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関が原の戦いが行われたのが慶長5年(1600)、これより約20年前の天正10年
(1582)には、豊臣秀吉が備中高松城を水攻めにして、城主清水宗治を降している。
そして、本能寺の変で織田信長が明智光秀に殺された時でもある。
ところで、天正12年(1584)、宇喜多秀家の家臣で庭瀬城主であった岡豊前守利勝の
計画で、その藩士千原九右衛門勝利が工事奉行として(千原九右衛門は備中高松城水攻
めの際、築堤工事に大きな役割を果たしたと伝えられている。)、酒津より下へ浜村(鶴形山
の南方)まで約2Kmの堤防を築いて倉敷を陸続きにした。この堤防を天正宇喜多土手とも
酒津土手とも呼んでいたようである。
したがって高梁川の西の流れは17世紀初めになると、西へ大きく曲がりこんで船穂・長尾
地域の沿岸にそって流れるようになり、船穂・長尾沖に大きな干潟を作り、甕の海をその東の方
から浅海化していったと想像できる。
年 代 | 地 名 |
天正12年(1584) | 酒津築堤(天正宇喜多土手) 倉敷村誕生 |
元和年間(1615〜1623) | 西酒津村・水江村 |
元和6年(1620) | 八王子村・安江村・四十瀬村・沖村・白楽市村・笹沖村 |
寛永年間(1624〜1643) | 中島村・西阿知村・西阿知新田村(当初茅野新田と呼ばれた) |
正保年間(1644〜1647) | 西原新田(当初西阿知新田) 船穂新田(正保2年) |
寛永・明暦 | 北面新田(寛永開 寛永6年1629) (明暦開 明暦2年1656) 大浦沖は寛文5年(1665)・天和元年(1681)に出来る。 |
延宝年間(1673〜1680) | 中島新田・片島新田 小溝周辺は承応3年(1654)ごろに出来たという。 |
寛永10年(1633) | 福井新田・吉岡新田 |
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