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今から約800年前の昔、時は寿永2年(1183)閏10月1日、日蝕の日に現在の玉島港湾内で
行われた珍しい源平合戦の物語である。
木曾義仲勢によって京都を追われて北九州へ落ち延びた平家一族は、瀬戸内の水軍を何とか
味方に引き入れて体制を立直し、京都奪還を目指して東進を開始した。
平家方は平重衡、通盛、教経の三勇将が率いる兵船300余隻7000人が柏島沖に出陣して、
満所(政所か、玉島大橋西詰の小高い丘)付近に赤旗を並べ柵を設けて陣地を構える。
一方、木曾義仲は後白河法皇の策謀に利用されて平家追討の院宣のもとに山陽路を
西下した。
そしてその手始めとして、当時備中の南部一帯に
勢力を持っていた平家方の武将妹尾兼康、宗康
父子をその根拠地板倉(現岡山市吉備津神社西方)
で討取り、勢いに乗って先鋒隊の矢田判官義清、
海野十郎行広の二勇将が率いる兵船300余隻5000人
が乙島の渡里(わたり)付近に出陣し、城(玉島大橋東詰
の北方標高30mほどの台地)と呼ばれるところへ白旗を
押し立てて陣地を構えた。
両軍は、わずか500mほどの海峡(玉島大橋の下付近の
海域)・・・当時は「水島の途(瀬戸の意味)」と呼んでいた
ようである)をはさんで、時こそ来れと相対峙した。
初冬を迎えた寿永2年閏10月1日(新暦12月初め頃)、
夜明けとともに合戦の火蓋が切っておとされた。
初めのうちは勇猛をもって聞こえた木曾源氏が有利に見えたが、 なにしろ木曾の山中で育った軍団だけに騎馬戦にはめっぽう強い が、海戦には全くの不慣れとあって次第に旗色が悪くなった。 その上、山猿と悪口を言われる文盲が多かった木曾勢は、これから 起こる日蝕と言う奇異な自然現象を全く知らず、ただ恐れおののく だけで戦意を失い敗れることとなる。 |
かたや海戦に強く、しかも戦術に長けた平家軍の策略に 全くはまり込んだ木曾源氏が体制を立直そうとする頃、 にわかに西風が激しく吹き出して海はおおしけとなり、 海戦に慣れない源氏の兵士たちは船の上に立つことが 出来ない有様となる。 その上、真昼というのにあたり一面薄墨を流したような 暗闇となり、日蝕を知らない源氏の兵士たちは天変地異に すっかり恐れをなして大混乱・・・さらに不運にも矢田義清、 海野広行の二人の大将まで討取られた木曾源氏は全軍 総崩れとなり、平家軍の一方的な大勝利で終わった。 |
わずか数時間の海戦であったと言われているが、源平合戦史の中で平家が勝ったのは
この合戦だけであった。
命からがら京都へ逃げ帰った木曾源氏の軍団はごく僅かであったといわれ、その後、時を経ず
して源頼朝一族の率いる関東源氏によって滅ぼされることとなる。
また平家一門は翌寿永3年2月には「一ノ谷の合戦」に敗れ、さらにその翌年の元暦2年2月
には「屋島の合戦」に破れて下関へ走ることとなる。
水島というのはもともと「真水の涌き出る島」と言うことであったようである。
水島合戦にいわれる「水島」とは「柏島」か「乙島」か、今のところ決め手となるものは何一つ
ないが、古代から航海する船にとって清浄な真水は貴重な水資源であっただけに、「水の島」と
いうだけで広く知られ通用していたものと想像される。
昔から郷土史を研究する人たちによって様々な議論がたたかわされてきているが、備中府志と
いう書物に 「天の真井と言う名水あり、小島なれども水多し」 と記述されている柏島のことで
あるという説が強く、今でも柏島には五大泉(川) と呼ばれる水量豊かな五つの井戸が残って
おり、この内の二つは現代まで酒造りに使われたこともあるといわれる。
五大泉(川)とは、真川、不老川、大井川、天神川、浜の川と呼ばれていたと言い、最近に
なって玉島文化協会によって泉跡に石の標柱が建てられ保存に力を入れている。
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