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重内炭鉱専用側線 3 山口炭鉱専用軌道 4

〜木皿地区の遺構群〜

 

平成の世にあって比較的当時の雰囲気を残している重内炭鉱、山口炭鉱専用側線。

 

これから先は鉄道そのものに関る遺構が続出する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(航空写真 切り通し2)

 

茨城県道10号 日立いわき線を境に専用側線跡は舗装路から砂利道になっていた。

 

側線跡は左カーブを描き、木皿地区に入って行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

切り通しの内部は結構な曲率の左カーブになっている。

 

先ほどの豊田地区の切り通しとは違い街路灯が設置されている。四輪車も日常的に通行している。

 

行徳小学校の生徒も通学に利用しているようだ。

 

切り通しの法面は特に補強を施されていない。現在でも崩壊する兆候などは微塵も見られない。

 

専用側線敷設時では法面補強まで手が廻らなかったのかも知れない。

 

 

 

 

 

切り通しを抜けると側線跡は直進に転じ、木皿地区の中心部を通り抜ける。

 

側線跡は画像手前の小川で分断されている。

 

四輪車でこのまま向こうに行くのは無理そうだ。

 

この地点には何がしかの鉄道橋が架かっていたと思われるが…

 

 

 

 

 

 

 

小川にはイカした木橋が架けられている。

 

夏の訪問時と木の色が違う。

 

秋の間に新しい木材で架け替えられたようだ。

 

当然2輪車や徒歩での通行には全く支障は無い。

 

 

 

 

 

 

 

レール発見。

木橋を渡り、ふと反対側の面を見るとレールがひょっこり顔を出していた。

 

普通ではありえないシチュエーションだが、ここは側線跡。線路が出て来ても不思議ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

レールに出来るだけ近付いてみる。

 

レールはジョイント(継ぎ目)部分で外されているのかと思いきや、この断面はどう見ても人為的に切断したものだ。

 

ガスバーナーで溶断したものと思われる。

 

レールはかなり高規格な物が使われている。

 

並ではない重量の石炭列車が通過するのだから当然の事だろう。戦争中にこの規格のレールを何処から持ってきたのだろうか。

 

 

 

 

 

レールどころか鉄橋までも溶断してあった。

 

レールの下に目を向けると鉄橋がレールと同じように溶断された姿で顔を覗かせていた。

 

夏の訪問時は草に覆われて見えなかったのだ。

 

何故鉄橋を溶断しなければいけなかったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

鉄橋が低すぎるのだ…

 

レールの存在する面の反対側にはコンクリート製の橋台が残っていた。

 

川面からの距離を見て欲しい。かなりの低さだ。

 

増水時に鉄橋に流木や草が引っ掛かり、無用の洪水が引き起こされるかも知れない。

 

そのため鉄橋とレールをやや強引な方法で撤去したと考える。

 

 

 

 

 

橋を渡り、交差点に向かう途中では枕木が発見できた。

 

この砂利道が側線跡である何よりの証だ。

 

山口炭鉱専用軌道の時代(明治42(1909)年)から数えると、実に99年もの歴史ある道だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここが問題の平面クロス地点(軌道時代)である。

 

豊田地区で一度目の超接近を果たした2つの軌道はこの木皿地区で2度目の超接近を果たす。

 

今度は平面クロスと言う荒技だ。直接行使に出たのだ。

 

先発(明治34年)の重内炭鉱専用軌道にしてみれば、後発(明治42年)の山口炭鉱専用軌道が堂々と直角交差するのは安全面などいろいろな面で面白かろうはずが無い。

 

しかも問題は別の所にもあった。

 

 

 

 

左の画像は重内炭鉱専用軌道の側から見た山口炭鉱専用軌道である。

 

直角に交差するだけでも充分に危険だが、恐るべき事に山口炭鉱専用軌道はこの地点を勢い任せに通過していた可能性がある。

 

資料「常磐地方の鉱山鉄道」によると山口炭鉱専用軌道は「炭鉱から2t積みの炭車を8両連ね、重力に従い山を駆け下っていた」という。「木皿地区、鈴木亀太郎氏宅の前で馬を炭車に繋ぎ磯原駅に運んだ」とも言う。

 

もちろん山口炭鉱専用軌道の炭車にはブレーキ手が乗っていた(注意を喚起するためにラッパを吹いていた)が、2×8=16tもの運炭列車が急に止まれるはずもないだろう。

 

件の「鈴木亀太郎氏」のお宅が画像の右側に存在していた事を願わずにはいられない。もし左側だったら…側面衝突の危機だ。

 

 

 

(余談)

上の画像の地点からちょっと先に進むと家屋が建ち並ぶ一角に出る。

 

その昔、ここは「木皿銀座」と呼ばれ、重内炭鉱、山口炭鉱に携わる人々がこの地区に集い活況を呈していたと言う。劇場も存在したと言う。

 

重内炭鉱専用軌道は木皿銀座の中央を颯爽と駆け抜けていたのだ。想像すると面白い。

 

専用軌道跡は県道 里見南中郷停車場線となっている。

 

 

 

 

 

交差点を渡り木皿地区から大塚地区に渡る。

 

向こうから老婦人がこちらに近付いてくる。

 

老婦人の足元…不自然に鉄のようなものが露出している。

 

何であろうか?

 

 

 

 

 

 

 

レールだ。

 

先ほどの小川に飛び出ていたレールに続き、今回は道路にめり込んだ状態で露出している。

 

僅かながらカーブを切っている様子も分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レールを撮影する私の足元には枕木があった。

 

犬釘の存在も認められる。

 

レールと枕木…廃止されたのは昭和49年…34年前。

 

私は一体どんな空間に迷い込んでしまったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

レールに接近し、撮影する。

 

レールの幅は広く、先ほどの小川にあったレールと同一の規格であろう事が伺える。

 

レールが目指す先は画像上方に見える橋の左側のようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

片側だけ残っているかと思われたレールだが、橋の手前ではもう片方も露出していた。

 

恐らく左側のレールは道路の僅か下に埋まっているのだろう。

 

恐らくは枕木も…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

振り返り磯原駅方向を向き撮影する。

 

大変不思議な空間だ。

 

ここだけ時間が止まっているようでもあり、進んでいるようでもある。

 

現代的なRV車が通り抜け、現実に引き戻される。

 

 

 

 

 

 

 

橋の手前でレールは途切れる。

 

橋の脇には専用側線の橋台が残っていた。

 

コンクリート製の大変堅牢な作りに見える。

 

切り欠きの大きさからかなりの規模の鉄橋が架かっていたと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

上の画像の反対側(大塚地区)にも橋台は残っていた。

 

枯れ草に覆われ大変な状態だが、基本的には似たような構造だろう。

 

橋台の右側には石垣を組んだ様子が見られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

橋を抜けると道が二手(?)に分かれている。

 

右に行くのは元山口炭鉱専用軌道だった道だ。

 

左に行くのは専用側線だ。雁ノ倉操車場へと向かっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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