このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

勿来軌道

〜窪田と勿来駅〜

 

 

勿来軌道の基礎知識

開設 明治42(1909)年3月31日

廃止 昭和15(1940)年3月1日

勿来駅〜川部村(現いわき市川部)小川字橋本 

6.02km 軌間 762mm

 

 

常磐線の開通と窪田市街地

勿来と言えば「窪田」。

窪田地区は昔から窪田藩、棚倉藩の物資の集積地として賑わいを見せていた。

しかし、時代は明治に移り、窪田の立場はある出来事を境に長期低落傾向を示すようになる。

ある出来事と言うのは「常磐線の開通」である。

明治20年代後半、当時の日本鉄道による常磐線の敷設が決定されて以来、石城郡内ではその経路を廻って様々な駆け引きが行なわれた。

 

明治30(1897)年。常磐線は平駅(現 いわき)まで開通した。

鉄道の開通によって岩城郡内の流れが大きく変わった。人や物資が「駅」を中心にして廻りはじめたのだ。

 

鉄道の開通で割を食った地域は数々あるが、沿岸の「 小名浜 」、そしてここ「窪田」が代表的な地域として挙げられるだろう。

勿来駅は窪田地区の遥か東方、四沢の外れに設置された。

市街中心地に設置されたお隣の植田駅(錦)地区はそれまでの窪田地区に取って代わりこの周辺地区の中心を担うようになっていった。

このままでは窪田が廃れてしまう…

鉄道が来なければ引っ張ってくる…鉄道敷設計画が始まった。

 

 

勿来軌道の設立と開業

明治39(1906)年1月、山口忠輔氏を初めとする窪田村、川部村の有力者により、

勿来駅から川部村小川字橋本間 5,8kmの馬車軌道 軌間762mmの敷設申請が行なわれた。

同6月には窪田町通に本社を設置した。翌40年3月には「勿来軽便馬車鉄道株式会社」→(改称)「勿来軌道株式会社」として登記が完了した。

 

更に翌41年3月には敷設許可が下され、同10月には勿来駅〜窪田村白米酒井原まで4.56kmまでの敷設が完了し、

翌42年3月31日より営業を開始した。

窪田村白米から川部村小川字橋本間は敷設計画の変更(里道上の敷設から専用軌道敷に変更)や竣工後の改修や災害復旧に手間取り、

明治43(1910)年10月28日に開業がずれ込んだと言う。

 

計画された全線が開通した勿来軌道は開業初年度から利益を出す順調な滑り出しを見せた。

勿来軌道の開通は沿線の三澤、川部地区の中小炭鉱の開発を促進し、新たな炭鉱の進出も見られるようになった。

勿来軌道の設立時の目論みは大当たりしたのだ。

勿来軌道の絶頂とも言える大正7(1918)年には営業利益18510円を叩き出し、

2トン積み貨車80両、馭者(えいじゃ:馬を管理し馬車を運行させる人)82人をフル稼働させ

沿線の13炭鉱から採炭された石炭を勿来駅に運び込んでいた。

 

石炭運送の繁盛振りとは対照的に旅客輸送は全くのついで(副業)だったようだ。

開業以来3両の客車(総定員36名)が勿来駅〜川部村を往復していたと言う。

客車は一度更新された(大正12年)が、両数が増えることは無かった。

 

 

勿来軌道の終焉

順風満帆と思われた勿来軌道の経営だが、第一次世界大戦の終了(大正8年)(1919)を境にして悪化の一途をたどっていく事となる。

 

元々体力(資本力)の無い中小炭鉱から採炭される石炭の輸送が頼りの勿来軌道であるから不況には大変弱かったようだ。

絶頂から僅か数年後の大正14(1925)には赤字に転落してしまう。

 

大正12(1923)年に起こった関東大震災も勿来軌道にとって状況をより一層不利にした。

大正後期から日本中に進出し始めていた自動車は震災を境にして一気にその数を増やし「乗合自動車」(バス)による旅客輸送が普及したのだ。

 

ただでさえ石炭輸送のついでのような存在であった勿来軌道の旅客輸送はみるみるうちに乗合自動車にその客を奪われ、

昭和4(1929)年から昭和6年まで旅客輸送は休止された。

 

昭和に入ってからも細々と営業していた勿来軌道であるが、決定的な事態が昭和11(1936)年5月に起こった。

地元住民から「馬車軌道撤去要望書」が提出されたのだ。

 

「県道上に敷設された勿来軌道は自動車等の交通機関の変遷により現在では旅客輸送は行なわれていない。

こと今日においては公益上(地元住民の利便)の意味が無く勿来軌道は無用の物である。

軌道(レール)は人馬自動車にとって交通保安上大変危険であり、

また県道の幅も狭く雨天時に車両が跳ね上げる泥が家屋内に飛散し迷惑である。

一日も早い軌道の撤去を要望する」

(撤去要望書を現代風に解釈)

 

…なんと可哀想なことであろうか。

勿来駅から窪田、川部を繋ぐべく地元住民の期待を背負って華々しく開業した勿来軌道は時代に翻弄され、その規模を縮小し

最後には地元住民に邪魔者扱いされ、その30年余りの短い歴史に幕を閉じたのだ。

 

昭和12(1937)年初め頃に営業を休止した勿来軌道は復活の道を探ったものの果たせず、昭和14(1939)年に軌道を撤去した。

その軌道の撤去が無許可で行なわれた為、昭和15年3月1日に免許取消と言う行政処分が下され勿来軌道は消滅した。

 

 

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