このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

◆弘前城は、 天守・五つの城門・三つの櫓が現存し、 いずれも重要文化財に指定されている。
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弘前城跡

■面積約49万2千平方メートル(約14万9千坪)を有し、本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭よりなり、3重の濠と土塁でめぐらされた城郭。

▲津軽為信(ためのぶ)像

▲追手門(おうてもん)、南内門(みなみうちもん)、東門(ひがしもん)、東内門(ひがしうちもん)、北門(きたもん・「または亀甲門(かめのこもん)」の五つの城門。

▲東北地方に現存する唯一の天守

▲辰巳櫓(たつみやぐら)、未申櫓(ひつじさるやぐら)、丑寅櫓(うしとらやぐら)の三つの隅櫓。

弘前城探訪
弘前城周辺の名所・旧跡
現存する隅櫓・城門と、その他の遺構
本丸・北の郭・西の郭
弘前城

ひろさきじょう

別名鷹岡城(たかおかじょう)
所在地青森県弘前市
地形種類平山城
築城年慶長16年(1611)
築城者津軽信枚(つがるのぶひら)
文化財指定区分国史跡、重要文化財9件
天守現存天守、層塔型、三重三階
弘前城の歴史
史跡 津軽氏城跡 弘前城
 弘前藩(津軽藩)10万石の居城。西に岩木川、東に土淵川、西から南にかけて急崖がつくる細長い台地に築かれた平山城。

 戦国時代、三戸南部氏との激しい抗争を経て、津軽統一を成し遂げた藩祖大浦(津軽)為信が高岡の地に築城を計画、その子2代藩主信枚(のぶひら)が慶長15年(1610)に着手し、翌慶長16年(1611)に、ほぼ完成した。以後弘前城は、津軽氏の居城として廃藩に至るまでの260年間、津軽藩政の中心地であった。

 はじめ高(鷹)岡城とよばれたが、寛永4年(1627)の落雷によって5層天守が焼失、火災は屋敷御殿まで及び、その翌年弘前城と改称された。

 3層の現天守は、9代寧親(やすちか)の文化8年(1811)に本丸の隅櫓を改造して構築。明治維新後、本丸御殿や武芸所などが破却されたが、3つの櫓、5つの門は保存され、天守とともに重要文化財に指定されている。城跡は、明治28年(1895)に、弘前公園として開放され、昭和27年(1952)には、国史跡に指定される。                                     

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