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勿来軌道 1
〜並走する2つの軌道〜
平成20年11月3日 午前10時。
私は勿来軌道の探訪の為、勿来駅西口に来た。
駅の前を国道6号線が通る東口と違い、西口は通る車も少なく寂しい限りだ。
昔の地図を参照すれば勿来駅の西側、やや南寄りに勿来軌道の始点があったものと思われる。
勿来軌道用の石炭積替用引込線が3本存在したと言う。
旅客用の乗降場が何処に有ったのかは皆目検討がつかない。
周辺を見渡すと「竣功記念」と書かれた碑が見えた。
「勿来駅土地区画整備事業」の竣功を記念した物であるようだ。
勿来の行く末を案じる気持ちとこれから先への期待が入り混じる気持ちが文から読み取れる。
勿来軌道の始点付近に碑があるのは偶然ではないだろう。
勿来駅前を出発した軌道は西北に進路を取る。
赤く色付いた街路樹が道を引き立てる。
ここを馬に牽かれた客車がのんびりと川部に向かっていったのだ。
馭者は馬車通行時、ラッパを吹き安全を喚起していたという。
駅前通りはすぐに左手(南)方向からやって来た立派な2車線の道に合流する。
この道は旧国道289号。今現在知られる289号勿来バイパスが開通する前の国道である。
国道6号線から分岐し跨線橋で西側に渡ってきたのだ。
勿来軌道(軌道が存在した頃は県道)は廃止後、国道289号に昇格したのだ。
勿来駅の姿が見えなくなった途端に旧289号はセンターラインが消え、普通の道に変わる。
道は窪田に向かって僅かに登り勾配になっている。
自動車ならば何のことはない坂であるが、馬車ならばどうであっただろうか。
駅前の住宅街を抜けると、旧289号は再び国道らしさを取り戻した。
90度左カーブの少し手前で一本の細い道が合流する。
その細い道は「大日本炭鉱勿来鉱専用軌道」(初代:明治39(1906)年〜昭和4(1929)年)だったと思われる。
カーブから暫くの区間、2つの馬車軌道が併走する光景が展開していたのだ。
カーブを抜けると北側に田園が広がる。
画像中央に見える畦道も実は鉄道跡である。
「大日本炭鉱勿来鉱専用軌道」(2代目:昭和4(1929)年〜昭和32(1957)年)であり、その専用軌道を1067mmに改軌した
「
大日本炭鉱勿来鉱専用鉄道
」(昭和32(1957)年〜昭和42(1967)年)である。
画像部分の線路自体は昭和53年頃まで残っていたそうだ。
勿来軌道に話を戻す。
2つの軌道は並走したまま窪田地区の手前まで進む。当時はこの画像よりもっと道幅は狭かった筈だ。通行人に危険は及ばなかったのだろうか?
両軌道には敷設時に「道路上に軌道を敷設する事を許可するが、道路維持費を負担すること」という条件が付けられていた。
地元の役所(石城郡役場)にしてみれば、私企業が道路の維持費を負担してくれると言う誠に虫のいい話である。みすみす断る手は無かったのだろう。当時の石城郡から内務省への答申には「人馬行進上少しも危険なきものと確認」と記されていたそうだ。
常磐交通のバス停「潮見台」の脇の墓地に「馬頭尊」が3つ並んでいた。
馬頭尊とは観世音菩薩の化身と言われ、馬や牛の守護尊として崇められ、転じて旅や交通の安全を祈るものとされている。
中央の馬頭尊は一際大きい。
植田の大昭炭鉱専用軌道
の様に採炭会社が建立したものかも知れない。
馬頭尊に近づいてみる。
「三星炭鉱窪田鉱業所 運炭組合一同」と記されていた。
三星炭鉱とは大日本炭鉱に吸収された炭鉱の一つで、内郷(綴)を中心として各地に坑口を開いていた中堅炭鉱だったのだが、主力である綴鉱の大出水により経営が傾き、大正6(1917)年に大日本炭鉱に買収された炭鉱だ。
買収された三星炭鉱窪田鉱は名を大日本炭鉱勿来鉱と改めるのである。
3つの馬頭尊には人参が各2本ずつ供えられていた。
再びここを訪れる事があったならば私も人参をお供えしようと思う。
常磐交通バス停「四沢作田」(しさわさくた)。
この付近に勿来軌道の乗降場「四沢」があったものと思われる。
この四沢乗降場の手前で、専用軌道と勿来軌道は平面交差してその位置を入れ換える。
窪田市街地の南方にある出蔵(いでくら)地区にある大日本炭鉱勿来鉱に専用軌道が向かう為には窪田市街地の手前で勿来軌道と逆の位置になっておかなくてはならない。
馬車鉄道ならではの荒業だ。
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