このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

磐城炭鉱軌道

〜始まりの鉄道〜

 

 

 

磐城炭鉱軌道の基礎知識(小野田坑〜湯本停車場)

開設 明治20(1887)年9月

廃止 昭和15(1940)年頃

磐崎村(現いわき市常磐上湯長谷町)上湯長谷力石〜岩崎村湯本(現いわき市湯本)天王崎

全長 3.15km

軌間 762mm

 

 

磐城地方始めての鉄道

明治17(1884)年、岩崎村上湯長谷小野田において、浅野総一郎(富山出身、浅野セメントなど浅野財閥の総帥)、渋沢栄一(埼玉県出身、第一国立銀行などの創始者)

山崎藤太郎(好間村出身)等の参加により「磐城炭鉱社」(後の磐城炭鉱)が設立された。

 

当時、磐城地方にはまだ鉄道は存在せず、石炭は小名浜港から船積みされて京阪地方に送られていた。

山元から港までは馬の背に石炭俵を乗せて運んでいた。

そのような輸送の革新を図る為、磐城炭鉱社は会社設立の1ヵ月後、小野田坑〜小名浜港間の鉄道敷設計画を策定した。

 

磐城炭鉱社は軌道沿線となる3市町村(菊田、磐崎、岩城)と道路使用契約を取り交わした。

また同時に軌道が敷設される道路を3間(6.4m)に拡げる工事も施工された。工事代の3分の2は磐城炭鉱社が負担した。

明治19(1886)年の敷設命令に基き工事が進められ、翌明治20年9月、

小野田〜関船〜水野谷〜野田〜住吉〜大原〜岡小名〜小名浜港桟橋間 12kmの「磐城炭鉱軌道」が開通した。

 

 

磐城炭鉱鉄道がもたらしたもの

磐城炭鉱軌道の開通により、磐城炭鉱社の経営も好転した。鉄道敷設や、炭鉱内の設備投資などによって明治17年度から赤字続きだった磐城炭鉱社は

石炭輸送の飛躍的な増加により、明治22(1889)年には黒字に転換した。

磐城炭鉱軌道の開通とその後の躍進は磐城地方の活性化も呼び起こし、明治中期以降、磐城地方から多数の鉄道敷設計画が申請されるに至った。

 

 

専用鉄道 小野田線の開通

炭鉱軌道が開通し湯本〜小名浜間の物資の流通も盛んになったが、肝心の石炭輸送には難題が残っていた。

 

石炭の積み出し港である小名浜港は当時から遠浅の海岸であり、磐城炭鉱社も港からせり出す木製の桟橋(70〜80m)を作って対応したのだが、

桟橋の長さだけでは石炭運搬船が接岸することが出来ず、「屈強なる男衆が胸まで没し」運搬船に石炭を積み込んだと言う。

そのような状況であるから、時化などで港が荒れた時には石炭の輸送が滞り、港には出荷待ちの石炭が山積みされたと言う。

 

一方、明治初期より飛躍的にそのネットワークを広げてきた日本の鉄道網は明治20年代後期になり、福島県浜通りに敷設計画が持ち上がった。

当時の石城郡内では関本(現 大津港)駅から先のルート選定において地元有力者や政治家を巻き込んだ一大騒動が起こった。

 

紆余曲折の末、磐城線(常磐線)は現在の湯本、内郷、いわき(平)、四ツ倉と繋ぐルートに決定した。

(ルートから外れた土地の悲哀は 大日本炭鉱勿来鉱専用鉄道 江名鉄道 の項も参照して頂きたい)

 

湯本駅は小野田坑から僅か4km弱というこれ以上無い好条件の土地に設置されることになった。

磐城炭鉱社はすぐさま小野田坑から湯本駅までの専用鉄道の開設を申請した。

専用鉄道 小野田線は常磐線開通直後の明治30(1897)年2月22日に開通した。

 

 

専用鉄道開通後の磐城炭鉱軌道

小野田線の開通によってその存在理由の大半を失ったかに思われた磐城炭鉱軌道であるが、軌道はそれから先、昭和10年代まで生き延びた。

 

小野田坑〜湯本(停車場)間は石炭以外の物資、人員輸送に用いられた。形態こそ違うが、 内郷電車線 と似たような存在であったのだろう。

湯本〜小名浜港間はそれまでの石炭輸送中心の輸送形態から転換し旅客鉄道として転進をはかった。

馬車(トテ馬車)と呼ばれた磐城炭鉱軌道は昭和19(1944)年頃まで活躍したという。

 

一方、残された小野田坑〜湯本停車場間は昭和15(1940)年頃、戦時中の物資欠乏などの理由により、軌道のレールを炭鉱内の坑道に転用することになり、その姿をひっそりと消した。

 

 

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