このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
常磐炭鉱専用鉄道 高倉線 4
〜滑津隧道〜
三坑下地区を抜けた専用鉄道は高度を少しづつ稼ぎながら西進する。
画像付近に「三星炭鉱(矢乃蔵炭鉱)栃窪坑」の石炭積込所への分岐線が存在したと思われるのだが、今現在では住宅が建ち並び、詳しい場所は判然としなかった。
不動山隧道を抜けてから半ば併用軌道のように敷設されていた高倉線であるが、画像の地点で突如として直進し、市道を横切り画像の矢印の先へと突っ込んでいく。
突然の専用鉄道の裏切りに市道は成す術も無い。恐らく専用鉄道は直進する事により蒸気機関車の馬力のロスを防ぎたかったのだろう。
自動車が普及していない時代はさほどの危険も無かったのだろうが、自動車が普及し始めた頃からこの地点では列車との接触事故が頻発したと言う。
矢印の先には高倉線最強の遺構がある。が…
「ワン」
駄目ですかそうですか。
簡単には見せていただけませんか。
仕方が無い、裏手から行くことにしよう。
2枚上の画像の裏手。
…これでは分からない。11月も下旬になれば周囲の木の葉も落ち、遺構の姿が道路からも判別できると思ったのだが…
前回も来たので場所は分かっている。矢印の場所だ。
近づいてみよう。
くわっっ!
余計に分からなくなった。
ただ、山肌の向こうに暗闇と言うシチュエーションは通常では有り得ない。
暗闇は雑木によって巧みに隠蔽され、予備知識なしにこの暗闇に気付く事は困難であろう。
更に近づく。
こうして見ると暗闇の正体が隧道であることがおぼろげながら分かると思う。
これが専用鉄道 高倉線の最強遺構「滑津隧道」(なめつずいどう)である。
西側(川平側)の坑口はご覧のように煉瓦の短手側を三重に重ねて形作られている。
隧道の上部には煉瓦が見えない。恐らく廃止後流出してしまったのだろう。
現在ではコンクリート捲き立て部分のみが残るが、現在の感覚では強度的に薄過ぎるような気がする。
坑口周辺を丹念に探索したのだが、扁額や銘板の類は発見できなかった。
…ここで引き返せば前回のレポートと全く変わらないので、今回は内部に潜入する事にした。
私が廃隧道に入るのは2度目だが、1度目の「
大笹隧道
」とは坑口の大きさが比較にならない程
大きいので、圧迫感や得体の知れない恐怖感は感じられない。
いざ突入。
これが滑津隧道の内部である。全長は資料「常磐地方の鉱山鉄道」によると62mと記録されている。
画像から隧道が僅かに左カーブを描いているのがお分かり頂けよう。
坑口から数mの間は赤煉瓦により緻密に捲き立てられている。煉瓦は崩落している部分も無く状態は良いようだ。
専用鉄道 小野田線の宝海隧道
と比べると僅かに断面が小さいような気もするが、昭和以降常磐炭田内の専用鉄道(専用側線)の主力機であったC50や8620型ならば通過する事ができたのであろう。
道床を見てみる。
バラストや枕木の類は見当たらない。勿論レールも見当たらない。
現在の地面は硬く締まって乾燥しており、歩くのに難渋するような事は無かった。
上の画像からも分かる通り、隧道の坑口から続いていた煉瓦積みは突如として断ち切られ、画像のようにモルタルが塗り込められた断面に変化する。
この部分の煉瓦は崩れ落ちてしまったのだろうか?それとも煉瓦の崩落防止の為にモルタルを塗り込んだのであろうか。
更に不可解なのはこのモルタル施工も僅か数mしか続かず、隧道断面が一段絞り込まれた部分で断ち切られている事だ。
断面が絞り込まれている理由は全く分からない。或いはこの部分が専用鉄道開通当時の滑津隧道の坑口だったのかも知れない。
縮小された断面から再度煉瓦積みの捲き立てが復活する。
何ゆえこのような構造になっているのか全く理解できない。坑口付近の煉瓦積みとは連続していなかったのか?モルタル部分は現役当時どのようになっていたのか?謎が謎を呼ぶ。
更に不可解は続く。画像でもご覧の通りこの煉瓦部分もまた数mで終わっている。
その先は見えてはいるのだが…これをどう説明すべきか…
何故に素掘りになるのか…一体全体現役当時はどうなっていたのか?
相互リンク「
街道Web
」のTUKA氏もこの隧道内部に潜入し、この部分を見て
「まさかまさかの素掘りである」とコメントしている。私も同感だ。
762mmや509mmの軽便規格の鉄道なら素掘り隧道は良くある事だが、これほど大きな断面の素掘り隧道など見たことが無い。まして現存しているともなればその異様な光景が際立つ。
小名浜の
江名鉄道
に穿たれた隧道は「予算不足」と言う理由でほぼ全てが素掘り隧道で有ったと言う。
しかし、この滑津隧道について考えれば素掘りである必然性など無いと思うのだが…
素掘り部分を進んでいったのだが、画像の地点で引き返すことにした。
東側の坑口付近には木材が積み立てられ、農機具のような物や小さい小屋の残材も載せられていた。
無理して進んでも得られる物は少なそうなので私の滑津隧道の探索はここまでとする。
尚、前出のTUKA氏「街道Web」レポートによれば、素掘りの先にまた煉瓦が有り、また素掘りに戻り、最後には煉瓦の東坑口になる…との事。
煉瓦-モルタル-煉瓦-素掘り-煉瓦-素掘り-煉瓦…と隧道内で七変化を見せる世にも稀な廃隧道である。
引き返しながら隧道を見る。
煉瓦が黒ずんでいるのは蒸気機関車の煤だろうか。
隧道を抜けた先にある川平坑分岐点へ向けて最後の一踏ん張りとばかりに力行していたのだろう。
西坑口にはかつて坑口を塞いでいたであろう木材とビニールの構造物が役目を終えて煉瓦にもたれかかっていた。
専用鉄道廃止後、暫くの間西坑口は塞がれていたのだろう。隧道内部の保存状態が良いのもその為であろう。
隧道から出た専用鉄道はまたしても市道を矢印のように横切り、道路左側に戻る。
当然の事であるが、こちらの交差部分でも車両と列車の事故が頻発したと言う。
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