このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

勿来軌道 2

〜四沢〜窪田〜

 

 

 

勿来を東西に流れる蛭田川(びんだがわ)。

 

蛭田川を旧289号は「小塙橋」(こばなばし)と言う名の橋で越して行く。

 

橋の手前、蛭田川の堤防にも鉄道が通っていた時期があった。

輸送力の増強を図る為、昭和4(1929)年に潮見台の北方を巻く様に勿来駅〜四沢作田間を移設した大日本炭鉱勿来鉱専用軌道は、残る四沢作田〜出蔵間も昭和18(1943)年に移設し、全線で蒸気機関車の運行を開始したのだ。

 

昭和32(1957)年には専用軌道の軌間を1067mmに拡幅し「 大日本炭鉱勿来鉱専用鉄道 」となった。専用鉄道は勿来鉱閉山の昭和42(1967)年まで運行された。

 

 

 

橋の袂に立ち、専用鉄道跡である堤防を見る。

 

昔、この場所を K2形蒸気機関車 やD51や C50 が駆けていたのだ。

 

想像できるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

反対側(勿来鉱方面)を見る。

 

堤防沿いを暫く走った専用鉄道は画像奥に見える「四沢作田炭鉱住宅」を横切り、勿来鉱へ向かうのである。

 

余談ではあるが、堤防上に鉄道を敷設する事は当時(戦前)の河川法では難しい事だったそうである。

堤防は公共の利益のために存在し、一企業の運送に供するべきではないとの考えだったのだろう。

日本陸軍軍部との強い結び付きのあった大日本炭鉱は「戦時下の輸送力増強」の名目で軍部から内務省(当時)に働きかけ、軌道敷設の認可をもらったと言う。

 

 

 

 

 

小塙橋を渡った勿来軌道は窪田市街地に向けて進む。

 

今でこそこの様に道路の両脇に商店や住宅が建ち並んでいるが、勿来軌道が存在した当時は

四沢地区と窪田地区の間には田園地帯が広がっていた。

 

石城郡内に窪田あり、と言われただけあり、江戸の昔から窪田市街地を抜ける道路は充分な幅があったようだ。

 

勿来軌道はその往来のど真ん中に敷設されていた。

 

 

 

 

 

常磐交通「高校前」バス停。

 

現在、勿来高校のあるこの場所辺りから窪田の町並みは始まっていたようだ。

 

勿来駅前から勿来軌道と並走を続けてきた大日本炭鉱勿来鉱専用軌道(初代)は画像の地点辺りで左にブレイクして蛭田川に沿うようにして出蔵地区の勿来鉱へ向かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

旧289号は窪田市街で県道10号 いわき日立線と合流する。

 

数々の鉄道跡と交差する県道10号であるが、勿来軌道も例外ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日曜日とは言え、主要県道の交通量は多い。

 

付近には目立った観光地も無く、車はただ通り過ぎるだけ。

 

典型的な郊外の商店街の雰囲気だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重厚な瓦屋根の家が並ぶ通りの向こうに一際大きな鳥居と神社が見える。

 

国魂神社だ。

 

国魂神社は勿来、窪田の要として今も鎮座している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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