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鳳城(大昭)炭鉱専用軌道 本線 2
平成20年10月5日。鳳城炭鉱専用軌道 支線の探訪から遅れる事5ヶ月。やっと本線の探訪をする事になった。
ここは
かつてここは鳳城(ほうじょう)炭鉱専用軌道の本線(直進)と
支線
(左折)が分岐していた場所なのだ。
今回は直進して現在の県道20号いわき上三坂小野線を辿り、専用軌道跡を訪ねる。
県道20号線はかつて「山田街道」と呼ばれ、植田、山田、遠野を結ぶ主要街道であった。現在ではご覧の通り、2車線の立派な道路が整備されている。
専用軌道は専用の道床を持たず、街道上に敷設されていた。
車通りは日曜ながらかなり多く、乗用車に混じって木材を満載したトラックが頻繁に走り過ぎていく。
私は道路の白線を踏みながら慎重に自転車を走らせ、安全を確保しながら撮影する。
上の画像の道路の反対側、右側に比較的大きな石碑が見えた。
石碑の上部には大きく「馬頭尊」と刻まれている。比較的新しい注連縄がアクセントだ。
馬頭尊(馬頭観音)と言えば馬の守護仏であり、転じて荷役、交通の安全を守る仏様のことである。
この馬頭尊は何者が建立したのであろうか。
道を渡り近づいてみる。
馬頭尊には「磐城採炭株式会社軌道運搬組合」と記してある。「明治四拾三年旧七月十七日建立」の文字も見える。
鳳城炭鉱株式会社の前身である磐城採炭株式会社の文字が見られるとは思わなかった。
記録によると磐城採炭の手により植田駅〜上遠野村9.5kmの運炭馬車軌道が開通したのは明治40(1907)年の事である。
この馬頭尊は軌道に携わる人たちがお金を出しあい、軌道の安全と発展を祈願して建立されたものと推測する。
馬頭尊の下に記されている名簿には上遠野、山田地区の炭鉱会社や鉱業所、地元の有力者などの名前がずらりと並んでいた。
筆頭に記されている「五拾円」は今ならばどれ位の金額に相当するのだろうか。想像もつかない。
明治43(1910)年 日本は韓国を併合し、朝鮮総督府が設置された。
東アジアにその手を広げる日本に国中が前途洋々たる気分に満ちていた時代だったのだろうか。
先人の見果てぬ夢を思いつつ馬頭尊に一礼して先に進む。
思わぬ馬頭尊の発見に気を良くして、ペダルも軽い。
県道をクロスオーバーするのはお馴染み常磐自動車道である。
50年前までは下の道には鉄道が敷かれ、石炭が日夜植田駅まで運ばれていたのだ。
今では汽笛の変わりにタイヤの発するノイズが山間に響き渡る。
「福島空港 60km」
…税金の無駄遣いが叫ばれている昨今にこのような看板が罷り通るとは信じ難いものがある。
はっきり言ってこの看板は福島県の恥そのものである。県内各地に脈絡も無く配置され県民を混乱に陥れる。
この地点から看板に従い福島空港に行こうとすると、どエラい道を走らされるのだがそれはまた別の話。
流石は2桁県道。高速道路を過ぎてもなお立派な整備が成されている。
緩やかなカーブが軌道跡を思い起こさせる。
5t機関車が炭車を牽き、奮闘する様を思いながら炭鉱へ向かって進む。
緩やかなカーブの次はおよそ鉄道跡とは思えない強烈な急カーブ。
里道(街道)上に軌道を敷設したのである程度元の道の形に従わなければいけなかったのだろう。
炭車から石炭がこぼれ落ちる様が目に浮かぶようだ。
このカーブを曲がればいよいよ旧
急カーブを過ぎると、軌道跡と里道は一旦袂を分かつ。
軌道跡は廃止後、道床を利用して県道20号線として生まれ変わった。
一方の里道(旧道)は車一台もかくやと言うほどの狭い道のままである。
里道の縛りから逃れた専用軌道は次のカーブに向けて直進する。
軌道が専用の道床を持つのはこの場所以外にもう一箇所あるが、そのどちらもが、廃線後に県道として整備されたのは興味深い。
転進を遂げた軌道跡に対して、残された里道はご覧のように田んぼの中を突っ切っている
画面に見えるプレハブの脇には「山田から市議会議員を!」と大書されている。
程無くして里道と軌道跡は合流する。
丁度傍らを「新常磐交通」の路線バスが通り過ぎていった。
このバスは専用軌道の跡をなぞる様にして上遠野まで行く。
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