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〜備中松山藩と岡山藩〜

<水谷氏による干拓の始まり>
17世紀の初め頃になると、福島・七島など甕ノ海に点在する島々の周辺一帯は、潮が引くと
泥沼のような干潟が一面に広がる海と化していた。
その頃船穂・長尾村の領主であった備中松山藩主池田長幸は、この干潟に
目をつけ寛永元年(1627)長尾内新田10町歩(10ヘクタール)を干拓した。

その後,関東の常陸国から松山藩主として移封された水谷勝隆
(みずのやかつたか)は、土木・築城などに優れた才能を持ち、その手腕と技術を
生かして小手調べに寛永19年(1642)、前任者池田長幸がつくった新田の外側に
長尾外新田30町歩(30ヘクタール)を干拓した。

この干拓の成功に気を良くし自信を得た勝隆は、甕ノ海に広がる干潟に
飛び石のように点在している島々を巧みにつないで干拓していくことを考えて、
本格的な干拓事業にのり出したのである。


<玉島平野の出現>
松山藩主水谷勝隆は、長尾外新田の東部に広がる広大な干潟と、その先に出来た西高梁川の
自然堤防に目をつけ、これを東側の潮止め堤防に利用し、南側は福島を足がかりとして
土生(はぶ)付近まで約2.5Kmの潮止め堤防を作り、正保2年(1645)260町歩(260ヘクタール)を
干拓する大工事を完成させた・・・船穂新田。
引き続いて正保3年には、黒崎と柏島との間に
細長く横たわる海峡部の南北にそれぞれ堤防を
築いて勇崎内新田50町歩(50ヘクタール)を拓いた。

いよいよ本命の干拓大事業の推進にあたって、
水谷勝隆は明暦元年(1655)、同じく参勤交代で
江戸詰であった岡山藩主池田光政へ、「備中領の
内海100間ばかりせき止れば、備中領にも備前領
にも多くの新田が出来ますから、なにぶんご協力願え
ませんか」と申し入れたところ、「昨年からの水害復旧
工事に追われていて新田開発までは考えが及びません」
と断られてしまった。

そこで水谷勝隆は松山藩独力で着工することに決意し、
大森元直を作事奉行に命じ、藩の財力を傾けて玉島
新田の干拓に取り組んだ。

福島の南側へ長く伸びていた西高梁川の自然堤防を
東側の潮止め堤防とし、そして西側に新しい潮止め堤防
・・乙島の北部(矢出付近)を基地として、阿弥陀山(羽黒山)
から七島の東端を通って爪崎に至る3Kmの大堤防・・を築き、
万治2年(1659)220町歩(220ヘクタール)の新田を築いた
・・・玉島新田。



<高瀬通しの建設>
さらに勝隆は、新田の用水確保のために、いわゆる「高瀬通し」を万治2年に着工した。
現船穂町又串(またくし)を出発点にして、船穂・長尾・爪崎を経て干拓堤防上を伝って
阿弥陀山東端の「舟だまり」まで、延長9Km・巾4mの運河を数年かけて掘り抜き、
築き上げて、又串に設けた水門から西高梁川の水を引き入れることに成功した。

「高瀬通し」の建設にあたっては、先に干拓事業の協力を断られ、その上潮止め堤防
作りには大量の土を必要とするので、岡山藩領である七島のうちの島1つを分譲して
もらうというひそかな望みも絶たれた(第6話参照)松山藩では、岡山藩領との境になる
水路の土手は両側から石垣でしっかりと巻き、水路の底はシックイで突き固めて、
亀山・道口沖に広がる岡山藩領の新田地帯へは一滴の水も漏らさないという工法を
駆使して、用水路を築いたといわれている。

<柏島と陸続きになる>
また余勢をかって引き続き寛文年間(1668〜1669)には、乙島新田の開発を計画したが、
対岸の川内11ヶ村組合が大川(西高梁川)の水はけが悪くなると強硬に反対したために
実現しなかった。・・・200年後の幕末になって、幕府によって乙島内新開として開発された・・・

水谷勝隆の子、勝宗は父の仕事を受け継いで、寛文12年(1672)、佐治三衛門を作事奉行
として阿賀崎新田172町歩(172ヘクタール)を拓いた。

かっては甕ノ湊として栄えた亀山や道口も、このころには干潟の出現でとっくに港の機能を
消失しており、完成した玉島新田の地続きということで、松山藩は何の気兼ねもなく、
柏島の北東部丸山と阿弥陀山(羽黒山)との間に長さ300m・幅53mという頑丈な堤防を
築いて締め切った。

この潮止め堤防上には、後に新町と呼ばれる問屋街が作られ、千石船が直接横づけできる
ことになって、玉島湊の繁栄が開ける基礎ともなっていった。

<岡山藩の干拓が始まる・・甕ノ海の終焉>
甕ノ海の東部に広がっていた干潟の全てが松山藩領として干拓されたが、甕ノ海の西部奥深く
まで取り残された広大な干潟は岡山藩の飛び領地先の海面ということで手つかずであった。

寛永9年(1632)、池田光政は鳥取藩主から国替えにより岡山藩主として着任してきた。
着任当初は、新領国の藩政確立や岡山城下町の町づくりなどに専念しなければならない
状況であった。

しかし、ようやく藩の体制が整い、藩政が軌道にのってきた寛文元年(1661)ごろから本格的な
干拓事業に乗り出したようである。

甕ノ海の干拓は寛文元年(1661)に、上竹新田105町歩(105ヘクタール)を手始めに、寛文10年(1670)
には、七島・道越・八重・占見の各新田計378町歩(378ヘクタール)が出現して完了した。
かくして甕ノ海は全く姿を消し、これ以降、甕港(おうこう)・・又は甕江・・と名をかえて玉島湊へと
引き継がれていくことになる。

寛文12年(1672)に池田光政が隠居し、長男綱政が2代藩主継ぐにあたって、次男政言(まさこと)を
鴨方藩主として分家させた。これにあわせて、七島・道越・八重・占見の各新田は鴨方領として
組み込まれることとなった。


水谷勝隆像
   玉島の生みの親・・水谷勝隆、その人物像を探る


     


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