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〜吉備の中海の変化をみる〜

【黒日売(くろひめ)の時代の吉備】
仁徳天皇は吉備の海部の直(あまべのあたい)のむすめ黒日売が黒髪豊かに大変美しい
と聞かれて、吉備国からわざわざ宮中に召し寄せてお使いになった。ところが黒日売は
皇后の石之日売命(いわのひめのみこと)がたいそう嫉妬深いのを恐れて、故郷の吉備国
へ逃げ帰った。黒日売を恋しく思う天皇は淡路島を見に行きたいと皇后をだまして吉備国
へ渡って行かれた・・という伝説は有名である。
吉備路風土記の丘県立自然公園の中にある『こうもり塚』
と呼ばれている古墳が、黒日売の墓と伝えられているが、
古代,強力な勢力を持っていた吉備氏は、鉄資源の開発や
土器・織物などの生産技術とその生産力、さらには強大な
兵力を持つなど、4世紀ごろの大和政権にとって対朝鮮軍事
経営の大きな基盤として、吉備氏はなくてはならない存在で
あったと想像される。

そして、黒日売伝説に登場する吉備の海部は海人として、
港湾管理や軍兵・物資などの輸送にあたったものと考えられ、
その根拠地は邑久郡南部地方、とくに牛窓周辺と見られている。

また、古代の航路は播磨灘から邑久の海岸沿いに西下し、今の児島半島(当時は島)の
北側の海域を通って水島灘へ出て備後の鞆へと向かうコースであったようで,吉備の海岸
沿いは当時の主航路にあたり、大和と九州との間の要衝の地であったといえる。

5世紀後半、皇位継承争いにかかわる星川皇子の乱では、吉備氏一族は軍船40隻を仕立て
て星川皇子の援軍として難波に急行しているが、40隻もの軍船と兵力がにわかに用意できる
ほどの強大な勢力を保持していたことが、これによってもうかがえる。

甕ノ海もまたこの吉備の中海の西端に位置するわけであり、
吉備の中海の変遷とともに甕ノ海の移り変わりも考えられる
べきものであると思われる。

黒日売物語にかかわる四世紀中ごろの吉備の中海は、三大
河川による沖積作用によって陸地化が次第に南進し、現在の
山陽本線沿いあたりまで陸地となり、中海はかなり狭められた
と想像される。(左図)

次に示す紀元前3世紀ごろの図と比べると、三大河川の沖積に
よって、既に長船・岡山・総社あたりが陸地化されていることが判る。
とにもかくにも3世紀から5世紀にかけて、大和政権の確立に陰の力となった吉備氏一族の
地盤が、現在の岡山平野の周辺地域であった。それではその時代を遡ること今から2300年
〜1500年前の昔はどんな様子であったのだろうか。
【縄文貝塚の分布と海岸線】
考古学の立場からでは、岡山県と広島県東部にかけてのいわゆる「吉備の南部地帯」は
西日本でも有数の縄文貝塚の密集地として知られており、その縄文貝塚を連ねていけば
縄文時代(紀元前5000年〜前300年)の海岸線の大要が浮かぶといわれている。(下図)
図中の赤い点が主な貝塚の位置を示している。
高梁川では秦(はだ)・宍粟(しさわ)付近、旭川では
玉柏(たまがし)付近、吉井川では万富(まんとみ)付近
まで海が大きく入り込み、吉備高原の山麓を海岸線と
するおおきな中海があったと想像される。

そしてこの中海を『吉備の中海』または『吉備の穴海』
と呼んでいたようである。これから想像できるように岡山
平野は一面の海であったと考えられる。
また、貝塚に含まれている貝の種類から「吉備の中海の浅海化」の速度は、500年〜1000年と
いう長い単位で徐々に変化していったことが推定され、さらには、現在の瀬戸内海沿岸に点在する
砂洲も、その多くは縄文時代の古い海岸砂洲と全く同じレベルを保っているともいわれている。
【中世の中海】
11世紀初め〔平安時代中頃〕に、後一条天皇の即位に当たって善滋朝臣為政の詠んだ歌に
『わたつみものどけかりけり 君が代は 藤戸の島に波のあらねば』
〔天皇の即位でお目出たいから、ふだん波の荒い藤戸海峡でさえ、波もたたない〕
というのがある。
このことからも、当時から藤戸海峡は潮流のはげしいところとして知られており、船乗りに
とっては神経をとがらせる航路の難所であったことが想像される。

さらに約160余年後の治承4年〔1180〕9月・・・〔藤戸合戦の五年前〕、幼くして壇ノ浦の
水底深く沈んで行った安徳天皇の父・高倉上皇が平清盛とともに平家の氏神・安芸の厳島
神社へ参詣したときの紀行文には、『船は備前国児島の泊りにつかれた。そして仮御殿を
つくった』とも書かれている。
縄文末期から弥生後期にかけての数百年の間に、
吉井川、旭川、高梁川の三大河川及び中小河川に
よる沖積活動は現在の山陽本線沿いまで陸地を南下
拡大させたことは前述したとおりであるが、さらにその
後の数百年の間には、陸地の南下は一段と進み、
西大寺・早島を結ぶ線付近まで拡大し、中海は
「穴海(あなのうみ)」の状態に変化していった。
〔左図〕
当時のいろいろな記録から、平安時代の内海航路のコースとして考えられるのは、外海の
播磨灘から「牛窓」を経て「穴海」に入り、「福泊り」〔岡山市福泊〕・「平井湊」〔岡山市湊〕・
「荒野荘・鹿田荘」〔岡山市平井・岡町・鹿田・浜野一帯〕の沖合から「藤戸海峡」を抜けて
水島灘の外海へ出ていったようであり、吉備の穴海もまだ海としての機能を十分持っていた
といえる。

それが13世紀の鎌倉時代になると、穴海の浅海化が一段と進行して、大型の船の航行が
不可能となったことから、牛窓・日比〔玉野市〕下津井の外海コースが本航路にと変化して
いったようである。その後、さらに400年後の17世紀末〔江戸時代中期の初め〕には、
吉備の中海は「湾」と化し、西に広がる甕(もたい)の海も消滅して美田と化すこととなる。
【消えゆく甕ノ海・・近世から現代へ】
玉島湊が隆盛を極めたのは元禄年間(17世紀末〜18世紀初)といわれ、千石船の出入りで
賑わい、港内は千石船の帆柱が林立していたと伝えられている。
江戸時代の初期の17世紀の100年間に吉備の中海は、
東は西大寺付近から西は玉島にかけて、干潟の続く遠浅
の海と化し、之を干拓して人工的に陸地化する大工事が、
東部の吉井川及び旭川の河口周辺では備前岡山藩池田氏
によって進められ、吉備の穴海は児島湾と変化していった。

一方西部では、猛威をふるう高梁川の沖積活動はその河口
周辺の遠浅化の速度を早めて、干拓を容易にさせる条件も
揃い、江戸時代初期のわずか50年間ほどの間に、備中松山藩
水谷氏ならびに岡山藩池田氏によって現在の玉島平野を出現
させた。これによって「甕ノ海」は完全に姿を消すことになった
のである。
その後、江戸時代末期から明治にかけて、興除・藤田の大干拓地が造成されて、児島湾はいよいよ
せばめられ、昔日の海の姿を全く失うこととなる。
さらに高梁川河口では江戸時代末期以降の福田・連島沖、乙島新開などの干拓、そして昭和30年代
以降の水島沖の大規模埋立て造成工事などによって、県南の姿は大きく一変して現在に至ることと
なるのである。


万葉歌碑
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