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三十一番 城向山 瑠璃院照光寺 じょうこうざんるりいんしょうこうじ | 新しい水屋には 大隈流の力強い龍 「お観音さま」と 呼ばれる薬師堂 | 江戸時代に何度となく火災にあい古記録が失われている照光寺。創建は不詳ですが『延喜式』に岡屋牧に創建された寺との記述が見られます。そして応永2年(1395)5月、下社神宮寺宝珠院の憲明により再興され、薬師如来を安置したそうです。その後、文明年間(1469−1486)には木曽義仲の四天王の一人今井四郎兼平の末孫・今井兵部兼貫により再建。享徳元年(1452)には紀州金剛峯寺の末寺となり、また下社神宮寺の一等末寺となっていました。その頃は現在の成田公園東にあり薬師十二神将に因む十二坊を擁する大寺院だったとか。戦国時代に罹災、後再建。明暦2年(1656)頃に現在地に移りました。下社神宮寺唯一の末寺であった事から、明治の廃仏毀釈の折、胎蔵界大日如来(京都七条仏所十代目康忠作)や諏訪七観音随一の千手観音が移されています。 本堂は寛永4年(1792)に大隈流伊藤長左衛門矩重が、山門は弘化3年(1846)二代目立川和四郎冨昌が建立。本尊の金剛界大日如来には正徳3年(1713)の銘があり、脇本尊として明応3年7月(1494)の銘のある神宮寺の胎蔵界大日如来が坐しています。また、本堂に安置されている仁王も必見。宮川氾濫の折、安国禅寺より流失し諏訪湖畔に流れてついた仁王像で下社神宮寺千手堂に移された後、巡り巡ってこのお寺にやってきたものなのです。厚い手が印象的。また、生糸の都と謳われた歴史の名残を、蚕霊供養塔(本尊・木造馬鳴薩坐像)に見る事が出来ます。実は住職さんによる砂曼荼羅が有名。 *下社神宮寺・・・海岸孤絶山法性院神宮寺。諏訪神社下社秋宮に隣接していた大寺院で室町時代には殷盛を極めました。下社大祝金刺氏の没落により荒廃し、後に武田氏の庇護を受け再興。明治の廃仏毀釈で破却。現在は宅地となっています。下社秋宮本地仏は千手観音。 |
宗派/真言宗智山派 開山開基/不詳 再興/応永2年(1395)憲明 中興/天正元年(1573)宗順 再中興/明暦2年(1656)尊盛 本尊/金剛界大日如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場31番(観音堂・千手観音) 諏訪郡百番霊場札所西11番(薬師堂・薬師如来) 御詠歌「おのが身をただ一筋に岡の屋の 薬王慈悲と願う安楽」 諏訪郡百番霊場札所西24番(下社神宮寺千手堂・千手観音)*廃寺 御詠歌「うちむちも千手の御手の糸桜 花のうてなに導かねぬる」 中部四十九薬師霊場11番(観音堂・千手観音) 伊那諏訪八十八番霊場17番(本尊・金剛界大日如来) 御詠歌「みほとけのひかりや四方にみちぬらん 人の心のやみをてらして」 伊那諏訪八十八番霊場19番(下社神宮寺・千手観音)*廃寺、移安 御詠歌「ます神のもとのひかりにうろくづも 浮かびやすらんすはの湖」 ■岡谷市本町2−6−43 TEL0266−22−2314 *地名は本町(ほんまち) | ||
三十二番 青龍山 真福寺 せいりゅうざんしんぷくじ | 本堂から三門を望む その眼下には天竜川 温かみのある六地蔵さん | ももか的がいど |
口碑によれば昔、諏訪下社大祝金刺隆種が正平5年(1350)、高尾山城築城の折、鬼門除けの為に男高尾山西麓の寺平地籍に堂宇を創建したと伝えられます。唐松林の中には観音像を安置したといわれる蓮華形の自然石が残り、現在は地蔵座像が安置されています。 この辺りは筑摩・伊那・諏訪を結ぶ要所として、小野峠(岡谷方面からの呼称は三沢峠)が通る地域でもあります。後に堂ヶ窪地籍に移転。戦国時代の天正年中(1573−1592)に移転。宝永3年(1706)に火災の為、三沢熊野神社隣の神田地籍に更に移転。当時はこの辺りが村の中心地だったのだそうです。文化年間(1804−1817)までは高野山の末寺でしたが、後に諏訪佛法紹隆寺の末となり、明治時代に真言宗智山派のお寺になりました。 本尊の上品上生阿弥陀如来は高さ52センチで室町時代中期作の宋朝様式。宝永の火災の折に罹災したといわれ、その蓮台の一部に名残を見る事が出来ます。 観音堂には雨乞いに使用された為、所々破損している厄除け聖観音菩薩を祀ります。高尾城下の武運長久をも祈願したといいますが、日照りが続くと村人は観音堂で祈願の後、太鼓を叩きながら高尾山へ登り雨乞いをしました。また時には観音様を怒らせれば天もお怒りになり大雨を降らせるだろうと観音像を天竜川に運び橋の上から投げ落とす事もあったとか。 平成7年(1995)本堂と観音堂を再建。境内の樹齢40年ほどになる枝垂桜は色も濃く、諏訪の春を寿ぎます。時折小さなコンサートなども開かれています。 | ||
宗派/真言宗智山派 中興/頼賢 本尊/上品上生阿弥陀如来 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場(観音堂・聖観世音菩薩) 諏訪郡霊場百番札所西10番(観音堂・聖観世音菩薩) 御詠歌「光明のひかり三沢の観世音 行く先々を照らしたまえや」 ■岡谷市川岸上2−6−6 TEL0266−23−6156 *地名は三沢(みさわ) | ||
三十三番 龍光山 昌福寺 りゅうこうざんしょうふくじ | 額はどっしりと 麗らかな春の境内 | ももか的がいど |
はじめ龍光山観音院(小坂観音)の別当寺として湊小坂にありました。元の名を「正福寺」と称し、小坂氏の信仰の篤いお寺でしたが、その勢力が衰えると檀徒の多かった駒沢へと移転しました。この時に「正」を「昌」に改めたようです。記録によれば天文2年(1533)に堂山から阿弥陀如来を迎え入れ阿弥陀堂を建立したとあり、室町末期には移っていたのではないかと推定されています。元文5年(1740)九世頼意の時に諏訪の佛法紹隆寺の末寺となり、明治19年(1886)に大本山醍醐寺無量院法流末に、そして明治33年(1900)、京都智積院末となります。 本尊は小坂観音と同じ十一面観音菩薩。昌福寺には武田勝頼の安堵状が伝えられています。また、大正元年に寄進された、天竜川から出て諏訪三名石の一つといわれる竜の巻石があります。鰐口は明応5年(1496)遠州の九所大明神に寄進され、天正2年(1574)にこのお寺にやってきたと伝えられているもの。梵鐘は戦後の再鋳造のものですが、先代梵鐘は文化13年(1816)に寄進され、昭和16年(1941)戦争の為供出されました。昭和21年(1946)まで金沢市にありましたが、行方が分からなくなっていた梵鐘を探しあてた寺役員が金沢市に駆けつけたところ、なんと僅か8日前に溶かされてしまっていたとか。 境内の枝垂桜の樹齢は300年を超え、目通り太さ3.3メートル、高さ16.5メートル。言い伝えとしては諏訪高島藩2代藩主忠恒が、大坂夏の陣に赴いた際に持ち帰ったものなのだそうです。温泉寺の枝垂桜もこの時のものといわれていますので、両者は兄弟桜なのかもしれません。春の境内に色づいた桜の姿は、鄙には勿体無いくらいの雅さがあります。忠恒は三門も寄進しています。 | ||
宗派/真言宗智山派 創建/不詳 中興/寛文11年(1671)憲王瑜 本尊/十一面観世音菩薩 脇士/不動明王・毘沙門天 札所/ 諏訪三十三ヶ所観音霊場終番(十一面観世音菩薩) 諏訪郡百番霊場札所西8番 御詠歌「駆けいだす心の駒を引き止めて 慈悲のみ堂へ歩み運ばん」 諏訪伊那八十八番霊場16番 御詠歌「法の道ここにさかゆく誓いあらば たのみはかけん此の世あの世」 ■岡谷市川岸東4−16−5 TEL0266−22−2982 *地名は駒沢(こまざわ) | ||
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