に右折したところに平安橋が架かっています。この橋には野川が大雨で増水し、橋が冠水した場合に、あふれた水が住宅街に流れ込まないように引き戸式のシャッターが設置されています。このような洪水対策のシャッターはこれより上流に架かる橋の多くに設置されています。
 また、平安橋の北側にもう1本の水路が野川と並行して続いています。ただし、水量はわずかです。この水路がどこから来て、どこへ行くのか、前後の区間が暗渠化されているので、よく分からなかったのですが、長谷戸橋の北方の駐車場に水路の続きを発見しました。どうやら長谷戸橋の下流で野川に合流しているようです。

 (平安橋)

(野川本流の北側の水路)


 ところで、平安橋の名前は近くにある平安神社に由来します。小さな神社ですが、この地域の氏神様として地元の人々に親しまれているようです。
(平安神社)


     もみじ橋(国分寺市東元町1・2丁目)

 平安橋の次が丸山橋、その次がもみじ橋です。欄干にもみじがあしらわれ、実際にもみじが植えられています。
 このあたりが殿ヶ谷戸の出口で、もみじ橋の下で水が流れ込んでいるのが殿ヶ谷戸庭園の湧水と思われます(下写真)。
 もみじ橋のそばのマンションの敷地には何やら由緒ありげな門が残っています(右写真)。

 (流れ込むのは殿ヶ谷戸庭園の湧水?)


     殿ヶ谷戸庭園(国分寺市南町2丁目)

 もみじ橋から北に行くとすぐ国分寺街道にぶつかります。武蔵野台地から殿ヶ谷戸の谷に沿って下ってくる道です。そして、見上げるような台地に南西から北東方向へ深く入り込んだ谷戸の西側斜面が東京都の名勝に指定されている殿ヶ谷戸庭園です。入口は国分寺駅南口に近い武蔵野台地上に位置しています。
 もともとは大正2年から4年にかけて、のちの南満州鉄道副総裁・江口定條氏の別邸として造られた庭園で、当時は「随宜園」と呼ばれていたそうです。その後、昭和4年に三菱財閥の岩崎彦弥太氏に買い取られ、洋館や茶室などを追加整備して、和洋折衷の回遊式林泉庭園が完成しました。
 昭和40年代になって、この庭園も滄浪泉園と同様に開発計画が持ち上がったため、貴重な緑を守ろうとする住民の運動が起こり、その結果、昭和49年に東京都が買収し、公園として整備した上で昭和54年から一般公開されました。
 園内に入ると、武蔵野台地上に広い芝生、洋風の本館、茶室(紅葉亭)、萩のトンネル、藤棚などがあり、台地の末端からはアカマツやモミジなどの樹林や竹林におおわれた国分寺崖線の急斜面を下っていきます。すると、崖下の窪地(はけ)から水(次郎弁天の清水)が湧き出しています。毎分37リットルほどの湧出量があるそうで、もちろん、ここも「東京の名湧水57選」に選ばれています。この清水を集めたのが次郎弁天池で、鯉が泳いでいます。古くは池畔に弁財天が祀られていたようですが、それがどこにあったのか、また次郎弁天という名前の由来も不明だそうです。もちろん、この池の水は庭園の外に流れ出し、地下水路を通って野川に流れ込んでいます。
 池には崖上の「鹿おどし」からも水が滝となって流れ込んでいますが、こちらの水源は地下水の汲み上げと思われます。

 

 園内には「百万遍成就・馬頭観音」と刻まれた馬頭観音碑があります。説明書きによれば、文政7(1824)年建立で、施主は国分寺村・本多氏。福島県産の八目石が使われています。当時の国分寺村は戸数66、男157人、女149人、馬22頭でした。馬は農耕や荷物の運搬に活躍したほか、府中宿への助郷として馬の供給が国分寺村に課せられていたため、人口に比して馬の数が多かったようです。
 ちなみに碑に刻まれた「百万遍成就」の百万遍というのは百万遍念仏供養のことで、念仏講の人々が集まって大数珠を回しながら百万遍の念仏を唱えることで、先祖供養や浄土往生、その他の祈願成就を願うものです。これを達成した記念に村の路傍に馬頭観音を立て、村の安全や馬の息災を願ったのでしょう。

 入園料一般150円。

 


     一里塚橋と不動橋(国分寺市東元町2・3丁目)

 さて、再び国分寺崖線を下って野川に戻りましょう。国分寺市街から殿ヶ谷戸を下って府中方面へ南下する道が国分寺街道で、坂を下ったところに一里塚信号があり、ここで野川を渡ります。これが一里塚橋です。橋といっても、右の写真のように道路の下をトンネルで抜けていると言った方が正確かもしれません。当初は右側のレンガ造りの円形トンネルだけだったのをもう一本新しいトンネルを掘って複線化したのでしょう。トンネルを抜けた先で一本の川となって流れていきます。
 さて、右の写真で野川本流は手前側から流れてきて、トンネルへと通じているわけですが、画面右端から水が流れ込んでいるのが分かります。これが元町用水で、その上流には有名な真姿の池湧水群武蔵国分寺があります。

 また、右写真の手前側で野川本流に架かっている小さな橋が不動橋です(下写真)。この橋はかつては石橋だったようで、橋の向かい側の崖線斜面に立つマンション下の植木に隠れるように自然石の石橋供養塔があります。天保3(1832)年に造立されたもので、国分寺市観光協会が立てた説明板によれば、石橋供養塔には、常に人に踏まれている石橋を供養する意味と、石橋を渡って村内に疫病や災いが入り込むのを防ぐ意味があるということです。
 石橋供養塔の左手には青面金剛像を刻んだ庚申塔と文字だけの不動明王碑が並んでいます。庚申塔は延享2(1745)年2月18日の庚申の日の銘と国分寺村講中、11名の個人名が刻まれています。一方、「不動明王」と彫られた石碑については、いつ頃、誰が造立したのか不明だそうです。この不動明王の石碑からそこに架かる橋が不動橋となっているわけです。
 この庚申塔の下に柄杓のある水場があり、ごくわずかですが水が沁み出しています。

(不動橋)

 
(左から石橋供養塔、不動明王碑、庚申塔。実際は石橋供養塔が一番右にあります)

 ところで、肝心の一里塚ですが、これは武蔵国府・府中から一里の距離を示すのだと思いますが、どこにあったのか、よく分かりません。


     元町用水(国分寺市東元町3丁目)

 さて、野川の旅もいよいよ大詰めです。本流の水源へ行く前に、支流の元町用水の水源を探索しましょう。一里塚橋で野川に流れ込む元町用水を遡って行こうとすると、すぐに道から離れてしまうので、ずっと流れに沿っていくことはできませんが、国分寺市の観光名所「お鷹の道・真姿の池湧水群」に通じているので、案内板も整備されており、それに従っていけば、迷うことはありません。
 途中に真福寺児童遊園というのがありますが、ここで国分寺崖線が北から再び近づいてきます。野川本流が流れ出てくる谷戸の南端になっているわけです。

 右の写真では元町用水に左から小さな水路が合流しています。これも国分寺崖線からの湧水ですが、私有地から流れ出てくるので、湧出点は確認できません。ただ、この水の流れが私有地から出てきて、道路の下をくぐり、再び顔を出すところは見ることができます。それが下の写真です。この水はこのあと180度Uターンして左に曲がり、民家の間を通って元町用水に合流しています。



 元町用水の南側には一筋の道が自然なカーブを描きながら東西に続いています。これが元町通りで、小金井市内で出合った薬師通りの続きです(貫井の庚申塔に刻まれた「左こくぶんじ道」がこれに当たります)。いかにも武蔵野の道といった、いい感じの道で、国分寺の薬師堂の石段の下へと続きます。

(元町通りにある表札のお店。榎の木とほとんど一体化している!)


     お鷹の道(国分寺市東元町3丁目・西元町1丁目)

 案内板に従って道なりに行くと、再び元町用水と出合い、そこから水路に沿った「お鷹の道」が始まります。遊歩道で、自転車の場合は押して歩きましょう。

 遊歩道の案内板によれば、江戸時代の寛延元(1748)年、いまの国分寺市内の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定され、幕末に廃止されるまで村人の生活に大きな影響を与えていました。崖線下の湧水を集めて野川にそそぐ清流沿いの小道はいつの頃からか「お鷹の道」と呼ばれるようになり、昭和47〜48年にかけて国分寺市が遊歩道として整備したということです。

 

 民家の間を流れる用水は今でも農家の洗い場に利用されたりして、人々の生活に深く結びついているのがよく分かり、それがこの道を味わい深いものにしています。また、いくつもの清らかな湧水を集めて流れるこの水路にはホタルもいるそうです。


     真姿の池湧水群(国分寺市西元町1丁目)

 「お鷹の道」を進んでいくと、北から清らかな流れが合流します。この流れの先に「東京の名湧水57選」だけでなく「日本の名水百選」にも選定された真姿の池の湧水があります。
 この土地の旧家・本多家(いまは殿ヶ谷戸庭園にある馬頭観音を建立したのが国分寺村の本多氏でしたね)の野菜直売所を過ぎると、正面の国分寺崖線の真下の「はけ」からこんこんと水が湧き出しています。さすがに「日本の名水百選」に選ばれているだけあって、水を汲みに訪れる人が絶えません。ただし、現在はそのまま飲まずに煮沸したほうがいいようです。
 湧水脇の階段を崖上に登ると、台地上は都立武蔵国分寺公園ですが、マンションも建っていて、湧水への影響が心配ではあります。

 そして、真姿の池湧水の左手にあるのが「真姿の池」で、赤い橋を渡った中の島に弁財天が祀られています。真姿の池という名称は、嘉祥元(848)年、不治の病に苦しんだ絶世の美女・玉造小町が、病気平癒祈願のため国分寺の薬師堂にお参りすると、一人の童子が現われ、小町をこの池に導き、この池の水で身を清めるようにと告げて姿を消したので、そのとおりにしたところ、たちどころに病は癒え、元の美しい姿に戻ったという伝説に由来します。

(地場野菜の直売所)

(真姿の池湧水。崖上に水神が祀られている)

(真姿の池と弁財天)


     武蔵国分寺(国分寺市西元町1丁目ほか)

 「お鷹の道」をさらに西へ進むと、道は北へ折れます。その突き当たりの私有地内からも湧水が流れ出ています。その手前で再び西へ折れると、醫王山最勝院国分寺の門前に出ます。

 そもそも国分寺は疫病の流行や政治の混乱が続いていた奈良時代の天平13(741)年、聖武天皇の勅命により鎮護国家を祈願して諸国に建立されたわけですが、武蔵国分寺は国分寺崖線の南側に広大な寺域を持ち、発掘調査によって諸国の国分寺の中でも最大級の規模を誇っていたことが明らかになっています。その後、元弘3(1333)年、新田義貞の鎌倉攻めの際に分倍河原の戦いの戦火で灰塵に帰してしまいました。唯一焼失を免れた薬師如来像(平安末期か鎌倉初期、国重文)のために新田義貞の寄進により建武2(1335)年に薬師堂が金堂跡付近に建立され、これは江戸時代の宝暦年間(18世紀半ば)に国分寺崖線上の現在地に移されています。
 現在の国分寺は武蔵国分寺の広大な寺域の北隅、国分寺崖線下に立つ真言宗豊山派の寺院で、こじんまりとした境内には昭和25年〜38年に当時の住職が『万葉集』に詠まれた植物を集めた万葉植物園国分寺文化財保存館があります。また、境内にも湧水があって、これも野川の水源です(右上写真)。
 現在の本堂は享保18(1733)年に建立され、昭和62(1987)年に改築されたもので、楼門(市指定重宝)は米津出羽守田盛の菩提寺として今の東久留米市に建てられた米津寺の楼門を明治28年に移築したものです。

 (国分寺の楼門と境内の湧水)

 旧武蔵国分寺の遺跡は発掘調査により伽藍の遺構が発見され、国の史跡に指定されています。また、奈良・平安時代に都と諸国の国府を結ぶ幹線道路(いわゆる古代官道)のうち、武蔵国府から上野国府(前橋市)へと通じる幅12メートルの東山道武蔵路が国分寺の西側を南北に一直線に通っていたことも判明しています。

(国分寺文化財保存館のジオラマ。手前が尼寺、向こう側が僧寺。樹林が崖線)

(礎石だけが残る武蔵国分寺址)


     国分寺薬師堂(国分寺市西元町1丁目)

 国分寺の前を過ぎて、国分寺崖線に沿ってさらに西に行くと、国分寺薬師堂の石段があります。石段を上り、仁王門(ミツバチの巣があります)をくぐり、さらに石段を上っていくと、薬師堂です。小金井市の「はけの道」で出会った薬師通りはこのお堂への参詣道であったわけです。
 武蔵国分寺焼失後、新田義貞が寄進したもので、当初は旧金堂跡付近にありましたが、江戸時代の宝暦年間に現在地に再建されました。堂内の薬師如来像は戦火で焼失した旧国分寺の唯一の遺産で、平安末期か鎌倉初期の寄木造り、国の重要文化財に指定されています。脇侍の日光・月光菩薩像および十二神将像はのちに造られたものです。毎年10月10日に開帳されます。
 また、建武2年に建立された旧薬師堂の建材は仁王門に用いられているということです。

 薬師堂の背後の台地は広大な都立武蔵国分寺公園が広がり、公園を抜けていけば、JR西国分寺駅が近いですが、我々は野川の不動橋に戻って、今度は野川本流の源流を辿りましょう。


     野川の源流部(国分寺市東元町3丁目・泉町1丁目)

 さて、再び野川本流に戻ってきました。一里塚橋で元町用水を南西に見送って、不動橋をあとに、野川本流をさらに奥地へと遡っていきましょう。といっても、ずっと川沿いに行くことはできません。
 右手には国分寺崖線が迫って、道路の起伏も激しくなります。国分寺駅方面へ続く道はどこも激坂で、自転車の人はみんな押して上っています。ここから上流の野川は国分寺崖線が北西方向に深く入り込んだ谷戸の奥から流れ下ってくるので、川の両側が高台になっており、しかも、谷はだんだん狭まってきます。ちなみに、谷戸の出口は地図上で言えば、一里塚橋付近とそこから西南西の位置にある真福寺児童遊園を結ぶラインということになります。

 緑橋を過ぎ、あやめ橋を渡って右岸に移ると、まもなく信号があります。国分寺駅南口から南西方向に急坂で下ってくる多喜窪通りです。多喜窪はこのあたりの古い地名で、江戸時代には滝窪または滝久保と書いたようです。おそらく崖線からの湧水が滝のように野川に流れ込んでいたのではないでしょうか。  現在の多喜窪通りは築堤で谷を越えているので道路から見下ろすと谷底を流れる野川までずいぶん高低差があります(下写真)。そして、多喜窪通りはすぐにまた上り坂になって崖線上に上っていき、台地上の都立武蔵国分寺公園を横切り、国立方面へ向かいます。

 (緑橋と多喜窪通りから見た野川)


     押切橋(国分寺市泉町1丁目)

 多喜窪通りを過ぎると、いよいよ谷は狭まります。そして、地形も急峻になっていきます(国分寺駅へ通じる道はもはや坂道でもなく階段だったりします)。その谷底を埋める住宅地の中を流れる野川の最後の橋(野川にとっては最初の橋)が押切橋です。流れはけっこう速いですが、この橋の下にも鯉が泳いでいます。
 押切橋の名前はこのあたりの古い地名、押切間から来ているようです。野川の水をせき止めて水路に引き込もうと堰を築いても、水流の勢いで堰が押し流されてしまったところから押切間と呼ばれるようになったといいます。玉川上水ができる前、野川の水をここから府中に引いて多摩川の水と合わせて江戸に流す上水路の計画があったという説もあるそうです。

(押切橋のある谷を西側から見下ろす)


     JR中央線下の水路トンネル(国分寺市泉町1丁目・東恋ヶ窪1丁目)

 多摩川からずっと野川に沿って源流をめざす旅もいよいよ最後です。ところが、ここで行く手を阻むのがJR中央線の築堤です。中央線の電車は国分寺駅を発車すると切通しの中を走りますが、突然、両側の高台が消え、左車窓の眼下に家並みが広がります。ここが野川源流の谷戸で、線路はこの谷を築堤で越えると、再び武蔵野台地の切通しに入って西国分寺駅に着くわけです。国分寺駅東側の長谷戸も含めて、この区間の地形はなかなか劇的に変化します。
 ということで、中央線の築堤が谷戸を横切り遮断しているため、、我々は線路の向こう側には行けません。一度、野川左岸の崖線斜面を上り、国分寺駅西側の切通しの線路を越える花沢橋を渡らねばならないわけです。花沢橋の次は西国分寺駅まで線路の両側を結ぶ道はありません。
 では、野川は、というと、築堤をトンネルで抜けています。そして、トンネルの向こう側はふだんは部外者は立ち入れない日立中央研究所の敷地です。

 
(トンネルで築堤を抜けてくる野川)


(花沢橋から見た切通しの中にある国分寺駅。手前の線路は西武国分寺線)





(上の写真の切通しを抜けた線路はいきなり野川の谷を越える築堤上に出る。左写真のように築堤上にはJR中央線、西武国分寺線、そして一段低い遊歩道が並んでいる。画面左端のフェンスの中が日立中央研究所で、この中に野川の水源がある。そして、野川はこの築堤の下をトンネルで抜けている)









     日立中央研究所庭園(国分寺市東恋ヶ窪1丁目)

 中央線の築堤の北側に広がるのは日立中央研究所で、この中に野川最上流の水源があるのですが、当然ながら部外者が立ち入ることはできません。ただし、年に2回、春と秋(4月の第1日曜日と11月の第3日曜日)に庭園開放があり、誰でも研究所内の貴重な自然を見学することができます。実際、国分寺市内外から多くの人が訪れ、僕もこれまでに2度出かけています。
 武蔵野台地と野川の谷にまたがる207,000平方メートル(東京ドームの約5倍)もの敷地には元は山林や畑、湿地、そして、大正時代に造られた今村銀行頭取・今村繁三氏の別荘地などがありましたが、この広大な土地を取得して昭和17年に研究所は設立されました。創業社長・小平浪平氏の「よい立木は伐らずに、よけて建てよ」という意志を受け、構内の樹木は極力伐らずに残されたために、現在に至るまで武蔵野の面影を残す貴重な自然が保全されたということです。
 では、入ってみましょう。研究所の東側の台地上にある正門から入ると、すぐに橋を渡ります。返仁(へんじん)橋といい、野川の谷戸の最奥部に架かっており、鬱蒼とした森は深山幽谷の趣で、眼下に渓流のような野川が流れています。この森の奥に水源があるわけです。

(返仁橋から見る野川源流)


 橋を渡ると研究所の建物があり、当然、庭園開放日もそちらへは立ち入り禁止です。庭園は研究所構内の南部、崖線斜面と谷戸を中心とした区域です。ケヤキ、サワラなど約120種、27,000本の樹木が豊かな森を作り、あちこちに湧水があり、幾筋もの流れがあります。そして、それらの水を集めて東西に長く水面を広げているのが「大池」です。この池はもとは湿地帯だったのを改造して、昭和29年〜33年に造られました。面積約1万平方メートル、周囲約800メートル、深さは1〜1.5メートルほどで、タモロコ、モツゴ、ゲンゴロウブナ、コイ、金魚、ヨシノボリなどの魚が棲んでいるそうです。また、コブハクチョウも飼われています。

(ハケの湧水)

 

 













(野川の始まり。大池の水はここから中央線の下をくぐって研究所の外へ出ていきます)



  日立中央研究所のホームページ


     西恋ヶ窪の谷(国分寺市西恋ヶ窪1丁目)

 野川の水源は実はもうひとつあります。源流の谷戸(恋ヶ窪谷)は最奥部が二つに分かれているのです。中央線を越えて北へ伸びるのが日立中央研究所内の返仁橋で渡った谷戸。もうひとつは中央線の北側で西へ枝分かれしている谷戸です(下の写真)。



(西国分寺駅東側の高台から見た西恋ヶ窪の谷戸。向こうの森は日立中央研究所。線路は中央線で、一番手前は旧国鉄・下河原線の廃線跡)












 国分寺市の中央線の北側にある恋ヶ窪という町の名は本来、この谷戸を形成した湧水の窪地(はけ)のことを指すのでしょう。恋ヶ窪という地名の由来には諸説あり、武蔵国府へ続く道のある窪地という意味で「国府ヶ窪」だったのが変じたともいいますが、恋ヶ窪の字があてられるようになったのは、この付近に鎌倉街道の宿場町があり、多くの遊女がいたことと関係がありそうです。いずれにしても、古くからの地名で、文明18(1486)年に京都・聖護院の門跡、道興准后(どうこうじゅごう)が当地を訪れ、「朽ちはてぬ名のみ残れる恋ヶ窪今はた訪ふも知記(契)りならずや」の歌を残しています。恋ヶ窪谷の北端に近い熊野神社境内に歌碑があります。ちなみに熊野神社の北には江戸時代に玉川上水から分水した恋ヶ窪(村)用水旧鎌倉街道が残っています(用水に水は流れていません)。
 恋ヶ窪は古くから交通の要衝で、中世の鎌倉街道以前には古代官道「東山道武蔵路」が鎌倉街道の少し東寄りを通っていました。そして、恋ヶ窪は重要な宿駅として賑わっていたのです。7世紀半ば頃に完成したとされる東山道武蔵道は西国分寺駅南東にあった鉄道学園跡地の発掘調査で、両側に側溝を持つ幅12メートルの直線道路の跡が見つかっていて、恋ヶ窪谷へは切通しで下っていたようです。また、旧鎌倉街道は西国分寺駅の南方、JR武蔵野線の西側に往時の面影を残す道が保存されています。これらの幹線道路がわざわざ恋ヶ窪谷を通っていたのは、そこに豊かな水があったからでしょうか。

(古代官道「東山道武蔵路」跡の遊歩道。この道の下0.8〜1メートルに幅12メートルの道路遺跡が埋まっている)

(西国分寺駅南方の旧鎌倉街道。この先、国分寺崖線を下ると黒鐘谷戸で、そこに国分尼寺がある)



     姿見の池(国分寺市西恋ヶ窪1丁目)

 恋ヶ窪は現在の町名では東恋ヶ窪と西恋ヶ窪に分かれていて、日立中央研究所内の谷戸を中心とした地域が東恋ヶ窪で、もうひとつの谷戸を中心とした地域が西恋ヶ窪です。そして、西恋ヶ窪の谷戸にあるのが「東京の名湧水57選」にも選ばれた「姿見の池」です。
 「姿見の池」は、元々は付近からの湧水や玉川上水から引いた恋ヶ窪用水を水源とする池でした。 かつて恋ヶ窪宿の遊女達が、朝な夕なに自らの姿を映して見ていたことから、「姿見の池」と呼ばれるようになったと伝えられています。
 また、この池には恋ヶ窪の地名とも関連して、次のような話が伝わっています。源平争乱の時代、鎌倉方の武将・畠山重忠が恋ヶ窪の遊女・夙妻(あさづま)太夫と恋仲になりましたが、重忠は源義経に従って木曽義仲および平家追討のため西国に向います。この間に太夫に惚れた恋仇の男が「重忠は討ち死にした」と嘘をつき、太夫の心を自分に向かせようとしたのですが、嘆き悲しんだ夙妻太夫は姿見の池に身を投じたという話です。戦場から戻った重忠は太夫の菩提を弔うために近くの東福寺に阿弥陀堂を建立したということです。また、里人が太夫の墓のそばに植えた松の木は不思議なことに一本葉で、その枝は西へ西へと伸びていったという「一葉松」の悲恋物語が後世に伝えられました。今は3代目の松の木が恋ヶ窪谷の西端、東福寺境内にあり、その傍らには「傾城之墓」という夙妻太夫の慰霊碑があります(右写真)。ちなみに傾城(けいせい)とは君主がその美しさに夢中になると城が傾くという意味から絶世の美女、とくに遊女のことを指す言葉です。

 そんな姿見の池ですが、昭和40年代に埋め立てられてしまいました。それが、平成10年から池を中心に谷戸の風景を再生する事業が始まり、姿見の池も復元されたのです。
 現在の池の水源はJR武蔵野線のトンネルから引いた地下水です。1991年10月、関東に接近した台風21号による豪雨の影響で、トンネルにはさまれた掘割式の新小平駅付近の地下水位が異常に上昇し、路盤が隆起、地下水の流入で駅は水没し、武蔵野線は同駅付近が2か月間不通となりました。また、周辺の住宅街でも地下水による浸水被害が発生。このため、武蔵野線のトンネルの地下水を導水して恋ヶ窪谷にかつてあった姿見の池を復元し、その水を野川に流すことになったわけです。
 現在は谷戸の奥の東福寺付近で姿を現した水が復元された恋ヶ窪用水を流れ、姿見の池を潤し、水路(途中から暗渠)を通じて日立中央研究所内に入り、所内の湧水と合流して中央線の下をトンネルでくぐって野川に流れています。

(姿見の池。画面手前の湿地の下に古代官道の遺構が埋まっている)

(復元された恋ヶ窪用水。ここから野川への水の流れが始まる)


 とりあえず、河口から源流まで野川を遡ってきました。見どころいっぱいの東京の小河川・野川の旅をぜひ楽しんでみてください。


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