このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

花ならば、なお
(京都/鳥羽伏見)

鳥羽伏見を訪ねるという事は、ももかの中ではずっと心にあったのですがなかなか実行に移せないままでした。ようやく行く機会が訪れた時は「歩いて歩いて歩いて歩く」の散策となりました。この地面に流れたであろう血の跡を踏みしめ踏みしめ踏みしめて、ももかは歩いた訳です。
近藤さん達が入京したのは1863年の2月。戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽伏見の戦いが始まったのはそれから約6年後の事でした。戦いの前年には明治天皇が即位し既に政権は朝廷の元に返されていました。佐幕側と倒幕側の立場が逆転し、一気に維新へと歴史の流れは進みます。激戦区となったこの地では至るところにその名残があるんですよね。年表を追いながらこれらの史跡を見ていくと「激動の時代」という言葉に象徴される「(日替わりの)めまぐるしい日々」を実感出来ます。


「伏見奉行所跡」
新撰組が不動堂村屯所から伏見奉行所に移るまでの間には様々な事が起りました。明治天皇の即位、大政奉還、竜馬さんの暗殺、天満屋事件、王政復古の大号令・・・。
戦いの火蓋が切られたのは1868年1月3日。前月に近藤さんは墨染めの辺りで狙撃され負傷した為、病中の沖田さんを伴って大坂城へ入っていました。そんな訳でこの時新撰組を率いていたのは鬼の副長こと土方さんだったのです。ある意味彼にしか出来なかったかもしれないですよね。こんな不安定な時期の組の統率なんて(^^;)。伏見奉行所は薩摩軍の攻撃に炎上、それが為に幕府軍は撤退を迫られました。

実は伏見奉行所から歩いて10分もかからない場所にある御香宮神社は、薩摩軍の陣営であり伏見奉行所の幕府軍と対陣していました。本当に目と鼻の先なんですよ。そんな彼らが迎えた大晦日と正月って紳士協定が暗黙のうちに結ばれていたのかもしれないなぁと思ってしまうのですが。
御香宮神社の「伏見の戦跡」


城南宮
竹田駅周辺は激戦の地で、城南宮も官軍の陣所となりました。鳥羽離宮の裏鬼門でもあったお社には血気盛んな志士達が行き来していたのでしょうね。
鳥羽離宮の旧敷地にあたる場所には安楽寿院や御陵、公園などがあります。現在鳥羽離宮跡公園となっている場所に「秋の山」という元々は築山であった小山があるのですが、ここで発射された一発のアームストロング砲が鳥羽伏見の戦いの口火を切ったのです。


「鳥羽伏見戦跡」碑、「此付近鳥羽伏見戦跡」看板、
「旧小枝橋風景図・小枝橋について」説明書の3点セットでお送りしますv


鳥羽街道を北上しようとする幕府軍と竹田・城南宮に布陣する官軍とが衝突したのが鴨川に架けられた小枝橋。「秋の山」の場所からは歩いて数分といったところでしょうか。小枝橋は2002年に架け替え工事が行われた為、今は広くて大きな新しい橋となっています。そしてこの工事に伴って場所がややずれているのです。この3点セットの碑も新しくなっていました。向きも違っていたりして(^^;)。散策でここまで歩いて来た方は、もう少し足を伸ばして下さいね。この河原で繰り広げられたであろう戦いと、現在の静けさをしみじみと実感出来るんじゃないかと思うのです。しかも音といったら車の騒音くらいですし。そしてその耳には是非是非ドラマ『五稜郭』のテーマソングを流しましょうv
1月5日、淀に後退した新撰組は大坂に更に退却します。淀・千両松の戦いでは源さんが戦死。監察方・山崎さんも重傷を負い一説では江戸へ下向する船中で亡くなったと伝えられています。
そして再び帰り着いた江戸は、新たなる戦地へ旅立つ者、命の終わりを迎える者、彼らそれぞれの人生の分岐点になったのです。気になる斎藤さんの行き先は会津。どの辺りから会津に向かったのかは記録が定かではないようですが、山口さんの名を通したまま、彼の地で彼は会津新選組隊長として戦ったんですよね。

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