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〜平安期以前の甕ノ泊と道口の津〜

『陶焼の流れを継ぐ亀山焼』・・
古代では水や酒或は穀物等を入れて運搬や貯蔵に使用されたという大がめ(甕)は生活の必需品
であり、鎌倉時代から室町時代前半にかけての約200年間、亀山付近一帯で須恵焼物として大量に
生産されていたと伝えられている。
もともと5世紀中頃の雄略天皇のとき、朝鮮半島から渡来した人々によって,新技術のもとで硬質
の土器や瓦などがさかんに作られるようになり、8世紀の奈良時代には陶地区で盛んに作られて、
亀山の湊から積み出されていたという。
9世紀以降の平安時代には、土と薪を求めて亀山の地
に移って陶器作りの伝統を引き継ぎながら、大がめ・壷・
鉢・土鍋などの日常生活用品を製作して、瀬戸内海沿岸
の各地へ送り出していたという。

そしてこの焼物がいつしか「亀山焼」と呼ばれるようになり.
平安時代末から鎌倉時代(12世紀中頃〜14世紀中頃)
にかけて生産の最盛期を迎え、その後室町時代中頃
(15世紀中頃)には姿を消したといわれる。

亀山焼の窯址群は神前神社の境内及びその後方畑地の
地表下に今でも残っており、またその周辺一帯では「かめ」
の破片がおびただしく散乱累積していると伝えられている。
「かめ」の産地としての「甕山」から転じて「亀山」となったという。
また、この亀山から道口へかけての入り江をいつしか「甕(もたい)ノ泊」と呼ぶようになり、物資輸送の船が
多数出入りし、隆盛をきわめ世にその名を知られていたということである。

『記録にみえる甕ノ泊』・・

さて「甕ノ泊」についてはくわしい資料に乏しいが、少なくとも4〜5世紀ごろから江戸時代
初期の17世紀中頃までの1300年以上もの間、今の道越畑ノ前付近から道口・亀山・爪崎に
かけての山麓が当時の海岸線であったと考えられ、「甕の泊」とはこの湾曲した海岸線一帯と
その沖合が潮待ち風待ちや甕の積み出し等の天然の港としての機能を果たしていたと想像でき、
古い歌集の中にも幾つかの歌に詠まれている。
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はこび積む甕ノ泊船出して 漕げどつきせぬ貢物かな
  ---藤原家隆 永承三年(1048) 大甞会---
貢物はこぶ千船もこぎ出よ もたいの泊しほもかないぬ
  ---資實卿 建久九年(1198)  万代集---
ころ舟によふ人ありと聞きつるは 甕に泊るけにやあるらん
  ---太宰大弐高遠延慶三年(1310) 夫木抄---
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平安時代中期の11世紀ごろ以降には海上交通の寄航要地として繁栄していたと考えられる。
また時代がずっと下がって、江戸時代の始め元和2年(1616)岡田藩主伊東長實は大阪より
海路を船によってこの港に上陸し、陶・箭田を経由して下道郡岡田村の任地へ向かった、という
記録も残っている。

<道口ノ津>

さらに、亀山の西にある「道口」も古くから交通の
中継地点として重要な役割を果たしていた。

古い記録にも『道口ノ津』という名称もみられ、
山陽道の「道の口」がつまって「道口」となったもの
と想像している。

今でも玉島変電所脇の道口川土手に沿って、三本松・
県立玉島寮・富田小学校・玉島北農協本所と北上して
谷をさかのぼり、富峠(今は富トンネルとなっている)を
越えて矢掛町横谷に出る。
そこから三谷橋または中村橋で「川辺・箭田・矢掛」と
小田川に沿って東西に走る「旧山陽道」と出会うことが
出来る。

鎌倉時代蒙古襲来のころ(十三世紀末)の人、京都智恩院の僧釈蓮が道口ノ津に
宿泊した時の詩に当時の道口の様子がうかがえる。

本朝無頭詩巻七・・・ 釈蓮禅師筑紫より上りたる時、道口ノ津に宿り見る所を賦(うた)う。
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山重江複客遊淹  景趣蕭疎不耐胆
岫幌晴望当鳥路  沙村秋夏富魚塩
月随帰棹千程遠  煙起行厨一穂繊
身与浮雲無定所  自哀自咲涙相霑
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『山々が重なり合い谷は様々に入りこんだこの道口の港に来て泊る。村の眺めは家も
まばらで大変淋しい極みだが、朝日のさす山の頂から海辺まで一直線に視界が開ける。
砂浜の村では四季をとわず海の幸に恵まれて豊かである。月影の中を海路はるばる旅して
来た舟は、それぞれに夕げの煙を細々と立ち上らせ長途の疲れをいやす。それにひきかえて、
我身は空行く雲の如くに所定めず身のはかなさに涙を流すことしきりである』
甕ノ泊・道口ノ津ともに古くから山陽道と瀬戸内海航路との接点として開かれた海港と考えられ、
またこの沖合一帯の海を「甕ノ海」と呼んでいたものと想像される。



水道紀功碑
   玉島に水道を・・・初めて水道が引かれた日



  

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