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磐城軌道(日本鉄道事業) 2
〜忘れられた石碑〜
内郷駅前から数百m程進んだ国道6号線「一の坪」交差点。
この交差点は県道66号 小名浜小野線が分岐する要衝である。
国宝 白水阿弥陀堂はこの交差点を右折するのが便利である。
この交差点を境にして辺りの雰囲気が変化する。
小高い山に挟まれた谷筋を常磐線と国道6号線が進んでいく。
山の影になった6号線は薄暗く、鬱蒼とした感じがする。
古の国道の雰囲気を感じさせてくれる区間である。
ふと西側の山を見ると煙突がある。
専用鉄道 高倉線
で紹介した常磐炭鉱 綴坑の大煙突である。
建造以来100年を経たこの煙突はいつまで見ることが出来るのであろうか。
国道がやや急な左カーブを繰り出すこの付近に「藤棚」停車場が存在した。
藤棚停車場は三社場停車場と同じように軌道利用者の利便性を図る為に大正15(1926)年に設置された。
またこれから先、終点湯本(天王崎)までの区間はかつて「白水軽便鉄道」(明治27年〜30年)が通っていた区間でもある。
磐城軌道は白水軽便鉄道の軌道敷を改良して敷設工事が成されたと言う。
軽便軌道が通じていた115年前、この付近はどのような景色であったのあろうか。
車では何度と無く通り過ぎた国道6号線ではあるが、自転車でこの区間を通るのは中々きついものがある。
だらだらと上って行く道。この先の景色を知っているだけに力が入らない。
白水軽便鉄道は僅か3年の営業期間であったが、明治30年頃、ほんの僅かの期間だけ蒸気機関車による運送が行なわれたと記録されている。資料「常磐地方の鉱山鉄道」によるとアメリカ ボールドウィン社製のC型蒸気機関車だったようだ。
浜通りに始めて蒸気機関車の咆哮を轟かせた白水軽便鉄道は永く記憶されてしかるべき存在であろう。
常磐交通「掘坂」(ほっさか)バス停。
このバス停が見えると登りはもうすぐ終わりだ。
このバス停の付近に磐城軌道にまつわる唯一の遺構が存在すると言う。
探してみる。
バス停の少し手前、コンクリートの落石防止柵と歩道の手すりが切り替わる僅かな隙間。
誰からも忘れ去られたような所に一つ石碑がポツンと立っていた。
道路を横断し石碑に接近する。
「馬頭観世音」と石碑には記されている。
可哀想な立地にありながら、馬頭尊の前には少しばかりの食べ物と新しい菊の花が供えられていた。
恐らく地域の方が元日あたりに供えたものだろう。
なんだかホッとした気持ちになった。
左側に「大正六年三月建立」、右側に「軌道株式会社」と彫られているのが分かる。
大正6(1917)年は、大正8(1919)年まで続く好景気の最中であり、磐城軌道も好調な営業成績を残している。
馬頭尊建立から僅か5年余りで会社が消滅(経営譲渡)するとは磐城軌道の経営陣も想像しなかったに違いない。
いつの頃からか割れて欠けてしまった馬頭尊の右上部分は、寄り添うように立て掛けられていた。
「磐城」と読める。
本体と合わせて「磐城軌道株式会社」。
磐城軌道が存在した事を後の人に伝える唯一の遺構である。
末永くこの地に馬頭尊が残される事を願い、手を合わせ一礼した。
堀坂バス停をピークにして国道は下り坂に転じる。
旧内郷村(町)から旧湯本村(町)へ変わる昔ながらの町境の風景でもある。
坂を下り、湯本の町並みが目に入る少し手前。
画像のカーブ付近に「傾城」(けいせい)停車場が存在した。
傾城停車場の付近には入山採炭(→常磐炭鉱)第四坑が稼働していた。
現在の湯本第二小学校の周辺に炭鉱施設が作られ、湯本駅から炭鉱まで短い
専用鉄道 日渡線
(明治42年〜昭和42年)が敷設されていた。
傾城停車場から少し進み、湯本川と国道が寄り添うこの画像の付近。
ここに磐城軌道の終点「湯本」があったと言う。
終点から東側を見ると閑散とした風景が拡がる。
西側もご覧の通りでとても湯本の街中とは呼び難い。
常磐線
現在の風景からでは疑問だけが残る。
左の画像は昭和20年代後半頃の磐城軌道 湯本終点付近の写真である。
磐城軌道が営業を開始した大正時代前半は好景気の勢いに乗り、入山採炭は第四坑に続いて第五坑の開発を急いでいた時期である。
大正後期〜昭和初期の湯本終点付近は数多くの建物があったのだろう。24時間人通りの絶えない場所だったのだろうか。
炭鉱のヤマは木が育ち「山」に変わり、炭鉱があった頃の面影はほとんど残っていない。
目の前の湯本川には炭鉱から排出された熱水が流され、もうもうと湯気を上げていたと言う。
湯本川は今日も穏やかだ。鯉がのんびりと泳いでいた。
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