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津山城跡

【津山城の沿革】1603年(慶長8)2月、森忠政(ただまさ)が美作一国18万6500石に封ぜられ入国。初代藩主・森忠政は入国すると院庄においてここに築城を計画したが国の中央にある鶴山(つるやま)が軍事上はもとより政治経済など諸般にわたって府城の適地であることを認め、吉井川と宮川の合流点をみおろす小高い鶴山を城地と決め、山名氏の旧塁(中世の山城)の跡をもとに、翌1604年(慶長9)「鶴山」を津山(つやま)と改め城と城下町の建設を開始。途中、江戸城や駿府城普請、大坂の陣などに多くの年月を費やされたが、足かけ13年を経て1616年(元和2)に築城工事は終了。

 忠政は美濃金山城主・森可成(よしなり)の六男に生まれ、可成のあとを継いだ兄・長可(ながよし)の後嗣。1582年(天正10)、織田信長に従って京都本能寺で討ち死にした長定(蘭丸)、長隆(坊丸)、長氏(力丸)の三兄弟は忠政の実兄にあたる。森氏は4代続くが、1697年(元禄10)、4代藩主長成(ながなり)の跡継ぎを立てられずに領地没収となり、翌1698年(元禄11)には松平信宣富(のぶとみ)が美作10万石を領し津山城主となる。その後、松平氏は慶倫(よしとも)まで9代続き明治維新をむかえる。

 江戸時代の終焉と共にその役割を終えた津山城は、明治7〜8年にかけて、石垣を残して全ての建物が解体され払い下げられた。その後津山城跡は県有地となり、1899年(明治32)には公園にするという条件で津山町に払い下げられる。翌年から城跡の公園化が進められ、1928年(昭和3)頃までには城跡は現在の姿となったといわれている。

森 忠政
森 忠政(ただまさ・1570〜1634)
 幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。天正12年(1584)兄長可(ながよし)の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられる。のち徳川家康に仕え、慶長5年(1600)信濃(長野県)川中島13万7000石を領す。同8年美作国一円18万6500石を与えられ津山に入封。翌9年より津山城の築城に着手、また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。寛永11年(1634)3代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。享年65才。なお、写真の像は、津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。
歴代藩主一覧
<森氏4代、松平氏9代の居城>
森家
初代1603〜森 忠政
第2代1634〜森 長継(ながつぐ)
第3代1674〜森 長武(ながたけ)
第4代1686〜1697森 長成(ながなり)
松平家
初代1698〜松平宣富(のぶとみ)
第2代1721〜松平浅五郎(あさごろう)
第3代  1726〜松平長熈(ながひろ)
第4代1735〜松平長孝(ながたか)
第5代 1762〜松平康哉(やすちか)
第6代1794〜松平康乂(やすはる)
第7代1805〜松平斉孝(なりたか)
第8代1831〜松平斉民(なりたみ)
第9代1855〜1869松平慶倫(よしとも)
津山城絵図
津山城下町絵図
(津山郷土博物館にて撮影、数字を加筆)

1.本丸
2.天守曲輪
3.ニノ丸
4.三ノ丸
5.侍屋敷
6.城下町との間を画する堀
7.宮川
8.吉井川
9.大手門
津山城古絵図
(津山郷土博物館にて撮影、数字を加筆)
1.北門
2.粟積櫓
3.大戸櫓
4.月見櫓
5.太鼓櫓
6.裏鉄門
7.本丸
8.天守
9.備中櫓
10.二ノ丸
11.表中門
12.三ノ丸
13.堀
14.宮川
津山城復元模型
<津山郷土博物館展示>
 これは広島大学工学部によって設計された学術的にもすぐれた精密模型である。縮尺150分の1で、高さは視覚的効果を高めるため一割増しの136分の1としている。各建物の復元にあたっては、江戸時代初めの「正保城絵図」(内閣文庫蔵)を基本とし、江戸中・後期の「津山城絵図」「津山城本丸図」、明治初年の古写真などで補っている。天守閣は5層5階、地下1階。その第4層だけは板葺屋根となっているが、これは幕府に憚って名目4層にみせかける工夫をしたためと伝えられる。本丸御殿と二の丸御殿は、吹き抜けとし室内の遺構がよくわかるように配慮している。全体としては正保(1644〜48)頃の状況を再現している。 (津山郷土博物館内の説明文より)
        

A=天守 B=備中櫓 C=粟積櫓 D=表鉄門 E=切手門 F=表中門
  5層の天守は入母屋造りの屋根で、唐破風や千鳥破風などの装飾はない。本丸内には天守の他に、城主の住まいである備中櫓や、栗積(あわづみ)櫓・月見櫓など大小30余の櫓、70余の部屋からなる御殿が作られた。
        
 【津山城の再建造物】
 蘇る備中櫓
 津山城には、現在建造物は残っていませんが、かつては数多くの櫓や門が建っていました。復元された備中櫓は、城内で天守に次ぐシンボル性の高い建造物であったと推定されている。さらに内部構造も独特のもので、御殿建築の仕上げとなっている。このことから、藩主あるいはその限られた人物のための空間であったと推定される。
        
  備中櫓は、1604年(慶長9)に森忠政が津山城の築城を開始してから400年目の節目である2004年(平成16)、復元整備が行われた。
 備中櫓は、「森家先代実録」付図の「作州津山城本丸之図」に「上ノ櫓備中櫓ト云 城下ヨリ見ユル」と記載されているように、本丸から南に張り出した石垣上に建てられた櫓(案内パンフレットより) 
 
天守台から見た備中櫓

 
本丸跡から見た備中櫓

 
天守曲輪から望む備中櫓西面と、「扇の勾配」でそびえ建つ本丸石垣

 
備中櫓1階〜通常の櫓では稀な全室畳敷き、天井張りという構造。
 
備中櫓2階「御上段(おんじょうだん)」〜絵図によると、「御座之間」「御茶席」等の全国的にも類例の余り見られない特別な空間が存在していた。


 【津山城跡と関連施設をゆく】
■本丸をめぐる  ■三ノ丸・二ノ丸をめぐる   ■衆楽園・鶴山館・津山郷土博物館

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津山(つやま)城データ
所在地岡山県津山市山下
別 名鶴山(かくざん)城
地 形平山城[麓より本丸までの高さ45m(標高147m)]
築城年・築城者1604年(慶長9)・森忠政
文化財指定区分国指定史跡(城跡)
現 況城跡は鶴山公園となり、郭跡と「一二三段(ひふみだん)」に築かれた石垣がよく残る。
唯一の建物は、2004年(平成16)に復元された備中櫓。 日本100名城。

■史跡 津山城跡(南面) 
本丸・二の丸・三の丸に築かれた「一二三段」の石垣がほぼ完全に残り、全体が石垣化されている。建物は備中櫓。

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