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〜高梁川河口の変化と倉敷村の誕生〜

関が原の戦いが行われたのが慶長5年(1600)、これより約20年前の天正10年
(1582)には、豊臣秀吉が備中高松城を水攻めにして、城主清水宗治を降している。
そして、本能寺の変で織田信長が明智光秀に殺された時でもある。



このころ(16世紀末)の高梁川は酒津山のところで、
西の流れは船穂又串付近で、東の流れは酒津付近で
それぞれ河口を作り、倉敷平野は当時深く入りこんだ海であった。

この海を古代には阿知海とも呼んでいたが、当時は
すでに高梁川が吐き出す土砂によって干潟が広く続く
海と化していて、阿知潟といわれるようになっていた。

ところで、天正12年(1584)、宇喜多秀家の家臣で庭瀬城主であった岡豊前守利勝の
計画で、その藩士千原九右衛門勝利が工事奉行として(千原九右衛門は備中高松城水攻
めの際、築堤工事に大きな役割を果たしたと伝えられている。)、酒津より下へ浜村(鶴形山
の南方)まで約2Kmの堤防を築いて倉敷を陸続きにした。この堤防を天正宇喜多土手とも
酒津土手とも呼んでいたようである。


文禄4年(1594)には検地を受け、鶴形山を中心に
その周辺の平地を『倉敷村』と命名されたという。(左図)
こうして16世紀末には、高梁側の本流は天正宇喜多土手
に沿って向山のふもとを流れて藤戸海峡から吉備の穴海へ
と流れこんでいたのではないかと考えられ、川は土砂を
堆積し干潟を作りながら次第に川筋を西へ移動させて
いったと想像している。

また、西の流れは酒津山に連なる南方の沖合に出来た
幾つもの三角州や中洲の間を気ままに流れ抜けながら、
干潟を次第に拡大していったものと考えられる。

ちょうどこのころ、宇喜多土手築堤の功績によって西阿知に
居住地を与えられた千原九右衛門の存在は、多分に川内
地方の干拓開発に大きな推進力となり影響を与えたことで
あろうと想像できる。

そして17世紀初めには、連島が西阿知地方と陸続きになり、
東西高梁川に抱かれた大きな中の島と化した。(左図)

したがって高梁川の西の流れは17世紀初めになると、西へ大きく曲がりこんで船穂・長尾
地域の沿岸にそって流れるようになり、船穂・長尾沖に大きな干潟を作り、甕の海をその東の方
から浅海化していったと想像できる。


【高梁川河口流域開発年表】
年   代
地        名
天正12年(1584)酒津築堤(天正宇喜多土手) 倉敷村誕生
元和年間(1615〜1623)西酒津村・水江村
元和6年(1620)八王子村・安江村・四十瀬村・沖村・白楽市村・笹沖村
寛永年間(1624〜1643)中島村・西阿知村・西阿知新田村(当初茅野新田と呼ばれた)
正保年間(1644〜1647)西原新田(当初西阿知新田) 船穂新田(正保2年)
寛永・明暦北面新田(寛永開 寛永6年1629) (明暦開 明暦2年1656)
大浦沖は寛文5年(1665)・天和元年(1681)に出来る。
延宝年間(1673〜1680)中島新田・片島新田 小溝周辺は承応3年(1654)ごろに出来たという。
寛永10年(1633)福井新田・吉岡新田


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