このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

常磐炭鉱専用鉄道 高倉線 3

〜阿弥陀堂と不動山隧道〜

 

 

 

白水郵便局から少し先に進むと、行く手にトンネルが見えてきた。

 

専用鉄道時代は「不動山隧道」と呼ばれていた。

 

右手に行く道は「国宝 白水阿弥陀堂」に通じる道だ。

 

今回は阿弥陀堂に寄り道してみる。

 

 

 

 

 

 

 

平日の午前中ながら、観光客の姿は多い。流石は国宝である。

 

白水軽便鉄道(明治27〜30)の手によって不動山を貫く不動山隧道が穿たれるまで、入山(不動山の向こう側)と白水長槻(手前側)間の往来はこの阿弥陀堂の手前を通るように大きく迂回せざるを得なかった。

 

白水軽便鉄道が敷設される以前、石炭の運搬を馬の背に頼っていた時代もこの道が使われたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

これが 国宝 白水阿弥陀堂である。

 

1160年に建立。明治35(1902)年 特別保護建造物に指定。昭和27(1952)年に国宝に指定された。

 

現在のように周辺が整備され、浄土庭園としての景観が完成したのは昭和52(1977)年のことである。

 

拝観料は400円である。

 

 

 

 

 

阿弥陀堂の周りを苑池が囲み、周囲の景色が写り込む様は一枚の絵画を見るようである。

 

11月の紅葉の季節は特に素晴らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

話を高倉線に戻す。

 

これが現在の不動山トンネルである。

 

初代(白水軽便鉄道)の隧道が明治28(1895)年に開通したと思われる。

二代目(専用鉄道時代)は明治30(1897)年の開通とされる。

昭和36(1961)年の専用鉄道廃止後、隧道は暫く鉄道時代のまま残されていたが、昭和44(1969)年に車道化工事が行われた。

 

不動山隧道時代の全長は145.1mと記録されている。

 

 

 

 

トンネルの中は大変つまらない。

 

江名鉄道の転用されたトンネルもそうなのだが、鉄道の匂いが全く感じられないのがつまらない。

 

そう考えると 専用鉄道 小野田線の宝海隧道 は貴重な存在である。

鉄道断面のまま、未だに人車を通す。石炭に携わった人達の意思が感じられる。

 

断面形状と立地場所のせいだろうか、トンネル内は非常に反響が大きい。

 

 

 

 

 

 

トンネルを抜け、入山地区に入った。

 

このトンネルには扁額はあるが、銘板が無い。いつ車道として竣功されたのか?工法は?

全長は?何のインフォメーションも得られない。

 

坑口も両脇の補強石積みも車道化の際に作り変えられたので、鉄道時代の遺構は一切無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

先程の阿弥陀堂の前を通った道は白水川に沿い、大きく迂回して不動山隧道の直前に躍り出る。

資料を見る限り、専用鉄道時代には踏み切りは存在していなかったようだ。

恐らく蒸気機関車と人や、車両との出会い頭の事故が頻発していたに違いない。

 

みろく橋は専用鉄道時代、鉄橋だった。現在はコンクリート橋に架け替えられている。

みろく橋のたもとには「運輸詰所」が設けられ、この先の引込線のポイント切り替えの他に

「隧道内の通行注意」も喚起する役割を担っていた。

 

列車が近づくと詰所の軒先に赤旗が掲げられ、隧道内の通行の注意を促すのである。

 

 

 

 

 

航空写真を見ると、鉄道開通以前の住民が街に出る為にどれほどの迂回を強いられていたのかが理解できる。

 

新川(白水川)に沿い、大きくコの字型に迂回する江戸時代からの道、それに対し山中を貫く不動山隧道。

白水軽便鉄道開通後、入山の住民はごく普通に生活道路として不動山隧道をショートカットとして使用したのは無理からぬ事だろう。衝突事故や接触事故を避ける為に運輸詰所が設けられたのだ。

今ならば考えられない事だ。いくら近道でも鉄道敷に立ち入ることなど出来ない。

 

運輸詰所の赤旗を無視して隧道内に進入し、背中の荷物が列車に巻き込まれた人、隧道に設置されていた待避坑に逃げ込みきれずに列車に巻き込まれた人…そんな悲惨な事故があったとも伝えられる。

 

 

 

 

新川(白水川)沿いに出来た僅かな平地が入山地区だ。江戸時代、この地を統治していた湯長谷藩は藩以外の者がこの入山地区に立ち入る事を厳しく制限していたと言う。

 

画像右側の斜面には「入山採炭第三坑」の石炭積込所が存在していた。

本線から右手に引込線が分岐していたようだ。

 

高倉線の本線は現在の道路の左側あたりに併用軌道のごとく敷設されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

積込所が存在した場所付近に、一本の木橋が架けられていた。

 

名前は「さんこうしたばし」。漢字で書くと「三坑下橋」。

 

入山採炭第三坑が開削(明治37年)されて以来、新川の対岸の地区は栄え、「三坑下」地区と

呼ばれるようになった。

 

三坑下地区の中央と対岸を結ぶ好位置に三坑下橋は架けられた。

 

 

 

 

 

 

三坑下橋の全体を見る。

 

これほどの立派な木橋にはそうそうお目に掛かれないだろう。

 

資料では明治時代からこの付近に木橋が架けられているのが確認できる。

 

その時代によって多少形や幅が変わって見えるのが面白い。

 

幾度もの代替わりを経て、今日も三坑下橋は存在し続ける。

 

 

 

 

 

三坑下橋を渡り、対岸に出る。

 

今でこそ山間の長閑な一地区とした風情であるが、入山採炭第三坑華やかなりし頃、

炭鉱住宅はもとより、商店や小劇場、果ては遊郭まで存在したと言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三坑下橋から少し先には「片寄平蔵頌徳碑」が建てられている。

 

昭和30(1955)年、片寄平蔵氏がここ弥勒沢で石炭を発見してから100年が経った事を記念し、阿弥陀堂境内に建立された。

 

昭和52(1977)年に石炭発見の地に近い弥勒沢下の道沿いの現在の位置に移設された。

 

最近 碑付近の整備が進み、更に碑が映えるようになった。

 

常磐炭田に興味のある方は訪れてみてはいかがだろうか。

 

 

 

 

碑の少し先には「みろく沢炭鉱資料館」の入り口がある。

 

炭鉱資料館はここ内郷で鉱夫を20年勤めた渡辺 為雄氏が自身で収集された炭鉱にまつわる資料を展示するために平成3(1991)年に始められたものである。

 

資料館には当時の道具などが展示されている。時折渡辺氏自身より資料の解説を頂ける。

 

こちらも興味のある方は是非訪れていただきたい。

 

 

 

 

 

 

高倉線は新川に沿い、勾配を増しながら入山地区の奥へと進んでいく。

 

この先には高倉線最強の遺構が人知れず眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

常磐炭鉱専用鉄道 高倉線4

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