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常磐炭鉱専用鉄道 高倉線

〜白水と石炭と鉄道〜

 

 

 

常磐炭鉱専用鉄道 高倉線の基礎知識

開設 明治30(1897)年11月10日

廃止 昭和36(1961)年11月9日

綴(内郷)駅〜内郷村(いわき市内郷)白水字高倉 

4.02km

 

(参考)常磐炭鉱専用鉄道 綴坑線の基礎知識

開設 明治42(1909)年:三星炭鉱専用鉄道として

廃止 昭和47(1972)年11月1日

綴駅〜いわき市内郷白水字大神田

500m

 

(参考)白水軽便鉄道の基礎知識

開設 明治27(1894)年11月10日

廃止 明治30(1897)年11月

内郷村白水字川平〜湯本村(いわき市湯本)湯本字天王崎

軌間 762mm 全長6.08km

 

 

常磐炭田の功労者1:片寄平蔵

南北に長く広がる常磐炭田。その常磐炭田の中でも最初に石炭が発見されたのは江戸時代末期、

白水村(現 いわき市内郷白水)の弥勒沢付近であったと伝えられている。

石炭の発見者として現在において語り継がれる人物が片寄 平蔵である。

片寄 平蔵:文化10(1813)年2月15日〜万延元(1860)年8月3日

片寄氏は石炭発見のみならず、商業として石炭の販売を手掛け、幕府より「石炭御用」の任を受けた。

片寄氏は常磐炭田初期の功労者である。

 

 

常磐炭田の功労者2:白井遠平

片寄氏の石炭発見から時は流れて明治20年代。それまで大資本の投下による大規模採炭の行なわれていなかった

常磐炭田にもその波が訪れようとしていた。

明治17(1884)年、財界の大物 浅野総一郎、渋沢栄一氏などの出資を得て設立された

「磐城炭鉱社」(後の磐城炭鉱)が大手炭鉱による大規模採炭のはじめと言えるだろう。

 

磐城炭鉱が創設されて間もない頃から社の幹部として参画していた

白井遠平:弘化3(1846)年〜昭和2(1927)年

は、石炭輸送における鉄道の先進性を見抜き、 磐城炭鉱軌道 用鉄道 小野田線 の礎を設えた。

 

明治28(1895)年、白水川(新川)流域で大規模炭鉱開発を目論んでいた川崎八右衛門氏などに請われ、

入山採炭(株)の取締役社長に就いた白井氏は白水軽便鉄道や専用鉄道 高倉線の敷設に尽力した。

 

明治37(1904)年、入山採炭を辞した白井氏は

好間村(いわき市好間)の籬(まがき)付近に鉱区を開き、好間炭鉱(株)を設立した。

白井氏はこれまで在籍した炭鉱の例に漏れず、炭鉱から最寄り駅までの鉄道を敷設した。

すなわち「好間炭鉱専用軌道」と「。 好間炭鉱専用鉄道(→古河好間炭鉱専用鉄道) 」である。

 

3つの専用鉄道の(小野田線、高倉線、古河好間)敷設に尽力した白井遠平氏も常磐炭田の開発を語る際に

忘れべからざる重要人物と言えよう。

 

 

高倉線の沿線と歴史

明治27(1894)年、磐城炭鉱を辞した白井氏によって敷設された白水軽便鉄道は内郷村白水字川平(かわだいら)

から隣の湯本村天王崎まで石炭を運び、天王崎にて磐城炭鉱軌道に接続して小名浜港まで馬車により運搬された。

 

明治30(1897)年11月、専用鉄道 高倉線の開通によって、白水軽便鉄道は3年余りの短い歴史を閉じた。

(白水軽便鉄道 藤棚〜天王崎間は後に磐城軌道(日本鉄道事業)として復活する)

 

高倉線の開通は沿線の石炭開発を促進した。

入山採炭川平坑を中心として沿線には中小炭鉱が設立された。

中小炭鉱は線路利用料を支払い、採掘した石炭を鉄道によって搬出することができたのだ。

 

戦後、昭和30年台に入り常磐炭鉱(株)(入山採炭は昭和19年に磐城炭鉱と合併した)の川平坑からの撤退が決まり、

高倉線は昭和36(1961)年11月、60年余りにわたる歴史を閉じた。

 

 

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