このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

本丸・北の郭・西の郭

▲本丸戌亥(いぬいの)櫓跡
城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために本丸西北隅に造られ、防弾・防火のために土蔵造りであった。櫓下には番所も置かれ、北の郭から櫓台下、本丸への通路があった。

▲御金蔵跡
寛文13年(1673)の絵図にすでに記載があるが、延宝8年(1680))に建設されたともいわれている。入口前には番所も置かれていた。

【本丸内より見た天守】
 内二面(西・北)は、連窓と鉄板戸だけの造りとなっており、切妻破風や狭間で飾られた城外側と、一見すると別の天守のように見える。

 石段を上がった所が入口。屋根は銅板本瓦葺、棟高16メートル。

【天守内部の様子】

「左上」城外側(東・南)に設けられた石落し

「右上」矢狭間の設けられた天守内部

「左」矢狭間

■北の郭は、西方から北方にかけて高さ約6メートルあまりの崖に面している。発掘調査により、子の櫓のほか、館神、籾蔵などの跡が確認され、本丸に次ぐ重要な郭であることが明らかになった。
■本丸は、四方に石垣が築かれ、藩政時代には御殿や能舞台が建てられていた。 なお、本丸と北の郭は有料区域となっています。

▲籾蔵跡(もみぐらあと)
寛文12年(1672)に四代藩主信政の生母である久祥院の屋形が建てられ、廃藩の頃には、籾蔵が建ち並んでいた。現在は、その礎石列を表示している

▲館神跡(たてがみあと)
太閤秀吉の木像をご神体として安置した場所で、ごく限られた人だけが出入りできる場所であった。現在は鳥居の礎石、本殿の柱などを表示している。

▲本丸未申(ひつじさる)櫓跡
ここには、築城当時は5層の天守があったが、寛永4年(1627)に落雷で焼失したために、隅櫓が建設された。櫓の方角を十二支で示したもので、未申は南西に当たる。

【下乗橋から見た天守】
 東北地方に現存する唯一の弘前城天守は、2代藩主信枚(のぶひら)により慶長16年(1611)に5層の天守が造られたが、寛永4年(1627)に落雷で焼失。

 現在の天守は、蝦夷地警備の功績を認められた9代藩主寧親(やすちか)が、10万石となった文化7年(1810)に、本丸辰巳櫓を層塔式天守の外容に改築し、翌文化8年(1811)に完成させたもので「御三階」とよばれた。天守にふさわしく大きく見せるため、濠側の外二面(東・南)の窓を箱狭間とし、切妻破風を軒先に飾り、鉄扉窓をつけず矢狭間だけとしている。

▲子の櫓跡(ねのやぐらあと)
武具などを保管していた三層の櫓の跡で、展望デッキからはその芯柱の礎石(写真右)など、発掘されたままの状態を見ることができる。子の櫓は、明治39年(1906)花火のため焼失。

▲溜池堀
本丸西側直下には岩木川支流を導き、幅58m、長さ196mの溜池堀を築いた。岩木川とともに西側からの攻撃を防ぐ仕組みで、現在は蓮池と呼ばれる。

▲埋門跡(城内側)
埋門(うずみもん)とは、石垣などの間に築かれる裏門の一形式で、延宝4年(1676)の規定によると普段は扉を閉めていた。馬屋町一帯は外曲輪であったが、天和2年(1682)に川筋の整備に伴って、郭外の扱いとなった。現在の石垣は、紀年銘から天保年間に整備されたことが知られる。

▲本丸南側の虎口
桝形を構成しており、巨石(亀石)が据えられている

「上」 本丸中央より天守の北面・西面を望む。広場となっている所にはかつて、本丸御殿や能舞台、御武芸所など敷地の7割ほどに各種の建物があった。
「左」 本丸御殿御玄関礎石。この礎石に玄関の柱が建てられていた。御殿は日常の事務を行う表と、藩主が政務を行う中奥、藩主の日常生活の場の大奥に大別される。
「下」 天守内部の弘前城史料館に展示の“弘前城御本城模型”。本丸に本丸御殿などの模型が建ち並ぶ。左端は本丸南側の桝形虎口、建物は天守、右端に赤い鷹丘橋が見える。

【天守西面(左半分)と南面(右半分)】
 西面は、連窓と鉄板戸のシンプルな構造。南面は、箱狭間、切妻破風、石落し、矢狭間などを設けるなど古形式になっている。
「写真下」
 天守内側の石垣は、格式と豪壮さを強調するため、石の色彩と形を整わせて積む切込ハギ手法となっている。

【二の丸側から見た下乗橋】
 下乗橋(げじょうばし)を渡って本丸へと至ります。
下乗橋は、本丸と二の丸を結ぶ橋で、この橋の二の丸側に下馬札(げばふだ)があり、藩士は馬から降りるように定められていた。

 築城当初、橋の両側は土留板だったが、文化8年(1811)に石垣に直したものである。以前は擬宝珠が十二支をかたどったものであった。

▲南側から望む西濠
後方の赤い橋は春陽橋。

▲西の丸埋門跡(城外側)と土橋
馬場より城内に入る虎口

▲天守より岩木山(津軽富士・標高1625m)を望む

▲本丸北側の石垣と内濠。

▲北側から見る天守・下乗橋・内濠。訪問した時内濠は、蓮が生い茂っていました。

【虎口の巨石】 下乗橋を渡って少し行った所にある、本丸南側の桝形石垣には、入城者を威圧するため、入口の角に巨石(亀石)が立ち(写真左・中)、桝形正面(写真右)にも数個据えられている。

「左上」
本丸と北の郭の間の内濠に架かる鷹丘橋(たかおかばし)。本丸側より、北の郭(くるわ)を見る。
「右上」
北の郭の一部。
「左」
北の郭に建つ武徳殿休憩所。明治44年(1911)に演武場として竣工し、その後休憩所として保存修理した建物。

本丸
北の郭
西の郭
最初のページに戻る
現存する隅櫓・城門と、その他の遺構
弘前城周辺の名所・旧跡

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください