このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

諏訪三十三ヶ所観音霊場
二十一番番から三十番札所

二十一番
聚宝山
蓮華蔵院
極楽寺
じゅほうざんれんげぞういんごくらくじ

信長に従った武将達も
潜ったかもしれない門


新しい本堂に
青紅葉が綺麗に映る
ももか的がいど
戦国時代、諏訪頼重が武田信玄に敗れると諏訪は武田氏に統治されます。その時、信玄の家臣であった篠原讃岐守吉忠の子が、安穏長寿を祈願の為建立したのが極楽寺です。明治18年(18854月の大火により類焼。本堂は上伊那郡箕輪町東箕輪の三井八五郎持ち家を、山門は法華寺の表通用門を移し再興。その移送手段は、天竜川の観蛍橋(岡谷市)からは舟で遡り、諏訪湖を経て宮川を水上運搬したというもの。因みに当時の諏訪湖には釜口水門はなく、こうした移送も可能だったのです。どっしりとして茅葺屋根の本堂は長く親しまれてきましたが、近年再建。山門は越後の上杉氏が法華寺に寄進したもので明治の廃仏毀釈の折、文出郷の宮坂氏がこれを求め明治19年(1886)にお寺に移したもの。破風の焼けた部分は織田信長により上社神宮寺が焼かれた際の名残でしょうか。
本尊の阿弥陀如来は下馬落如来阿弥陀仏ともいい、堂前を乗馬して通行すると必ず落馬したと伝えられ、故に門前を通る際には皆馬を降り参拝した事から、この名があるのだそうです。文出の地は多くの名僧を生み出した地でもあり、「念仏村」との異名を持っていたと伝えられています。明治の大火の折、僅か3ヶ月にして新しい本堂を迎える事が出来たのも、村人の厚い信仰に守られていたからなのかもしれません。
宗派/浄土宗
開山/弘治3年
(1557)光蓮社英誉俊浄
開基/篠原讃岐守吉忠
本尊/阿弥陀如来(下馬落
おとし阿弥陀仏)
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場21番(観音堂・千手観音)
 諏訪郡霊場百番札所中26番(観音堂)
   御詠歌「りんゑなる厭離をいつか踏み出して 欣求浄土に至り至らん」
 諏訪八十八ヶ所霊場40番
   御詠歌「文出していつか大師の筆おさめ 奈落の罪もいつか消えなん」
■諏訪市豊田文出1397 TEL0266−53−7559 *地名は豊田、文出(とよた、ふみで)

二十二番
八剣山 甲立寺
やつるぎざんこうりゅうじ

門を潜ると駐車場と
なっている境内が


寺の名には
信玄にもゆかりがある
ももか的がいど
高嶋の地にあった八剱神社の別当寺で、永禄年中に武田信玄が再興。後に日根野高吉による高島城築城の際に、八剱神社が移されるのに併せて寺も現在の小和田の地に移されました。この時、藤森・小松・宮坂姓の住民42戸も、諏訪湖の権利(漁権)を下付されて従い、寺はこの漁権によって守られる事になりました。
元は甲龍寺と称していましたが、信玄が「諏訪法性の甲(兜)」を初めてこの寺で着けた事から甲立寺と改めたそうです。寺には信玄の朱印状
(天正7年)も残っています。本尊は厄除十一面観音で、別名を高嶋観音といいます。信濃一木三体観音として本木は牛伏寺観音(東筑摩)、中木は別所北向観音(小県)、そして末木がこの高嶋観音とされ、諏訪七観音の随一とのこと。元々は大日如来を本尊としていましたが、境内の観音堂にあった十一面観音の信仰が篤く、こちらが本尊となったようです。毎年7月に行われる「四万八千御縁日」に参詣すると、48000日分の功徳を授かる事が出来るそうです。
江戸時代は代々の高島藩主の祈願所でした。木造愛染明王座像
(諏訪市有形文化財)は、室町時代の作と推定され本尊十一面観音の脇侍として祀っていますが、かつては3代藩主諏訪忠恒が寄進した愛染堂の本尊でした。9代忠誠は木彫厨子入りの成田不動明王を寄進しています。仏画では鎌倉時代に描かれた甲立寺不動明王二童子像を所有。
寛文6年
(1666)と貞享5年(1688)に大修繕、しかし天保14年(1843)5月に橋本屋火事により類焼。この時近くの八剱神社や教念寺も焼けてしまいます。後に再建。愛染堂も嘉永3年(1850)頃に再建されたと伝えられますが現存しません。藩主祈願所としての歴史を持っているが故に元々の檀家が少ない事から、小和田区を中心とした信徒会が管理し、寺維持の為に境内は駐車場となっています。
宗派/真言宗
再興/永禄年間
(1557年以降)武田信玄 
本尊/厄除十一面観音(高嶋観音)
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場22番(厄除十一面観音)
 諏訪郡霊場百番札所西33終番
  御詠歌「尊さや慈悲のさっしょうの草薙の つるぎに勝る大慈大悲ぞ」
       「補陀落をここに示しかさしも草 しばしは詠歌聞くも極楽」
 諏訪八十八ヶ所霊場56番
  御詠歌「みな人の参りて拝む甲立寺 ぎょけんも同じ大師だいじぞ」
■諏訪市小和田13−9 TEL0266−52−5417 *地名は小和田(こわた)

二十三番
愛宕山 地藏寺
あたごさんじぞうじ

本堂内に御詠歌額がありました

味わいのある龍がお出迎え!
ももか的がいど
天正12年(1584諏訪頼忠により、金子城の鬼門鎮護寺として諏訪の中洲の地に開かれたお寺。頼忠は満隣の子で、諏訪高島藩祖・頼水の父。上州に移封となった頼忠に替わり日根野高吉が諏訪を領するようになると、高島城を築き居城としました。再び諏訪氏により領有されるようになった江戸時代の元禄2年(1689)、諏訪藩祈願所・高島城鬼門鎮護寺として現在の地に移転。ここは霧ヶ峰に続き佐久地方に抜ける街道沿いにあり、諏訪湖が一望できる景勝地です。
老朽化の為、数年前に再建された本堂には本尊・延命地蔵願王大菩薩が安置されています。脇本尊に千手千眼観世音菩薩、また愛宕大権現勝軍地蔵尊も祀っています。天井には画僧・石田豪澄作の「観音百体」が描かれ、とても華やか。池泉鑑賞兼廻遊式の地寺庭園は日本百名庭園の一つで指定文化財名勝。加持湧出御霊水と称される水は、愛宕権現の権化とされています。中興開山・露山恵白が49日間の断食坐禅をし、満願の日に立ち上がろうとしてよろめき金剛杖に縋ったところ、杖の下から清水が湧き出たといわれるもの。 「清水之飛泉」とも称されています。沢山の鯉が迎えてくれる事から別名を鯉の寺とも。転じて恋の寺。庭には奥之院の愛宕神社があります。秋の紅葉も素晴らしいです。
宗派/曹洞宗
開基/元禄2年
(1689)諏訪高島藩3代藩主諏訪忠晴
開山/群亀応逸 中興開山/露山恵白
本尊/延命地蔵願王大菩薩
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場23番(千手千眼観世音菩薩)
 諏訪郡霊場百番札所西29番
  御詠歌「来てみれば誓い尊き地蔵でら 心も澄めるのりのきよみづ」
 諏訪伊那八十八番霊場20番(延命地蔵大菩薩)
  御詠歌「梓弓ひくもはなつも六つのみち こまにまかせて行きめぐるらん」
■諏訪市岡村2−12−16 TEL0266−52−0824 *地名は岡村(おかむら)


二十四番
臨江山 温泉寺
りんこうざんおんせんじ

高島城の能舞台を
移築した本堂


お鉄塔の周りに立てられた御柱。
このような風景も
諏訪であればこそ
ももか的がいど
この付近一帯は温泉が多く湧き、寺の創建以前から薬師如来を祀る薬師の名湯として誉れ高い地でした。
諏訪初代藩主頼水は下諏訪の慈雲寺十四世泰嶺和尚に深く帰依し、その寺を菩提寺にと願いますが泰嶺和尚に固辞され、果たせませんでした。子である忠恒は頼水の意思を継ぎ鉄嶺和尚を招いてこの寺を創建。以来、七代に亘る諏訪藩主の菩提寺となります。元文2年
(1737)、明治3年(1870、火災により焼失。現在の本堂は三門(大手門)、薬井門と共に高島城から移した能舞台で、文政10年(1820)のもの。本尊は釈迦如来。そして薬師如来の周りにずらりと並んだ十二神将の色鮮やかな様が印象的です。また、諏訪湖畔七福神の布袋さんも安置されています。
客殿の廊下(の片隅)に置かれている梵鐘は、元々伊那の安養寺にありましたが、武田征伐途上の織田信忠が略奪し、引き摺ってきたという由緒あるもの。武田家を滅ぼした織田信長が諏訪を立ったのは4月2日。本能寺の変の2ヶ月前の事です。
境内には「お鉄塔」と呼ばれる多宝塔があります。鉄塔は、諏訪大社上社の御神体とされていましたが、廃仏毀釈の折に移されてきました。この鉄塔を安置するお堂の建立にあたっては当時の国学者との間に争いがあり、火災までに及びました。境内には小堂が建てられ、長きに渡りそこに安置されていましたが、昭和54年
(1979)に新たに多宝塔を建立。現在はこちらに納められています。
諏訪氏の廟所は寺の裏山の墓地の一番奥にあります。お盆には旧藩士の末の方々が、主家を偲び石灯籠に火を灯します。参道には和泉式部の墓といわれる五輪塔もあります。高台にあって諏訪湖が一望できます。
宗派/臨済宗妙心寺派
開山/寛永17年
(1640)泰嶺玄末 *創建年代は二説あり、慶安2年(1649)ともいわれる
開基/諏訪高島藩2代藩主諏訪忠恒
本尊/釈迦如来
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場24番(薬師如来)
 諏訪郡霊場百番札所西27番
   御詠歌「人生の不浄なる身もあなとうと 瑠璃の光に病癒えるなり」
 中部四十九薬師霊場札所7番
■諏訪市湯の脇1−21−1 TEL0266−52−2052
 *地名は湯の脇(ゆのわき)

二十五番
引接山
聖聚院 來迎寺
いんじょうざんしょうじゅいんらいこうじ

参道の青麦と
下諏訪宿脇本陣の乾門

夏は涼しげな青紅葉
ももか的がいど
近くに青塚古墳がある事から、古くは青塚と呼ばれる地にあるお寺。花見街道に面し、桜の季節に訪れたいところです。來迎寺は応永2年か3年頃(1396か1394)加祐大僧正によって創建され、天文10年(1541)遵蓮社願誉栄海上人により開かれたと伝えられています。開基は下社大祝金刺家の分家といわれる諏訪右衛門尉。後、増上寺二十二世位産上人はこの寺で得度したといい、本堂・庫裏を再建します。しかし明治40年(1907)の火災で焼失。昭和11年(1936)に再建されました。
「かなやきさま」と呼ばれる銕焼地蔵菩薩は、かつては小湯の上の林久寺の本尊でしたが、寺が焼失した際にこちらに移されたといわれています。また和泉式部の守本尊だったと伝えられています。湯屋別当に奉公していた娘・かねは、湯屋の妻に焼け火箸で顔を打たれますが、かねてより信仰していたお地蔵様に縋ったところ、顔の痛みも消え傷一つなく、代わりにお地蔵様の顔からは血が流れ出ていたとか。後にかねは美しい娘に成長し、時の帝に召し出されて京へ上り、和泉式部と呼ばれるようになりました。晩年彼女が尼となり営んだ庵へ、鎌倉時代に至り最明寺入道北条時頼が訪れます。時頼はお告げによりお地蔵様を下諏訪へ運びました。これが銕焼地蔵菩薩です。地蔵堂は享保16年
(1731)に建てられた記録があり建立年が分かるものとしては下諏訪町最古の建物。中には地蔵尊と笈が安置されています。銕焼地蔵菩薩は、普段は厨子に安置されている秘仏で4月24日のみ御開帳が行われます。
宗派/浄土宗
創建/加祐大僧正
中興開山/天文10年
(1541遵蓮社願誉栄海上人
中興開基/諏訪右衛門尉(来迎寺殿宗山一超大居士)
本尊/阿弥陀如来
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場25番(千手観音)
 諏訪郡霊場百番札所西22番
   御詠歌「三尊の衆生さいどは来迎寺 有難かりし誓いなりけり」
 諏訪八十八ヶ所霊場53番
  御詠歌「来迎の弥陀の光は湯のまちに 照りそう月は夜な夜なの月」
■下諏訪町横町3454 TEL0266−27−8234 *地名は横町(よこまち)

二十六番
福沢山
清泰院 法泉寺
ふくたくざんせいたいいんほうせんじ

古き道に面した古き寺

寺標は
知恩院門跡明誉実應の筆
ももか的がいど
法泉寺のある東山田の地は元々下社御神領として大祝、禰宜大夫、権祝など下社五官の屋敷が存在していました。東に下の原、西に西山田と接し、中仙道や甲州裏街道に面し、また塩尻峠と諏訪神社下社に向かう古くから交通の要所でもあります。今は静かな住宅街となっていますが、江戸時代は多くの旅人で賑わっていたと推測できます。
山号は寺の近くにある福沢川に由来しています。かつては山号を「冷泉山」、寺号を「宝泉寺」と称していましたが、後に改めました。明治38年(1905)以降、長きに渡り無住の時代があったとか。
元々は畑中にあり、広い寺域を持っていました。しかし明治初期に学舎に土地を提供するなどした事もあり、次第に寺域は狭まっていき現在に至ります。駐車場がない為、車でのお参りは事前検討した方が良いでしょう。
本尊は阿弥陀如来、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩。諏訪郡百番札所御詠歌額は本堂の中に掲げられています。

宗派/浄土宗鎮西派
開基/不詳
開山/暉蓮社冷誉梁阿誠善
本尊/阿弥陀如来
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場26番(聖観音)
 諏訪郡霊場百番札所西19番
   御詠歌「朝起きて東を見ればしののめの 安養国も心願のうち」
■下諏訪町社区東山田7404 TEL0266−27−9371 *地名は社、東山田(やしろ、ひがしやまだ)

二十七番
林澤山 常福寺
りんたくざんじょうふくじ

苔生した屋根が見事
ももか的がいど
役の行者を開祖とし、大化2年(646)に荻山沢(おぎやまさわに築かれた盾鉾山(たてほこざん)常蓮寺が前身。諏訪湖の釜口弁天島より移した蓮が見事な花をつけた事からこの名がありますが、後に常現寺と改めます。下諏訪の白華山慈雲寺との関わりが深いお寺でしたが一時廃絶。後の承応元年(1652に慈雲寺第十五世万渓宗和尚により中興されました。中興後は慈雲寺の隠居所としての性格が深かったものの、明治に至り慈雲寺から離れ独立寺院となりました。本尊の千手観音は昭和年間に難に遭い、現在は聖観音が迎えられています。
お寺のすぐ隣りには諏訪八十八ヶ所霊場の中村薬師堂があります。古くは常蓮寺に属し荻山沢にあったそうです。約800年ほど前に失われ、再建されたと伝わります。後に移転、正徳元年
(1711)に現在の地に移りました。お堂は宝暦2年(1752)建立のもの。
宗派/臨済宗
開山/大化2年
(646伝・役行者 中興開山/承応元年(1652)万渓宗元
本尊/聖観世音菩薩
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場27番(聖観世音菩薩)
 諏訪郡霊場百番札所西18番
   御詠歌「誘われて行く牛連れも西山田 六畜ともに化度に会うかな」
 諏訪八十八ヶ所霊場49番
*隣接の中村薬師堂
   御詠歌「十悪のわが身を捨ててそのままに 極楽浄土ありがたきかな」
■岡谷市長地梨久保2−8−32 TEL0266−27−7059
  *地名は長地、中村、梨久保(おさち、なかむら、なしくぼ)

二十八番
彌林山 平福寺
みりんざんへいふくじ

縁日は幟も立って
賑やかなお寺


境内には寿老人も
いらっしゃるのです

ももか的がいど
創建は不詳。大同年間(806−810)、弘法大師が下社神宮寺とともに創建したといい、東堀古屋敷地籍にあって、古くは高野山金剛頂寺の末寺だったとされます。隆盛時は南北四町余、東西二町余の寺領の中に、伽藍七宇十一坊を数え、傍らには柴宮正八幡宮(上八幡宮)がありました。
南北朝期に下社神宮寺の憲明が中興、その頃は春宮の別当寺をも務める大寺院でした。しかし天正10年
(1582)武田征伐途上の織田軍が諏訪に入ると、近隣の寺社同様難に遭い、平福寺も兵火にかかって「礎石を茂草の間に存すのみ」の状態が続いたようです。横河川左岸の現在の地に移ったのは慶長年間(1596−1615)の事ですが、それは横河川の氾濫により寺が流失した事によります。当時の住職は「遂に竜宮に到れり」と口碑に記したと伝えています。江戸時代には柴宮八幡宮別当寺にもなり、第23世憲栄により諸堂を造営再建。本尊の大日如来は享保元年(1716)に高野山金剛頂院栄鏡大阿闍梨から受けたものです。
後、明治の廃仏毀釈により下社神宮寺・三精寺の仏像などが引き継がれました。日限地蔵は、もと三島の蓮馨寺から三精寺に移されたもの。大正時代に
彌陀堂の続きに日限堂を増設し、そこにお祀りされ「おひぎりさま」として知られています。毎月23日の縁日には多くの人で賑わいます。境内の寿老人は諏訪湖畔七福神の一つ。
宗派/真言宗智山派
創建/不詳
中興/応永以前
(1394年以前)下社神宮寺憲明阿闍梨
本尊/金剛界大日如来
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場28番(十一面観音)

 諏訪郡百番霊場札所西15番(阿弥陀堂・柴宮正八幡宮の本地仏)
   御詠歌「平らかな福徳なれや東堀 迷いはせまじ西のみ国へ」
 諏訪郡百番霊場札所西20番(下社春宮別当寺若林山観照寺)
*廃寺、移安
   御詠歌「あだし野の露も消えゆく下の原 夢の浮世を助けたまえや」
 諏訪郡百番霊場西23番(下社秋宮別当寺松林山三精寺)
*廃寺、移安
   御詠歌「すみにごる世に有難き三精寺 大悲無量のさいどなりけり」
 中部四十九薬師霊場番外札所(阿弥陀堂)
 諏訪湖畔七福神(寿老人)
■岡谷市長地柴宮3−3−22 TEL0266−27−8936 
 *地名は長地、東堀、柴宮(おさち、ひがしぼり、しばみや)

二十九番
霊湊多聞山
久保寺
いそうたもんざんきゅうほうじ

高台ゆえに
続く石段と。


天気が良い日は
遠くに富士山も見える
ももか的がいど
諏訪湖西岸の湊の地は傾斜地にあります。湖岸から少し山側の、現在「旧道」と呼ばれている細道が古くからの道ですが、幾つかあるお寺お堂の殆どがこの旧道よりも高台に造られています。古き時代の諏訪湖は今よりも大きく、度々氾濫を繰り返してきた歴史にも関係するのかもしれません。久保寺が建てられた地は、戦国時代には狼煙台であったとも伝えられています。百三十段の石段を登ると眼下には諏訪湖全体が広がります。
大正11年
(1922)諏訪市豊田有賀の江音寺(臨済宗妙心寺派)の伐採紛争をきっかけに、檀徒内は改宗して小坂観音(真言宗)へ移るもの、江音寺に残るもの、新しい寺を創ろうとするものと三派に分かれてしまいました。その中でも新しい寺を創ろうとする檀徒によりまず本堂が建てられました。その後、上伊那郡南箕輪村久保地籍にあった多聞山久保寺を移し、大正13年(1924)に正規の寺院となりました。久保寺の開山は建治3年(1277)で鎌倉建長寺の開山第一祖である大覚禅師(蘭渓道隆)で、随分と古いお寺です。因みに久保寺の旧跡は現在は住宅地となっています。
寺本尊は釈迦如来で、諏訪湖畔七福神の毘沙門天も祀られています。こちらは別に安置されていて、お参りが出来るのは昭和58年
(1983)開眼の新しい方。彩色が鮮やかです。境内の石造観音は鈴木知郎作。山門は高遠城の搦手門を移築したもので湖岸七尾根八岬の一つといわれる景勝地となっています。平成23年(2011)修復。
かつて花岡の地には札所として釈迦堂・地蔵堂があり、明治以来廃堂となっていましたが、久保寺の建立と同時に諏訪八十八ヶ所42番・43番の札所となりました。
宗派/臨済宗妙心寺派
開基/諏訪大和守甫良 再中興大正13年
(1924)
開山/建治3年
(1277)蘭渓道隆
本尊/釈迦如来
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場29番(観世音菩薩)
 諏訪八十八ヶ所霊場42番(小田井・釈迦堂)
*廃堂、所在不明
   御詠歌初秋や小田井小田井と来て見れば 補陀落山と願う身なれば」
 諏訪八十八ヶ所霊場43番(花岡・地蔵堂)
*廃堂、所在不明
   御詠歌「来世にははちす花岡大師尊 慈悲のみ堂へ歩み運ばん」
 諏訪湖畔七福神(毘沙門天)

■岡谷市湊2−14−6 TEL0266−22−3120 *地名は湊、小田井(みなと、おたい)
三十番
龍光山 観音院
りゅうこうざんかんのんいん
門に門には注連縄が
ありました


額の横には繭の奉納も。
養蚕が盛んだった
土地ならではの光景
ももか的がいど
諏訪八景の一つ、小坂秋月と愛でられた地にあり、「小坂観音」の名で知られています。言い伝えによれば本尊の十一面観音は漁夫の網にかかり諏訪湖から引き上げたものだそうです。漁夫は魚籠の上に奉置して持ち帰った事に因むのか、台座は魚籠の形をしています。かつては60年に一度だった御開帳は、現在年に一度行われています。
室町初代将軍足利尊氏に大きな影響を与えた小坂(諏訪)円忠はこの地の出身で『諏訪大明神絵詞』を記しました。また、武田信玄の側室となり四郎勝頼を生んだ諏訪頼重の娘・諏訪御料人は、井上靖の『風林火山』では由布姫という名を得て、後に小坂観音院で過ごしたとされています。故に境内には諏訪御料人の供養塔があります。供養塔は正室に遠慮して、山梨県甲府市円光院の三条夫人の供養塔の二分の一の高さです。初代は昭和38年
(1905)に建立され、三条夫人と同じ佐久石を使用していました。約50年の歳月を経て一部が欠けるなどした為、平成23年(2011)5月に風化に強い御影石を使用し再建。かつては門前に、病床の御料人を見舞った信玄が何度も何度も振り返ったという「見返りの桜」がありました。400年の長きを生きたこの桜も昭和40年代(1970年代)に枯れ朽ち、惜しまれつつも切り倒されたそうです。
江戸時代、歴代高島藩主は湖水を舟で渡り参拝していました。舟は観音下の殿崎に着けられ、御茶屋で花を見ながら休憩したといい、地名にその名残を見る事が出来ます。湖を挟んで対岸の高島城に対面している表門には、春分と秋分の早朝、この門を通って湖水の上の太陽と湖水に映った太陽の光が溢れます。
明治4年
(1871)新義真言宗醍醐派に属し、駒沢の昌福寺の末寺として観音院の寺号を認められ、明治44年(1911)に智山派となり現在に至ります。
境内には御宝木と呼ばれる推定樹齢1200年の柏槇があります。現在の小坂観音院といえば紫陽花の名所。夏に青紫の花が咲き誇ります
宗派/真言宗
中興開山/宥清
本尊/十一面観世音菩薩
札所/
 諏訪三十三ヶ所観音霊場30番(十一面観世音菩薩)
 諏訪郡霊場百番札所西6番
  御詠歌「つきひも湖水の波にうつろふて龍光山にひかりかがやく」
 諏訪八十八ヶ所霊場41番
  御詠歌「月影を磨く湖水の大師尊 火宅逃れん小坂廟堂」
 伊那諏訪八十八霊場29番
  御詠歌「玉くしげふだらく山にのぼりては ななのさわりものがれもぞすれ」
■岡谷市湊4−15−22 TEL0266−23−4458 *地名は湊、小坂(みなと、おさか)

C)Copyraight 王様の楽園 momoka sakurakouji All rights reserved. 2011 直リンク禁止

HOME騎竜舎あらまし 諏訪三十三ヶ所観音霊場(1〜10) 諏訪三十三ヶ所観音霊場(11〜20)諏訪三十三ヶ所観音霊場(31〜33)





















このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください