このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

花ならば、なお 
(京都/壬生)

ももかの新撰組とのお付き合いは10年以上になりますね。戊辰の年には既に幕末を漂っておりましたから。といっても、ももかの興味の対象は移り変わりがとても激しいのです。昨日までヴィクトリアンを目指す、といいながら翌日はやっぱり中華の世界でしょう〜vなんて言っていたり。この自称・新撰組歴もその波の中で浮上したり下がっていたりしております(笑)。それでも思い起こせば縁というものはあるもので、修学旅行で買ったマイお土産が「新撰組の番傘」でありました。何故にこんな重い物をお土産に選んだのかは未だに謎ですが・・・(^^;)。
因みに一番のご贔屓は鬼の副長こと土方さん。それからちょっと斎藤さんにも興味アリのこの頃なのです。山崎さんも好きですよv

壬生寺上ル?の八木家
新撰組発祥の地・壬生の八木さん宅。
近藤さん一派と芹澤さん一派13人がこの家に入ったのは1863年2月13日で、翌月会津藩御預かりとなり「新撰組」を称しました。局長には芹澤さん、近藤さん、新見さんが就任。後に近藤さん一派と芹沢さん一派は反目し、芹澤一派はこの家で命を終えます。彼らは八木家のすぐ近くにある壬生寺に葬られました。「新撰組」の「撰」は「選」かとよく言われますが、これはどちらでも良いようです。ただ、印などには「選」の字が用いられている事は周知の通り。
幕末の当時、壬生の辺りは畑が多く、八木家からは二条城が窺えたといいます。隣接する鶴屋さんはももかが友人と初めて計画を立てて行った京都旅行でお土産を買った思い出のお店だったりします♪この界隈には新撰組に所縁のある史跡が多くて幕末の雰囲気に浸れますよ(*^^*)

「池田屋騒動之碑」は三条通の喧騒の中に建っています。平成21年池田屋は居酒屋「池田屋」として現在でも営業を続けています。
新撰組結成の翌年6月の祇園会宵々山の夜に、新撰組の名を世に知らしめた池田屋騒動が起りました。池田屋事変で命を落とした長州藩士は7名。彼らは三条にあった三縁寺に葬られました。三縁寺は昭和時代に岩倉へ移っていますがこの時彼らも共に岩倉へ移りました。この中には松(=杉山松助)もいるんですよね・・。この事件は明治維新を1年も2年も遅らせたともいわれるのだとか。
そもそも池田屋騒動とは、強風の日に京都に火をかけ今上さん(孝明天皇)を長州へ連れ去り会津公(容保さん)を亡きものにする、という計画を知った新撰組がこの旅籠に泊まっていた尊王倒幕の志士達を一網打尽にしたという事件。この騒動の最中喀血した沖田さんが引き上げたのが祇園会所跡。八坂神社前のローソンの辺りです。祇園の辺りをぶらぶらする時にももかが良く立ち寄るコンビニです(^^)

池田屋騒動之碑


維新の道
新撰組の聖地が壬生寺だとすると、対する人々の聖地はこの霊山ではないかと思ったり。霊山の入口に「維新の道」の碑があります。霊山には新撰組とは志を異にした倒幕の志士らが多く葬られています。この中には志半ばにして倒れた竜馬さんや慎太郎さんや松、晋作、稔麻呂などなどの名があって、もう1つの幕末の人生劇場を垣間見てしまうのです。
現在壬生寺の壬生塚(芹澤さん達のお墓があるとこ)はかなり綺麗に整備されてしまって、塚に立ち寄るのも志納が必要ですが、以前はぶらりと立ち寄る事が出来ました。真っ先に目につく近藤さんの胸像の下には新撰組のファンによる壬生寺ノートがケースの中に何十冊も入っていたものです。ももかのノートもあったのですがどこにいってしまったのでしょう。そしてあの多くのノートの行方は・・。同じようにこの霊山にも長州などのファンの皆様によるノートが置かれていたりします。今はここ、自動改札となっていますがももかが初めて訪れた当初はありませんでした。だから数年たって足を運んだ時には驚いたものです。

入京してから2年後、新撰組は手狭になった壬生の屯所を引き払い西本願寺に屯所を移します。この西本願寺屯所移転問題で対立したのが土方さんと山南さん。お西さんでは大砲を撃ちまくり、たまりかねた寺側が移転を交渉。結果的に移転にかかる諸費用を負担する事で決着をつけ、かくて第3の屯所は不動堂村に移ることになります。この緻密な駆け引きは土方さんによるものらしいですね。それでもお寺さんは2年3ヶ月も我慢を重ねていたということに。

不動堂村屯所と呼ばれるこの場所は現在のリーガロイヤルホテルの植え込みの中にあります。こんなに有名なところなのに碑の1つもないなんて〜、建て看板の1つもないなんて〜、と思っていたのですが2003年夏にこんなに立派な碑が建てられました。

また、ハトヤ瑞鳳閣の軒先にも看板が建てられています。今までこの不動堂村屯所については、壬生屯所に比べ知名度も低く観光名所にもなっていませんでした。リーガロイヤルホテルの碑よりは新しいこの看板には「誠」の文字がくっきり。これを市バスの窓から見つけた時の感動と言ったら!

不動堂村屯所跡(リーガロイヤルホテル京都)

不動堂村屯所跡(ハトヤ瑞鳳閣)

山南さんがよく訪れ、そして自らの墓所ともなった光縁寺。瓦には「光」の文字があります。ここに眠っている隊士は25名。実はこのお寺、第二次世界大戦末期、強制疎開の為になくなる運命の筈だったという事はご存知でしょうか。それが取り壊し前日に終戦を迎えた為、こうして私達も山南さん達とお会い出来るのです。
山南さんといえば大河ドラマで堺雅人さんが演じられたスマイリー山南さんは、今までそうは取り上げられてこなかったように思える彼の姿をあそこまで表の舞台に引き上げて下さいましたよね。

月真院(御陵衛士屯所跡)
本光寺(伊東甲子太郎外数名殉難之碑)戒光寺(御陵衛士の墓)

新撰組では多くの同志の粛清が行われましたが、幹部も例外ではありませんでした。総長で新撰組結成時からの同志・山南さんや五番隊隊長武田さんも命を落とし、カッシーや平助(八番隊隊長)も同じ運命を辿った事は周知の通り。
そのカッシーこと参謀・伊東甲子太郎さんが、近藤さん達との思想の違いから新撰組を分離し、身を寄せたのが東山にある月真院。月真院は高台寺の塔頭で、彼らが「高台寺党」と呼ばれた所以になっています。カッシー達は先頃崩御した孝明天皇の御陵を守る「禁裏御陵衛士」として山陵奉行戸田大和守の御預かりとなりました。8ヵ月後、油小路通の本光寺前で新撰組によって斬殺されますが、その時の彼の末期の一声は「己れ奸賦輩・・・」でした。カッシーの遺体を引き取りにきた人々の中には、近藤さん達とは江戸からの仲間でもあった藤堂平助の姿もありました。近藤さんは永倉さんと佐之さんに「平助だけは助けたい」と頼んだそうですが、あやまって平助は落命。一時光縁寺に葬られた遺体は後に戒光寺に移されました。
この戒光寺行き計画(別名「カッシーと平助に会いたい」)を企画してから、実行までは随分と長い時間が流れました。それだけに初めて訪れた時は感無量でしたね。「ようやく会えた」という感じで。戒光寺の墓地は一見して分かり難くて知る人ぞ知るという感じです。だからこそファンの人達は暗黙のルールを持って礼儀正しくお参りをしてきたのではないかと思う程。ゴミなどなかったですし、とにかくゆっくり眠れそうな、そんな静かな場所でした。現在は柵が設けられて近くでお参りする事はできなくなってしまいました。

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