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《東京の水辺》
野川じてんしゃ散歩 Part3 (上流編)
武蔵野を流れる野川を多摩川合流点から源流へと辿ります。Part3は野川公園からさらに上流へと向かいます。
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西武多摩川線(小金井市東町1・5丁目)
都立野川公園を抜けると、すぐに二枚橋がかかり、その向こうを西武多摩川線(武蔵境〜是政)が通っています。単線で、都会の電車のわりにはローカル線の風情です。
右写真の手前の橋は公園内の「くり橋」、そのすぐ上手に二枚橋があります。また二枚橋の右岸側には二枚橋ゴミ焼却場があります。
都立武蔵野公園(小金井市東町5丁目・前原町2丁目・府中市多磨町3丁目ほか)
西武線の高架橋をくぐると、さらに公園が続きますが、こちらは都立武蔵野公園です。野球場などもありますが、大部分は樹林地や原っぱになっています。
右岸側では街路樹用の苗の育成が行なわれているほか、園地が雨水を地下に溜めてゆっくりと野川に流す貯留浸透施設(緑の地下ダム)になっています。
このあたりの野川には夏場は水面が見えにくくなるほど草が生い茂り、野趣あふれる、まさに野の川の姿となります。園内には野川の両岸を結ぶ箭真舳(やまべ)橋がかかっています。野川に架かる橋の中で一番の難読橋名でしょう。
(秋の武蔵野公園)
野川第一調整池(小金井市東町5丁目)
武蔵野公園の左岸側には野川第一調整池が現れます。野川増水時にあふれた水が堤防を越えて流れ込み、一時的に水を貯める仕組みで、普段は草原になっています。近年、ここにハケの湧水を引き込んでビオトープの「どじょう池」や田んぼが作られています。
また、堤防(越流堤)部分はスケートボードの絶好の練習場になっていています。
(堤防の左側が野川。右が調整池)
(どじょう池と田んぼ)
仙川小金井分水路合流点(小金井市中町1丁目)
第一調整池の越流堤の上手に口を開けているのが仙川小金井分水路です。これは野川の支流で小金井市北部に源を発する仙川(世田谷区内で野川に合流)の洪水防止のため、その水を地下水路を通じて野川に流すためのものだそうです。その地下トンネルがここで口を開けているわけです。大雨の時には野川上流からだけでなく、仙川の水も流入するため、ここに大規模な調整池が造成されたのでしょう。
この分水路の建設計画に対して工事による地下水汚染などの懸念から住民の反対運動もあったそうですが、工事は実施され、地下水路は完成しています。ただ、これがどの程度役に立っているのかは不明です。
野川第二調整池(小金井市中町1丁目)
武蔵野公園内の野川左岸側には第一調整池につづいて、そのすぐ上手に野川第二調整池があります。こちらもふだんは広々とした草原です。
この調整池の縁には「小金井水田跡」の石碑が立ち、また、「富士山 約83km」と書かれた木製の矢印が立っています。ある秋の夕暮れにここを通りかかった時、そのあたりにカメラを構えた人たちが数人いて、その矢印の示す方角に富士山の小さなシルエットが見え、ちょうど山頂に夕陽が沈んでいきました。
(小金井新橋から下流側を見る。左が第二調整池。右は「くじら山原っぱ」)
小金井新橋(小金井市前原町2丁目・中町1丁目)
武蔵野公園の最西端で野川にかかるのが小金井新橋です。ここから上流の野川は住宅地の中を流れていますが、岸辺には枝垂桜が植えられ、また住民の方々が育てた四季折々の花が咲き、心地よい散歩道です。
川岸にはススキなどが生え、このあたりも水面が隠れるほど草が茂っています。
右の写真は小金井新橋から上流側を見たところです。
前原町二丁目遊歩道(旧河道)(小金井市前原町2丁目)
小金井新橋の上流、右岸側には旧河道が一部遊歩道となって、2つ先の天神橋あたりまで通じています。
(小金井新橋〜天神橋間の旧河道)
また、この旧河道には前原町2−12で南方から支流が合流しており、これも遊歩道になっています。この川がどこから流れてきているのか未確認ですが、東八道路のさらに南側、小金井市と府中市の境界あたりからと思われます。
(野川旧河道に南から合流する支流跡。今は前原町二丁目遊歩道となっている)
はけの道
少し戻りますが、西武多摩川線の高架をくぐったところから、野川の北側を国分寺崖線の裾を縫うように一本の道が続いています。これが「はけの道」です。
武蔵野公園付近では崖線斜面も一部は園地に組み込まれ、崖線の雑木林の保全が行われています。野川とは少し離れたところを通っていて、武蔵野公園を過ぎれば、平凡な住宅街の中を行きますが、それでも見どころはいろいろあります。北側に折れる道は崖線上に通じているのですべて急坂や階段になっています。
はけの森美術館と美術の森(小金井市中町1丁目)
武蔵野公園を過ぎてさらに「はけの道」を行くと、まもなく「はけの森美術館」があります。洋画家・中村研一画伯(1895‐1967)の住居跡で、元は中村研一記念美術館でしたが、小金井市が敷地と建物の寄贈を受け、2006年4月に「小金井市立はけの森美術館」として改めて開館したものです。中村研一作品の常設展示のほか企画展も行われています。
この美術館の裏手が「美術の森」で国分寺崖線の豊かな緑が残り、「東京の名湧水57選」に選定された湧水があります。こちらは自由に散策できます。また、旧中村邸が今は「オーブン・ミトン・カフェ」という喫茶室になっており、散策の休憩にぴったりです。
はけの小路(小金井市中町1丁目)
「美術の森」の前で「はけの道」から南へ折れる細道が「はけの小路」です。「美術の森」の泉から流れ出した水がこの小路に沿って野川に向ってさらさらと流れ下っていきます。水は途中から地下水路を通って野川へ注ぎますが、小路も民家や畑の間を続き、小金井新橋と中前橋の間で野川にぶつかります。
かつては「美術の森」などこの一帯の湧水の多くは小金井市内の下水道整備とともに野川には流れ込まなくなり、下水道に捨てられていたそうです。それが住民の働きかけによって野川への水路が整備され、昔のように野川に湧水が注ぐようになったということです。この「はけの小路」もそうした地域の方々の運動の成果なわけです。
はけの道果樹園(小金井市中町1丁目)
「はけの道」をさらに西へ行くと、薬師通りと交差して小金井市立第二中学校の北側を通ります。薬師通りは国分寺の薬師堂へ至る参詣道の名残で、野川とつかず離れず西へと続いています。
中学校の向かい側には「はけの道果樹園」があり、キウイフルーツが栽培されています。
また、「はけの道」を歩いていると、昔懐かしい郵便ポストが今も健在です。野川上流部の小金井市〜国分寺市あたりを散策していると、けっこうあちこちで見つかります。
小金井神社(小金井市中町4丁目)
小金井二中の南西側にあるのが小金井神社です。1205年に菅原道真(天神様)を祀って創建された古社で、天満宮と呼ばれていましたが、明治になって小金井の里の総鎮守として小金井神社と名を改めました。
この神社のすぐ南で野川にかかる橋が天神橋です。天神橋から野川に沿って上流へ行くと、右に自動車教習所を見て、霊園通りを渡す丸山橋に至りますが、ここはもうしばらく「はけの道」を辿りましょう。
(丸山橋から下流の天神橋方向を見る。左手の森が小金井神社)
はけの森緑地(小金井市中町4丁目)
「はけの道」をどんどん西へ行くと、金蔵院というお寺に行きあたりますが、その手前右側に鬱蒼とした緑に囲まれた旧家があり、その向かい側の空き地に湧水の流れる水路があります。この空き地は将来どのようになるのでしょうか。
そして、旧家の裏手に国分寺崖線の自然を保全するための「はけの森緑地」があります。僕が訪れた時は扉が閉じられていましたが(右写真)、柵越しに湧水の存在は確認できました。
金蔵院の南側の細い路地を行き、突き当りを左折したところには「はけの森緑地2」もあります。
金蔵院と西念寺(小金井市中町4丁目)
「はけの道」の突き当たりにあるお寺が真言宗の金蔵院。正式には天神山金蔵院観音寺といい、山号から分かる通り、小金井神社と繋がりのあるお寺だったようです。このお寺の開山年は不詳とのことですが、中興開山は1566年といい、小金井市内では最古のお寺です。境内の南東角にケヤキとムクの大木があるほか、四季折々の花が咲き、特に萩の寺として親しまれ、境内には本尊の十一面観音を安置する本堂のほかに薬師堂もあって、なかなか雰囲気のあるお寺です。多摩八十八ヶ所霊場の第31番札所です。
この金蔵院のすぐ南東側にあるのが浄土真宗の雲龍山西念寺です。1617年に江戸浜町に創建されたお寺ですが、1657年の明暦の大火で焼失、築地に移転します。これも関東大震災で焼失し、昭和3年に当地に移転してきたそうです。
西念寺の南側の墓地には幕末の侠客で清水次郎長とも交流があったという小金井小次郎の墓と追悼碑(墓碑銘は山岡鉄舟の筆)があります。小次郎は流刑となって12年間過ごした三宅島で水不足に苦しむ島民のために井戸掘りや貯水槽造りに尽力し、島民に慕われたといいます。それが縁で小金井市と三宅村は現在も友好都市の関係を結んでいます。
また、同墓地には寛文6(1666)年に建立された庚申塔があります。庚申塔に地蔵尊と三猿を刻んだものは珍しいということです。
(小金井小次郎追悼碑と庚申塔)
金井原古戦場跡の碑(小金井市前原町4丁目)
さて、二枚橋から約2キロ続いた「はけの道」も金蔵院前で終わります。金蔵院の南側の路地を進み、突き当たりを墓地沿いに北へ行くと階段を経て小金井街道に出て、JR中央線の武蔵小金井駅方面へ行けます。一方、南へ行くと「はけの森緑地2」の前を通って、やはり前原坂を下ってきた小金井街道と合流します。
小金井街道は「前原坂下」の信号で左に多磨霊園に通じる霊園通りを分岐しますが、その三叉路の角に「金井原古戦場跡の碑」があり、「史蹟 金井原古戦場 正平七年 新田義興 義宗等 足利尊氏ト此ノ地ニ戦フ」と記されています。
金井原はこの付近一帯の古い地名で、南北朝時代の1352年、南朝方で新田義貞の子・義宗、義興の軍勢が鎌倉攻めに向かう途上、足利尊氏の軍勢を破ったのがこの地だということです。激しい戦いによって野川の水も赤く染まったのかもしれません。
この「「野川じてんしゃ散歩シリーズ」の一番初めに野川河口の「兵庫島」のところで触れたように、新田義興が多摩川・矢(ノ)口の渡しで足利方に謀殺されたのは6年後の1358年のことです。
なお、この石碑は一時、近くの前原小学校近くに移されていましたが、現在は元の位置に戻っています。
新前橋(小金井市前原町3・4丁目)
再び野川沿いに戻ります。「金井原古戦場の碑」の三叉路から霊園通りを南に行くとすぐ丸山橋、小金井街道を行くとすぐ新前橋で野川を渡ります。新前橋の下で再び右岸側(南側)から旧河道が合流しています。小金井街道はこの旧河道を前橋という橋で渡っているので、現在の野川にかかるのは新前橋というわけです。ちなみに旧河道にはふだんは水は流れていません。
このあたりの野川も相変わらず水面が隠れるほど草が茂っています。
(画面右が新前橋。画面中央の奥から旧河道が合流してくる)
下の写真は野川旧河道で、前橋の上手にある質屋坂通りの橋から前橋方向を見たところです。今も「野川」の表示板が立っており、ふだんは水が流れていないものの、大雨の時にはこちらにも雨水が流入するようです。
前原小学校(小金井市前原町3丁目)
野川をさらに遡ると、新前橋の次が大城堀橋で、その少し上手で小金井市立前原小学校の校庭の下に姿を消してしまいます。新前橋で分かれた旧河道は校庭の南縁を通っていますが、新しい水路は学校の敷地の真下をくぐっているわけです。学校内に立ち入るわけにはいかないので、迂回しなけれればなりません。小学校手前左岸側の野川緑地公園に迂回路の案内図があります。
右の写真は前原小学校の下のトンネルを抜けて出てきた野川を大城堀橋から見たところです。このあたりも草が猛烈に茂っています。
(前原小学校の上流側。水はトンネルの中へ)
(小学校上流側にある4羽の小鳥がいる車止め。これ、けっこうあちこちで見かけます。山本商会のPicolinoシリーズ)
前原町3丁目の旧河道(小金井市前原町3・5丁目、貫井南町2丁目)
新前橋付近で分かれた野川旧河道は前原小学校の南側を校庭に沿って続きます。ふだんは水が流れておらず、遊歩道になっています(右写真。画面右側が学校)。
旧河道は小学校の西側で現在の野川と再び出合いますが、ここから上流も旧河道が現在の野川とは別に存在します。地図で見ると、前原町3丁目と同5丁目及び貫井南町2丁目との境界線が旧河道であることが容易に判断できるでしょう。そこで前原小学校の西側から南西へ行く道を辿ると、水の流れていない水路が再び現れます。そして、この水路は公園(下弁天広場)の中へと続き、そこに水源らしきものがあります(下の写真)。地下水を人工的に汲み上げて流しているようですが、僕が訪れた時は水は止まっていました。ここには国分寺崖線とは異なる台地斜面があるので、古くは湧水が存在したのでしょう。国分寺崖線は野川の北側に続きますから、南側に崖があるのは珍しい例です。
(旧河道と下弁天広場の水源)
下弁天(小金井市貫井南町2丁目)
旧河道の人工水源を過ぎて、なおも公園内を行くと、小さな社があります。それが下弁天です。
古くからこの土地に定住し開拓した大澤一族の里人が清水の湧くこの場所に水神を祀ったのが始まりで、この先にある貫井神社の境外社とされました。そして、上流に位置する貫井神社が上弁天なのに対して、こちらを下弁天と呼んだということです。神社の祭神は日本古来の水神である市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)ですが、これは神仏習合によって外来の弁才天(弁財天)と同一視されているので、弁天様として信仰されてきたわけです(ちなみに弁才天はヒンドゥー教の女神サラヴァティの漢訳で、仏教に取り入れられ、日本にも伝わりました)。そして、弁天様といえば、水です。ここにはかつて湧水の池があり、中の島に神社がありました。現在も島に渡る石橋が残っていますが、昭和30年代に湧水が止まり、池も涸れてしまいました。従って、今は水のない窪地が神社を囲むように残るだけです。かつて、下弁天池の水はそのまま野川に流れ込んでいたと思われます。
(下弁天。左手の窪地が池の跡)
さらに、この旧河道を辿っていくと、荒牧橋で現在の野川に出合います。
(現在の野川。荒牧橋下流)
遊歩道南6号線(小金井市貫井南町2丁目)
さて、現在の野川に戻りましょう。
前原小学校から上流は野川に沿って桜並木の心地よい散歩道が続きます。順番に前原野川橋、西之台橋、豊住橋、大城(だいじょう)橋、荒牧橋と架かっていますが、荒牧橋の少し下流で左岸側から音をたてて水が流れ込んでいます。
この流れに沿って小金井市が整備した遊歩道(南6号線)があるので、辿ってみると、道は北へと続き、やがて一般道になり、水路も普通の側溝になりますが、さらに遡っていくと、柵で囲われた国分寺崖線の鬱蒼とした森に突き当たります。水はこの森から流れ出ているわけです。そして、この森が滄浪泉園です。突き当たりを右に進み、庭園東側の坂道を崖線上へと上っていくと、入口があります。
(湧水の流れる水路沿いの遊歩道)
滄浪泉園(小金井市貫井南町3丁目)
滄浪泉園(そうろうせんえん)は明治・大正期に三井銀行役員や外交官、衆議院議員などを歴任し政財界で活躍した波多野承五郎(雅号・古渓、1858-1929)の別荘だったところで、大正8(1919)年、この庭を訪れた犬養毅(のち首相在任中に五・一五事件で殺害)が「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある庭」という意味で「滄浪泉園」と名付けたということです。その後、所有者が変わり、昭和50年頃には敷地の一部が宅地などに変わり、さらに昭和52年にマンション建設計画が持ち上がりましたが、住民運動の結果、東京都が買い上げ、緑地保全地区として守られることになりました(現在は小金井市に移管)。庭園面積は3分の1程度に縮小され、別荘時代の建物も失われましたが、国分寺崖線の地形を生かした園内には豊かな自然が残り、湧水の池があります。この池の水が水路を通じて荒牧橋の下流で野川に合流しているわけです。
「東京の名湧水57選」に選ばれています。
火曜休園。入園料100円。
貫井大橋(小金井市貫井南町2丁目)
野川に戻って、荒牧橋の次が新小金井街道を渡す貫井大橋です。新小金井街道はここから坂道になって国分寺崖線の上へと続きますが、勾配を緩和するために貫井トンネルが掘られ、切通しで上っていきます。
湧水の豊富な野川流域では旧石器時代から人が住みつき、数多くの遺跡がありますが、貫井トンネルの上にも「はけのうえ遺跡」の説明板があります。
貫井大橋の上流も改修された親水空間になっており、坂下橋、貫井新橋と行くと、右岸側に「野の草茶房」という自然食レストランがあり、このお店を囲むように旧河道跡が短い遊歩道となって残っています。
(貫井大橋から上流側の眺め。国分寺崖線が続いているのが分かる)
貫井神社(小金井市貫井南町3丁目)
貫井新橋の次が弁天橋です。弁天橋があるからには近くに弁天様が祀られているわけで、それが貫井神社です。弁天橋の下手で左岸側から水が流れ込んでいて、この水が流れてくる側溝を辿っていくと、国分寺崖線を背にした貫井神社の前に出ます。
門前に湧水が流れ落ちていて、そこに「貫井プールの碑」が立っています。大正12年にこの地に貫井神社の湧水を利用した近代的な50mプールが造られ、昭和52年まであったということですが、現在は跡地が駐車場になっています。
さて、神社の石段を登ると、赤い橋の架かる池があり、スイレンやコウホネが植えられ、鯉や亀が泳いでいます。拝殿の左奥の崖下から水がこんこんと湧き出しているほか、ほかにも湧出点がいくつかあり、これらの水が水路を通じて池に注いでいて、境内は水音が絶えません。この湧水は小金井の地名の由来とも言われ、「東京の名湧水57選」に選定されています。
この豊かな湧水の地に天正18(1590)年、水神を祀り、貫井弁財天と称したのがこの神社の始まりです。野川の少し下流に位置する下弁天に対して、こちらが上弁天だったわけです。明治になって神仏分離令によって厳島神社と改称、さらにその後、貫井神社となりました。1709年建立の本殿及び拝殿は1985年7月に火災で焼失し、現在の建物はその後に再建されたものです。
湧水の道(小金井市貫井南町4丁目)
この付近の野川は改修によってほとんど直線化されていますが、これまで見てきたように、曲がりくねった旧河道が今もあちこちに残っています。で、弁天橋の上流にも左岸側に旧河道が残っていて、そのうち次の西之橋までの区間は貫井神社の湧水を引いて「湧水の道」として整備されています。澄んだ水の中にはザリガニがたくさんいて、ザリガニ釣りを楽しむ親子連れの姿も見られます。
寛政六年の庚申塔(小金井市貫井南町4丁目)
西之橋から南へ行くと突き当たりにY字路があり、その角に古い庚申塔があります。風化して文字が読みにくいのですが、小金井市教育委員会が立てた説明板によれば、寛政6(1794)年に建立されたものだそうです。正面には「絶三尸罪(ぜっさんしざい)」と刻まれており、これは都内でも珍しく貴重なものだということです。
そもそも庚申信仰は中国の道教に起源をもつ民間信仰で、「三尸(さんし)説」に基づいています。人の体内には三尸の虫という虫がいて、これが60日に1度巡ってくる庚申(かのえさる)の日の夜、人が眠っている間に体内から抜け出して、その人の悪事を天帝に報告に行き、天帝は悪事の大小に応じてその人の寿命を縮めると考えられていました。そのため、人々は庚申の日に集まり、三尸の虫が出ていかないように夜通し寝ずに過ごしたわけです。これを庚申待といい、3年で18度の庚申待を続けると、それを記念して供養塔を建てたということです。庚申信仰は貴族を中心に行われていたのが形を変えながら室町時代頃から庶民にも広まり、庚申塔は江戸時代に入ると盛んに建てられるようになりました。塔には青面金剛と三猿を刻むのがよく見るパターンで、「庚申」などの文字だけのものも少なくありませんが、「絶三尸罪」の文字を刻んだものは初めて見ました。
塔の側面には「右小川・すな川道、左こくぶんじ道」という道しるべがあり、台座には「貫井村講中」と刻まれています。この左への道が先ほど小金井市内で「はけの道」を横切っていた薬師通りの続きのようです。
鞍尾根橋(小金井市貫井南町4丁目・国分寺市南町1丁目・東元町1丁目)
西之橋の次が鞍尾根橋で、この橋の上が小金井市と国分寺市の境界になっています。この橋から国分寺崖線上へと続く坂が「くらぼね坂」です。説明板によれば、「急坂の東が切り立つような赤土の崖で、雨の降る時などは人も馬も滑って歩くことができなかったといわれる。鞍(馬)でも骨を折るとか、『くらぼね』は断崖の連続した段丘崖を意味するともいわれ、諸説がある」ということです。
さて、この橋を境に野川は大きく姿を変えます。ここから下流はすでに見てきたように、改修・拡幅されて、水に親しめる空間となっていますが、鞍尾根橋の上流(国分寺市内)はコンクリート張りの味気ない姿で、幅も狭く、しかも、曲がりくねっています。川沿いの遊歩道もなくなり、いったん野川から離れて迂回するほかありません。ここから下流もかつては似たような姿だったのが、近年改修されたようです。
(鞍尾根橋の下流側と上流側で対照的な野川の姿)
東京経済大学の新次郎池(国分寺市南町1丁目)
鞍尾根橋のところで、北側から「くらぼね坂」に沿って流れ下ってきて、野川に合流する水路があります(右写真)。この水路を辿っていくと、東京経済大学の敷地内から流れ出ているのが分かります。そして、通用門から入って流れをさらに辿ると、国分寺崖線下に5ヶ所の湧水があり、それらの水が池をつくっています。それが新次郎池です。これらの湧水はかつてワサビ田として利用されていたのを北澤新次郎学長(1957−1967年在任)の時代に池として整備し、「新次郎池」と命名されたということです。「東京の名湧水57選」にも選定されています。
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