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十一番 来迎山 無量寿院紫雲寺 らいこうざん むりょうじゅいんしうんじ | 絵になりそうな参道入口 明治37年に 建てられた本堂 | ももか的がいど |
寺名の由来は埴原田の地を所領していた田村政忠の没後、尼となった夫人が往生した時に紫雲がたなびいたことから。『紫雲寺起立書』によれば夫人は武田信満の娘で、剃髪ののち人家を避けて洞に籠もって菩提を弔いました。故に尼御前の洞なるものがあるそうです。後にこの地を治めた長田大和守元康が田村夫妻の為に建てたのが紫雲寺だと伝えます。埴原田城の下、現在の寺屋敷の辺りにありましたが、天文8年(1539)焼失し天正3年(1575)に宮の脇に再興。元禄15年(1702)に寿誉順的上人により現在の地に移転します。幕末の慶応3年(1867)に再び焼失し、明治2年(1869)に上社神宮寺の廃寺蓮池院を買い受け再興されました。 本尊は明治の廃仏毀釈の折にこちらに移り安置された念称寺(松本市芳川平田)の阿弥陀如来坐像です。脇侍の観世音菩薩・勢至菩薩も同時に移されたもの。元々念称寺の住職が紫雲寺に入寺した歴史があった縁から迎える事になったようです。本尊を挟んで右側には元々の寺本尊である阿弥陀如来立像(慶応3年作)、左側には千手観音が安置されています。 山門を潜った時にまず目にするのが傘松で、樹齢約300年。見事な枝ぶりですが、折れないように雪への備えが大変なのだそうです。諏訪三十三観音霊場・諏訪郡百番札所の観音様はお寺から少し離れたところにある月見山観音堂の十一面観音。 | ||
宗派/浄土宗 開山/永享3年(1431)一道上人 中興開山/天正3年(1575)生蓮社岌往親阿 開基/長田大和守元康 中興開基/両角筑後守信清 本尊/阿弥陀如来 脇士/観音菩薩・勢至菩薩 札所/ 諏訪三十三ヶ所番観音霊場11番(末庵月見山観音堂・十一面観世音菩薩) 諏訪郡霊場百番札所中6番 御詠歌「遠からぬ九品浄土は紫雲寺の 来迎山と聞くもたのもし」 諏訪郡霊場百番札所中7番(月見山観音堂) 御詠歌「月見山登りて見ればはいはらの 補陀落山に誓いたまえや」 諏訪郡霊場百番札所中8番(明星山虚空蔵堂) *末庵の明星山虚空蔵堂は廃寺、寺物は地区管理。 御詠歌「忘れけん罪も報いも福沢の 虚空に花の降りみ降らずみ」 ■茅野市米沢埴原田856−1 TEL0266−72−1379 *地名は埴原田 | ||
十二番 齢松山 福壽院 れいしょうざんふくじゅいん | 初夏の参道は 紫陽花に彩られる 諏訪百番供養塔も | ももか的がいど |
創立年代は不詳で、始めは福重院と号していました。開山以前5代の住職により護持され、その初代は日州関朔和尚で寛永年間中(1624-1643)に遡ります。万治2年(1659)永補僧が再建。その時に福壽院と改めたといいます。 開基は諏訪高島藩初代藩主頼水の弟・美作守頼雄で、二の丸諏訪家の初代家老です。二の丸諏訪家と三の丸千野家の両家は家老を輩出してきた家柄でしたが、代々争いが絶えず、とうとう6代藩主忠厚の治世に、二の丸騒動という藩の存亡をかけるお家騒動までに発展してしまいました。8代目の頼保(大助、福壽院殿)は福壽院の中興開基で篤い信仰を寄せていましたが、三の丸家老千野兵庫との政権争いの末、この事件の折に処断されます。頼保は処刑の後、檀那寺の頼岳寺には葬られる事なく、首は愛宕山地蔵寺に、遺体は福壽院三世冠山楊法和尚により福壽院墓地に葬られ、妻・齢松院殿、子・寂照院殿と共に眠っています。 文化7年(1810)2月、類焼により伽藍は焼失。しかし僅か半年後に再建。本堂を除く建物は平成19年(2007)に建て替えられている為、新しい雰囲気です。齢松山とは寺裏方にある山の名。庭園は桂離宮をイメージしたもので、水琴窟もあります。 | ||
宗派/曹洞宗 開基/寛永年中(1624−1643)諏訪頼雄(二の丸諏訪家初代家老) 開山/安永3年(1774)仏界性見 中興開山/諏訪頼保(二の丸諏訪家8代目) 本尊/釈迦如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場12番(観音堂・准胝観世音菩薩) 諏訪郡霊場百番札所中5番(観音堂) 御詠歌「福聚海無量の徳の有難や 大慈大悲の誓いなるらん」 諏訪八十八ヶ所霊場終番 御詠歌「福聚海無量の罪も消へ果てて 脱ぎて納むる笈摺もかな」 ■茅野市ちの本町西17−20 TEL0266−72−3843 *地名は本町、矢ヶ崎 | ||
十三番 白岩山 惣持院 しらいわさんそうじいん | この門が素晴らしい 秘仏の観音様を 安置する白岩観音堂 | ももか的がいど |
寺伝によれば開創は寛正3年(1462)のこと。元は佛法紹隆寺の塔頭で、無住の期間もあり、その時は佛仏寺住職が兼務していました。永禄末(1570年頃)に塚原の地に移り、安永3年(1774)11月に改築。古く村の寺として親しまれてきましたが、安永7年(1778)に本堂と庫裏を火災により焼失し、寛永12年(1800)に玉川中沢村の民家を移築して本堂としました。老朽化により平成14年(2004)6月に再建された現在の建物は、2階が仏事を執り行う本堂となっています。このような様式になったのは都市整備の規定によるもの。本堂の隅にはギャラリー宝珠閣を開設し、立川流一門代々の作品や郷土作家の作品を見る事が出来ます。また、一環として四国八十八カ所霊場札所の御砂を勧請、御砂踏み霊場が奉安されました。 観音堂の元は永明寺の岩窟にあり、その頃から白岩観音堂と称していました。永明寺山中の観音平と呼ばれる地がそれにあたり、現在は白岩観音遺跡という碑が建っています。観音堂本尊の如意輪観音は石窟中に出現し、諏訪七観音の一つとして信仰されてきましたが、塚原の地に移されたのは元禄年間(1688−1703)で、諏訪高島藩主忠虎の命によります。現在の観音堂は安永3年(1774)の再建。立川初代和四郎冨棟の手によるもので長野県宝。その見事なる彫刻の数々は諏訪の匠の技が存分に発揮され、溜息もの。 | ||
宗派/真言宗 中興/享保年間(1716〜)宥寛 本尊/阿弥陀如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場13番(如意輪観音/別名・白岩観音) 諏訪郡霊場百番札所中4番(観音堂) 御詠歌「遠くともつい白岩の観世音 誓い新たの功徳つかはら」 諏訪八十八ヶ所霊場68番 御詠歌「念仏と光明真言つかにつき 大師の功力有難きかな」 ■茅野市塚原2−8−2 TEL0266−72−6049 *地名は塚原(つかはら) | ||
十四番 少林山 頼岳寺 しょうりんざんらいがくじ | かつてはもっと多くの杉が 聳えていた参道 「鵞湖禅林」 鵞湖とは諏訪湖の異称 観音霊場になっている 貞珠山理昌院 | ももか的がいど |
諏訪を代表する最も大きな曹洞宗のお寺。戦国時代に諏訪総領家の居城があった上原城下にあります。当時この辺りには「上原五山」と呼ばれる永明寺・極楽寺・金剛寺・法明寺・光明寺の5つのお寺がありました。現存するのは八幡山極楽寺のみです。中でも諏訪頼満の開基以来130年間続いていた向富山永明寺は、諏訪氏の菩提所でした。しかし寺に駆け込んだ科人の引渡しを拒否した事から、寛永7年(1630)に曾孫による諏訪高島藩主頼水によって破却されてしまいます。 その翌年、頼水は上州白井雙林寺十三世の大通関徹和尚を招き、永明寺本尊の釈迦如来像を始め什器なども移して開山、菩提寺としました。これが頼岳寺です。江戸時代には寺領百石を受け末寺は14ヶ寺、広く修行寺として知られ、常に数十名の雲水が参集していたそうです。 安政6年に火災により焼失、再興されますが明治34年(1901)に再び火災に遭い、現在の建物は大正時代に建てられたものです。 裏山には諏訪家の御廟所があり、永明寺から移された諏訪頼忠(永明寺殿)、頼忠夫人(理昌院)、そして諏訪頼水(頼岳寺殿)が眠っています。 理昌院は本尊を聖観音とし、上原地籍の西方堂(昭和30年廃寺。諏訪百番中二番)の阿弥陀如来を合わせて祀っています。元は上原城本丸下の曲輪にありましたが、頼岳寺に移りました。明治34年(1901)の頼岳寺の大火の折には火難を免れていましたが、昭和29年(1954)に火災により焼失し、現在の建物はその後に再建されたものです。本尊であった如意輪観音も焼けてしまい、現在は聖観音が安置されています。この時、上原西方堂が廃され、その材木の一部は理昌院の再建に使われました。 杉の参道は涼やかですが、昭和9年(1934)の室戸台風を始めとする台風被害により多くの本数が倒れてしまったのだとか。 | ||
宗派/曹洞宗 開基/寛永8年(1631)諏訪頼水(諏訪高島藩初代藩主) 開山/大通関徹(雙林寺十三世) 本尊/釈迦如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場14番(聖観世音菩薩(理昌院)/如意輪観音) 諏訪郡霊場百番札所中1番(理昌院) 御詠歌「ただたのめりしょうあらたの観世音 じゃくめつゐらくせうりんの鐘」 諏訪郡霊場百番札所中2番(西方堂・阿弥陀如来)*廃寺 御詠歌「いく人かごしょうのたねを上原の さいほうどうに祈るなりけり」 ■茅野市ちの上原1753 TEL0266−72−3027 *地名は上原(うえはら) | ||
十五番 神向山 頼重院 しんこうざんらいじゅういん | 「神向山」。 なんて素敵な山号 諏訪頼重の眠る寺 として知られています | ももか的がいど |
創建年は不明。古い記録に残る大正院が前身ともいわれています。開基は諏訪頼重です。諏訪頼重は諏訪総領家最後の当主で、武田信玄との戦いに敗れ、甲斐国東光寺に於いて弟頼高(上社大祝)とともに自刃。家臣はその遺髪(寺伝では首)を密かに諏訪に持ち帰り、この寺の宝篋印塔におさめ封じて供養したのだといわれています。本堂裏手には頼重の墓として宝塔があります。その隣には新たに作られた墓石が立っています。宝塔は覆塔(さやとう)のようなもので、人目を偲んでか無銘の塔であり、古来、覆塔を開けば目がつぶれると伝えられていました。しかし大正9年(1920)の暴風で側の松木が倒れた折に、覆塔も倒れ、初めて中の宝篋印塔(頼重五輪塔)の存在が人の知るところとなりました。宝篋印塔は諏訪地方では最古とみられる様式を持っており、諏訪市有形文化財に指定され、本堂に納められています。また、宝塔は大きく七つに割れた割石の上にあります。頼重の怨念が巨石を割ったのだと伝えられ、江戸時代は脇の小路を「割石通り」、裏山を「割石沢山」と呼んでいたそうです。 本尊は釈迦如来。元々千手観音堂は別にありましたが、過去の水害の折に堂は流され、現在千手観音は本堂にお祀りされています。平成に入り再建され本堂は新しくなっています。 | ||
宗派/曹洞宗 開基/諏訪頼重 開山/寛政9年(1797)海英秀獄(頼岳寺十世) 本尊/釈迦如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場15番(千手観音) 諏訪郡霊場百番札所中終番 御詠歌「万世の願いはここに納めおく 後世の菩提を頼み重ねて」 「補陀落をここに示しかさしも草 しばしは詠歌聞くも極楽」 ■諏訪市四賀神戸3433 TEL0266−52−3794 *地名は神戸(ごうど) | ||
十六番 無量山 地蔵院 むりょうざんじぞういん | なにより、素朴。 雰囲気がいい こじんまりとしたお堂 | ももか的がいど |
元々この地には神宮寺末寺の青龍寺というお寺があり、坊や十三重の塔があったといいます。本尊は延命地蔵尊、脇侍に阿弥陀如来を祀ります。昔は本尊の14年に一度の御開帳があり、ご利益を求める人々で周辺は賑わったといいますが、宅地化が進んだ現在では想像がつきません。 高島藩士志賀七右衛門は狩りの最中、今の地蔵院の側で法華経の声を聞きました。不思議に思って声の聞こえた辺りの地面を掘ると、地蔵尊が現れたのだそうです。七右衛門は寺を建て地蔵尊を本尊として祀りました。『矢島家古文書』によれば「神戸村地蔵大菩薩は昔、慶長年中衣の渡、志賀七右衛門、山奥へ殺生に出かけ、その時山中にて念仏の声を聞く。何者也とたずねたり。その時、草の中に一寸八分の地蔵尊これあり候につきお連れ申し、それより神戸村地蔵堂に納めたり」とあります。 古くは地蔵堂と呼ばれていましたが、昭和27年(1952)に地蔵院と改めました。また本堂の扁額の裏書により享保15年(1730)建立という事が分かりました。現在、赤いトタン屋根になっていますが、これは以前近くで火事があった際に火の粉が飛んできて危なかったことから改めたのだと伺いました。 境内のカツラの木は樹齢推定300年の巨木で諏訪市指定天然記念物。 | ||
宗派/曹洞宗 創建/享保15年(1730) 中興開山/明治13年(1880)尊応教堂 本尊/延命子安地蔵菩薩 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場16番(馬頭観世音菩薩) 諏訪郡霊場百番札所中33番 御詠歌「六道の辻に詠歌を唱えなば 八苦奈落の罪も消えなん」 諏訪八十八ヶ所霊場59番 御詠歌「神戸なら願い重ねん六道の 辻に迷わば大師念じよ」 ■諏訪市四賀神戸3924 TEL0266−52−5865 *地名は神戸(ごうど) | ||
十七番 鼈澤荘厳山 佛法紹隆寺 べったくそうごんざん ぶっぽうしょうりゅうじ | 上社神宮寺から 移築された山門から 見る初春の姿も。 秋の姿も。 | ももか的がいど |
大同2年(807)坂上田村麻呂を開基とし、上社別当寺として神宮寺村にあって慈眼寺と称した事に始まると伝えられています。弘仁年間(810−823)に空海は上社神宮寺を真言流布の根本道場とし慈眼寺を学問の道場としたといい、信州四ヶ寺之道場随一となったそうです。後、文和元年(1352)俊海法印を中興とし、寺地も神宮寺村から中州下金子城、四賀桑原に移ったといいますが、永禄3年(1560)尊朝法印の時、鎮守であった足長明神の「この山崩落せん」という神勅により現在の大祝邸跡に移りました。寺の横を流れる鼈澤川から山号を鼈澤山と称し、その折に山中で聞いた仏法僧(鳥)の声色から寺号を佛法紹隆寺と改めたと伝えられています。江戸時代中期には直末7ヶ寺、門徒6ヶ寺を有した大寺でした。 本尊は薬師如来で、本堂には廃仏毀釈により移された上社蓮池院の本尊金剛界大日如来も安置されています。 境内の普賢堂は東京高輪にあった高野山金剛峯寺別院を昭和51年(1976)に移築したもの。普賢堂本尊は、上社如法院本尊普賢菩薩(騎馬像)。また、上社神宮寺普賢堂本尊の普賢菩薩(上社本地仏)も安置されています。一説によると上社神宮寺に陣を張った織田信長が、諏訪大明神の軍神としての力を恐れ、破壊。その後、再彫刻したともいわれています。 堂内には上社神宮寺文殊菩薩も移されていますが、どちらも廃仏毀釈時に破損し傷跡が痛々しいです。普賢堂の前には蓮台があり、 ここに立つと御本地仏・自身・上社が一直線に結ばれて神様のご加護を得られます。 | ||
宗派/高野山真言宗 開基/大同元年(806)坂上田村麻呂 草創/弘法大師 法流始祖/文和元年(1352)俊海上人 本尊/薬師如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場17番(聖天堂・聖観音) 諏訪郡霊場百番札所中32番 御詠歌「仏法のおさまるべくははらみつの 無量の慈悲も瑠璃の薬王」 諏訪八十八ヶ所58番 御詠歌「仏法のおさまる末は桑原の 無量の慈悲は瑠璃の薬王」 伊那諏訪八十八霊場23番(本尊薬師如来) 御詠歌「花を見しえみのまゆよりひらけける 心の法はここにさかへて」 伊那諏訪八十八霊場客番神変山神宮密寺(本尊普賢菩薩)*上社本地仏 御詠歌「ます神のもとのひかりにうろくづも 浮かびやすらんすわの湖」 ■諏訪市四賀桑原4373 TEL0266−52−2241 *地名は桑原(くわばら) | ||
十八番 飯島山 称故院一心寺 いいじまさん しょうこいんいっしんじ | 額は芝増上寺六十三世巨東の書 美しい鐘には 阿弥陀如来の姿が | ももか的がいど |
山号の「飯島」とは宮島・藤島・高島・浮島・福島・白狐島・飯島という諏訪七島の地名に由来します。文禄2年(1593)下金子村に創建。後に古屋敷地籍を経て現在の地に移転したのは宝永3年(1706)の事。 本尊阿弥陀如来は安産の神様として知られ、「子育て弘法像」があることから「子育て弘法の寺」としても信仰されています。 境内には高遠石工の一人福壽が作った不動明王(安政5年)が鎮座。また鐘楼には平成16年(2004)の晋山式に際して奉納された鐘があります。茅葺だった本堂も近年建て替えられました。 | ||
宗派/浄土宗 開山/文禄2年(1593)生蓮社岌往親阿 本尊/阿弥陀如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場18番(十一面観音) 諏訪百番観世音霊場中29番 御詠歌「名にし負う如来供物の飯島は 昔も今も実り絶えせず」 諏訪八十八ヶ所霊場61番 御詠歌「世の中の悪しき誹謗をうち捨てて 大師ちからにここに飯島」 ■諏訪市四賀飯島2087 TEL0266−53−0146 *地名は飯島(いいじま) | ||
十九番 鷲峰山 法華寺 しゅうほうざん (しゅうぶせん) ほっけじ | 上社本宮そばのお寺 境内には大黒様と弁天様も いらっしゃいます | ももか的がいど |
聖武天皇の国分尼寺が前身で、伝教大師により開かれたと伝えられています。始めは天台宗で、上社大祝の諏訪盛重(後、入道)が寛元4年(1246)に蘭渓道隆を迎えて中興。その時に臨済宗に改宗。上社の宮寺に準ずる地位を持ち、神宮寺五重塔、釈迦堂、薬師堂などの管理にあたっていました。しかしこれらの建物は廃仏毀釈の際に取り壊されてしまいます。 天正10年(1528)2月織田信長は甲州征伐の際に諏訪の地を通過し、上社本宮を焼いてしまいますが、法華寺は類焼を免れました。信長は武田勝頼が天目山に滅んだ後、再び諏訪へと入り、焼け残ったこの寺に立ち寄り論功行賞を行いました。信長の怒りに触れた明智光秀が愚弄されたのはこの時だとか。本能寺の変の2ヶ月前の事といわれています。実は諏訪にも明智光秀所縁の祠があるのだそうです。 明治初期の廃仏毀釈の風は多くの寺の受難の時代でもありました。法華寺が管理を行っていた諸堂も免れる事が出来ず、また法華寺もその流れの中、廃寺となります。大正年間に現在の地に再興。 法華寺の本堂は明和2年(1765)に大隈流の棟梁により建てられたものでした。しかし平成11年(1999)7月に山門を残し焼失。永仁2年(1292)の銘を持っていた本尊釈迦如来も運命を共にしました。現在の本堂はその後に再建されたものです。法華寺の遺構としては文出極楽寺の山門になっている表通用門が現存しています。また、本堂裏山には吉良上野介の養嗣子・義周のお墓もあります。 | ||
宗派/臨済宗妙心寺派 開山/寛元4年(1246)蘭渓道隆大覚禅師 中興開基/諏訪盛重・諏訪信重 本尊/釈迦如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場19番(山門楼上・聖観音) 諏訪郡霊場百番札所中22番 御詠歌「神仏の粋はなるらん観世音 によしょうとくしゅも法の華寺」 諏訪八十八ヶ所霊場24番 御詠歌「神仏の粋はなるらん大師尊 文殊の誓い新たなりけり」 諏訪伊那八十八番霊場25番 御詠歌「鷲の山ときおく法の花の香も 世に古寺の名こそのこれる」 諏訪湖畔七福神(大黒天) ■諏訪市中州神宮寺856 TEL0266−52−3361 *地名は神宮寺(じんぐうじ) | ||
二十番 風穴山 龍雲寺 ふうけつざんりゅううんじ | どっしりとした門構え 石垣を突き破る? | ももか的がいど |
山号は寺の裏山に風穴があることに由来します。故に風洞山とも。 岩盤に開いた横穴は今も見られますが、弘法大師がお留まりになった説、穴の終点は小坂観音という説など、興味深い説が沢山あるようです。 創建は不詳。武田信玄によって諏訪氏が滅亡した後、諏訪頼重の叔父・諏訪満隣は僧体となり諏訪家再興の日までの40年もの間、あちらこちらに隠れ住み、その日を待っていたといいます。その潜伏先の一つがこの龍雲寺なのだとか。その縁故かこちらの中興開基は満隣なのです。後に満隣の孫・頼水は諏訪高島藩初代藩主となりました。 天正年間(1573−1592)に一草庵を造り、問碩という僧が住し離山・思山・本龍和尚などが歴住したという伝えがありますが詳しい事は分かっていません。位牌堂や開山堂は元々本堂裏手にありましたが、昭和50年代(1975−85年代)に中央高速道路の建設に伴い移転しました。 十一面観音は本堂内の御厨子の中に安置されていて、波乗り兎の意匠が印象的です。高台に建てられており、風光明媚。 | ||
宗派/曹洞宗 開創/門碩 開山/寛文11年(1670)禺明祥察 本尊/釈迦如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場20番(十一面千手観音) 諏訪郡霊場百番札所西3番 御詠歌「風さわぐ山もまじのの観世音 りゅうきんすらも雲の導き」 伊那諏訪八十八番霊場27番 御詠歌「尊とさや真志野の岡の風穴は よろず世つきぬ法の音して」 ■諏訪市湖南真志野4797 TEL0266−52−1829 *地名は真志野(まじの) | ||
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