このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

花ならば、なお
(北海道/箱館)

クールビューティ・土方歳三さんに会う為に海を渡ったももか。新撰組は会津を経由し旧幕臣と合流しながら蝦夷へ向かい、ここでは榎本さんを総裁とした蝦夷共和国の一員として組み込まれました。副長だった土方さんは陸軍奉行オートリさん(大鳥圭介)の次に位置する陸軍奉行並となり彼らを指揮。隻腕の美剣士といわれた遊撃隊の伊庭さんもここにありました。俗にいわれる箱館戦争とは1869年5月3日から降伏までの18日という1ヵ月にも満たない戦です。彼ら旧幕府軍が蝦夷に渡ったのは前年の10月。慣れない寒さを経験し、やってきた遅い春に新撰組の幕は閉じられたのです。

江戸時代「箱館」の名称だったこの小さな港町は、1869年に現在の「函館」に改称。でも新撰組を語るのならやはり「箱館」!そしてこの海を歳サマも見たのよね〜(否、渡ったのよね〜♪)、あの山も見たのよね〜(否、越えたのよね〜♪)。それにしても函館はカラスが多くて、見かける度に細谷さんのからす組を連想してしまいました。



街角で見たモノ
函館は通り毎に立ち並んでいる街灯が西洋風で綺麗。そんな中に土地柄を象徴するような「五稜郭」バージョンがありました♪
五稜郭は築城当時は亀田御役所土塁と呼ばれていました。ペルリ(あえてももかは彼をこう呼ぶ)によって開港を迫られた幕府は現在の旧函館公会堂の辺りに箱館奉行所を設置。五稜郭が出来るとそこに移転しました。しかし榎本さんや土方さんらに乗っ取られ、築城から約12年後にその歴史を閉じたのでした。一説によると五稜郭には伊庭ちゃんや土方さんが眠っているとの事ですよ。「土方さんが見た(であろう)松v」「伊庭ちゃんが凭れた(であろう)石垣v」と始終ミーハーな姿を晒していたももかでした。五稜郭の側には五稜郭タワーがあります。このタワーが低いのは空港が近いからなのですが、ここで空からの五稜郭を満喫した後は、
宣教師風の田村正和サマという風情の五稜郭タワー限定の土方さんグッズ函館ワイン「土方歳三の血」をゲットして下さいね〜♪おススメです。この五稜郭タワー、平成16年に建て替えられる事が決まりました。この古さを味わえるのも今のうち?!
因みに日本でもう一つの五稜郭は長野県にありますが、ここも幕末に出来たものです。

四稜郭は新台場・神山台場などと呼ばれ、五稜郭に対してこの名があります。蝶が羽根を広げたような姿をした西洋式土塁で四隅に砲台があります。箱館戦争の最中、数日で築かれ陥落したのは1869年5月11日。これって土方さんの運命の日でもありますよね。観光客はまずいない、そんな静かな場所でその様子は多賀城址のようでした。カラスばかりが鳴いていて。
四稜郭(手前は砲台)


碧血碑
故事では忠臣は死後その血が青く変わる。
約800人ともいわれる旧幕府軍が鎮魂されている碧血碑は、静まり返った山の中にあります。勿論土方さんも例外ではなくて、一説には遺骨の一部が埋められているのだとか。碑の文字はオートリさんのものによるらしいですね。

弁天岬台場には砲台が置かれ、箱館戦争の時に活躍しました。明治時代に埋め立てられた為、海から離れていますが幕末にはもう少し海に近かった事でしょう。ここは相馬さんが立て篭もった場所です。彼は新撰組の最後の隊長として僅かな期間、指揮を取りました。5月11日、明治政府軍と対峙した新撰組はここで激戦を繰り広げます。五稜郭にあった土方さんらはこれを救援する為に一本木に集結しました。
後に相馬さんは新撰組隊長であった事が問われ流刑となりますが、明治を生き、ある日割腹して果てたと伝えられます。
弁天岬台場跡

土方さんの最期の地については定説として3つ程候補があります。一本木(現在の若松町)はその有力候補地。土方さんが五稜郭を出たのは弁天岬台場の新撰組の窮状を救う為だったといわれています。この戦闘で狙撃され土方さんは命を散らせました。同日、四稜郭降伏。12日、重傷を負っていた伊庭さんが悶死。相馬さんら新撰組が守る弁天岬台場の陥落は15日といわれています。そして榎本さんやオートリさんらの蝦夷共和国軍の降伏は18日でした。「赤子が慈母を失うが如く悲嘆して止まず」・・・これは新撰組隊士が土方さんの死を知った時の様子でした。京都時代の「鬼の副長」から土方さんはどんどんと変わっていきましたが、箱館では本当に慕われていたんですね。
既に局長であった近藤さんは亡く、新撰組結成以来の仲間は散り散りとなり、それでも彼と共にこの北の果てまでついて来た隊士達。土方さんにとって自分が作った新撰組への想いは人一倍大きかったと思いますが、だからこそ彼らに対する想いも並々ならないものがあったのでは。新撰組を率いていた者として蝦夷共和国の政府の中では彼はやはり異例(ある意味異端ですね)だったとも思います。

蝦夷共和国の降伏を以って新撰組の活動は終わりますが、明治以降も生きた新撰組隊士は少なくありません。そんな中、長いまま失われていた永倉さん(二番隊隊長)の記録が平成のこの方出てきた事は記憶に新しいでしょう。これからもお蔵の片隅や古書店の奥底から隊士の生々しい記録がポン!と出てきたら・・vと期待してしまいます。だって幕末の頃ってまだそんなに昔ではないんですもの。

*「新選組戦場日記」(PHP新書)・・・永倉さんの「浪士文久報國記事」と島田さんの日記を元にした資料♪
土方さんや新撰組の供養塔がある称名寺
一本木説の「土方歳三最期の地碑」


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