このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

重要文化財  二の丸 東内門(正面)  三の丸から中濠に架かる石橋を渡り、二の丸へ至る入口に建つ。 入母屋造り銅板葺き、脇戸付き櫓門。内側には、日本最古のソメイヨシノが枝を広げ、その奥に与力番所が建つ。
重要文化財 三の丸 追手門     建築年代 慶長十六年(一六一一)             二代藩主 津軽信枚     棟  高  十一・七メートル  弘前城には、築城当初十棟の城門があったとされているが、現在二の丸南内門、二の丸東内門、三の丸追手門、三の丸東門、四の丸北門(亀甲門)の五棟が残されている。  弘前城の城門は、周辺を土塁で築き、内外に桝形を設けた二層の櫓門であるが、門の前西に特別の門(高麗門)などを設けていないことや、一層目の屋根を特に高く配し全体を簡素な素木造りとしていることなどから、全国の城門の中でも古形式の櫓門として注目されている。
現存する隅櫓・城門と、その他の遺構
 重要文化財 弘前城二の丸丑寅櫓  辰巳櫓、未申櫓と同じく、城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、屋根はかつてはヒバのとち葺きであったが、今は銅板葺きとなっている。 軒下や出格子の木部は素木のままで飾り気がないが、独特の美しさを見せる 櫓の方角を十二支で示したもので、丑寅は北東に当たる。
  重要文化財 弘前城二の丸未申櫓  城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られたもので、防弾・防火のために土蔵造りとなつている。現存する三つの櫓はいずれも三層建てで同じような姿であるが窓の形など細部の造作に違いが見られる。櫓の方角を十二支で示したもので、未申は南西に当たる。
 二の丸に建つ東内門(写真右)と与力番所。 その間には、日本最古のソメイヨシノが植栽されている。

▲旧藩士の菊池楯衛から明治十五年に寄贈されたもので、現存するソメイヨシノでは、日本最古である。

▲東内門外橋(石橋)
城内では唯一の石で造られた橋で、弘化五年(一八四八)にそれまでの土橋を掛替えた。奥の右に東内門が建つ。

▲見張番所
櫓門の一階に見張番を置き、通常用いる潜戸(くぐりど)の脇に出窓を開いて、出入りを監視した。

▲城内側から見た追手門(他の城でいう大手門のこと)

▲中濠に架かる杉の大橋。橋を渡った左手が二の丸で、その先には南内門が位置する。

重要文化財
 三の丸東門

 町家に通じる東門は、外濠そばに建ち、他の城門と異なり、一階見張番所と出窓が右側に付く。

▲杉の大橋
 南内門外の大橋に当たり、名称は杉材を用いた橋ということから付けられたといわれる。文政四年(一八二一)に濠の両側が石垣となるとともに、桧材によって掛替えされた際に欄干・擬宝珠がつけられたものである。
(写真左)手前が三の丸、橋を渡ったところが二の丸で、樹木の間に南内門がわずかに見える。
(写真右)杉の大橋から見た中濠。後方左側に辰巳櫓が建つ。

▲東内門外橋から望む三の丸と東門(城内側)

▲外濠(東側)

▲二の丸から望む天守

▲玉鹿石(青森県天然記念物)
番所前に置かれている

▲二の丸東内門与力番所
 与力番所とは、城内の主要な箇所の見張り所として配置されたもので、藩政時代には、十二ヶ所に置かれていたが、東内門与力番所のみが現存。

 この与力番所の建築年代は定かではないが、柱や梁に残された墨書きは、江戸時代初期に建てられた三の丸東門の墨書き跡と酷似し、構築手法は、江戸時代中期に一度改修したものと推定される。廃藩以降取り壊されることもなく、放置されていたが、昭和五十四年から三ヶ年をかけ、文化庁の指導協力を得て再度復元移築したものである。

▲石橋から見た中濠

▲外壁の表面は、白漆喰を仕上げ塗りする塗籠であるが、古式な形を残す弘前城城門は、柱を見せる壁の仕上げである真壁造(しんかべづくり)になっている。

▲追手門の土塁と土塀

▲低い石垣上に建つ丑寅(うしとら)

▲城内側から見た辰巳(たつみ)

▲中濠の土塁上に建つ未申櫓。右方向(東)に、「杉の大橋」が架かる。

▲三の丸から見た未申(ひつじさる)

▲東内門の城内側

重要文化財  二の丸 南内門(正面)  三の丸から、杉の大橋を渡って枡形に入り、左折した所にある。
追手門の外観  三の丸の南の大手口に築かれた櫓門。 脇戸(わきど)付き、銅瓦葺き。桝形を構成する土塁に囲まれている。  十七世紀半ば、碇ヶ関(いかりがせき)街道が参勤道となったとき、追手門が北門からこの南門に変更されたと考えられる。
 重要文化財 弘前城二の丸辰巳櫓  防衛と物見を兼ねた、防弾・防火のために土蔵造りとなっている。 二の丸辰巳(東南)の隅に建つ三層三階の櫓。 他の櫓と同じような構造で、一・二層は四間四方の同面積であるが、三層目を小さくし、屋根は入母屋にしている。 この櫓で、藩主が三の丸を通る弘前八幡宮の山車行列などをご覧になった。
重要文化財  北門(亀甲門)    移築年代 慶長十六年(一六一一)            二代藩主 津軽信枚    棟  高   十二・七メートル  弘前城には、現在五棟の城門が残されているが、この北門は、これらの中でも特に規模が大きく、また形状も異なり最古の形式を呈する城門である。  四の丸に建つ搦手(からめて)の櫓門で、築城当初は大手だったと考えられる。 写真は城内側から見た亀甲門(かめのこもん)。
 北門は、もと津軽郡平賀にあった大光寺城の城門を慶長十六年二代藩主信枚が築城にあたり弘前城追手門として移築再建したもので、昭和三十三年の保存修理工事に当たって、柱などから多数の矢傷跡が発見されている。  弘前城は、築城以来、実践の経験がないため、この北門が城郭内で唯一の実戦の痕跡をとどめる貴重な城門である。また、棟の両側にある鯱も他の門のものより古い形式のものである点、矢狭間、鉄砲狭間のない点など、見るべきところが多い門である。
桝形虎口  亀甲橋から見た北門。 他の城門と同じく、桝形を構成する土塁・土塀に囲まれ、旧状を良く残している。
二の丸に現存する三基の櫓
【未申櫓・辰巳櫓・丑寅櫓】


(左)堀端から見た辰巳櫓。

(下)辰巳櫓と土塁。
 弘前城二の丸は、南・東・北三方から本丸を塁壁で囲み、土塁上には三層櫓が並んだ。
 三基の櫓の建築年代については、明確な資料がなく、江戸初期のものとみられている。

(左)本丸を死守する二の丸土塁上の丑寅櫓。

(下)三の丸から見た丑寅櫓。
 辰巳櫓・未申櫓と同じような構造で、三層目が小さくなる。三櫓とも屋根は入母屋、とち葺き形銅板葺きで、外壁は白漆喰塗り、石落しがないのを特色とする。

五つの城門
【北門・南内門・東内門・追手門・東門】




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弘前城周辺の名所・旧跡

本丸・北の郭・西の郭

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