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寛文年間(1661〜1672)のこと、松山藩領の玉島村庄屋次郎兵衛と岡山藩領の下竹村庄屋
久左衛門及び道口の百姓小左衛門との間で、岡山藩領の「七島」のうちの1島を玉島村の
土取場として割譲する。その代わりとして、爪崎に横2尺(60cm)・高さ1尺(30cm)の用水樋
を据えて溝をつけ、「高瀬通し」を通じて玉島村へ送水される用水の余り水を、岡山藩領の
亀山・道口方面の水田用水として供給する、という約束が密かに成立していた。
ところが,岡山藩の郡奉行として本庄村(現鴨方町本庄)に居た国枝平介は、『七島のうち1島
を割けば六島となり、古来からの名称を損なう』と強く反対し、地元自領内に溜め池を構築して
必要な用水を確保することを計画した。
そして平介自身、本庄村から島地村に居を移して、自ら陣頭に立って道口の後背の山中に
「大木・矢頭・増原」の三ヶ池築造の大工事に取り組んだ。
莫大な費用や労働力をつぎこみ、池は一応完成はしたものの、配水が計画通りに行かず、
結果的には失敗ということになり、七島村・島地村では一層水不足に悩むことになった。
このため、国枝氏はこの計画の不手際の責任をとらされて郡奉行を免職させられ、大庄屋に
格下げになったと伝えられている。寛文9年(1669)末のことであったという。
松山藩では七島の一部割譲を断れたこともあり、高瀬通しを流れる水は一滴たりとも岡山藩領
には漏れないような工夫をした。そのため岡山藩では干拓造成された七島新田・道越新田のため
の用水対策に悩むこととなり、三ヶ池・その他の用水池の大々的な改修・築堤工事が繰り返された。
昭和年代でも改築が実施されている・・『三ヶ池樋門改築記念碑(増原池南側)』による碑文では
・・・万治2年(1659)築造後300年を経過し、樋門の老朽甚だしく、現在の如く改築したるものなり・・・(表書き)
・・・大木池・矢頭池・増原池 富田土地改良事業 工期自昭和27年至37年(1952〜1962)
工事総額540万円 責任者氏名(略)・・・・(裏書)
水争いはかなり深刻であったようで、江戸時代後期の文化11年(1814)〜文政2年(1819)でも岡田
藩領陶村の大堂川からの引水について天領の阿賀崎新田村と岡山藩領の上竹村内道口・亀山
及び鴨方藩領の道越村・上竹新田村・七島村とが争いを起こした。
甕ノ海開発当初、その主導権を持っていた松山藩は「高瀬通し」という用水路を築造して自領内の
新田の用水を自給自足の体制で十二分に確保した。しかし一方では、岡山藩の新田では「高瀬通し」
の恩恵を得るどころか、全く拒否されて、とにかく自領内の用水は自らの手で確保しなければならない
という厳しい対応に迫られていた。
ところが、元禄6年(1693)、不幸にして松山藩主水谷家の断絶にともなって、情勢は一変する
こととなった。松山藩主水谷氏親子3代にわたって開発された玉島新田・阿賀崎新田・勇崎内外新開
などすべてが幕府に召し上げられたのである。
元禄15年になって、阿賀崎新田村の全ては天領として倉敷代官の支配下におかれ、
玉島新田村の殆ど、及び高瀬通し沿いの長尾村・船穂村などは丹波亀山藩領
(本領は現京都府亀岡市)に飛び領地として組み込まれた。
したがって,松山藩領としては玉島新田村のごく一部(現中島町・矢出町・土手町・栄町・
常磐町・団平町・竹浦・江ノ浦・吉浦の主として羽黒山周辺地区)と柏島村の東海岸の
一部の領有と、大幅な削減により、玉島における松山藩の勢力やかっての主導権は
消滅して、代わって天領となった阿賀崎新田村が虎の威をかることになった。そして
この状態は、幕末までの約170年間にわたって続くこととなった。
《村別旧藩領》
黒字(阿賀崎村など)・・天領 赤字(玉島村など)・・亀山藩・松山藩
青字(上竹村など)・・備前池田藩 茶色(須恵村など)・・岡田藩
緑色(七島村など)・・鴨方池田藩 桃色(奥山田村)・・一橋家
空色(横谷村など)・・庭瀬藩 青緑(西浦村など)・・成羽藩
また、図中の色別エリアは旧玉島市地域を示す。
緑色・・玉島町 黄色・・長尾町 青紫・・穂井田村
空色・・富田村 紫色・・黒崎村
里見川が玉島港に流れ込む手前に大きな溜め池がある。これは新田開発の際に塩分を含んだ
悪水を溜めるための遊水池として設けられたものである。ところが当時の複雑な分割領有支配と
いう封建体制の中で、常に利害対立が続き、新田地帯の用悪水の出入りに係わる争いごとは
江戸時代中頃(1970頃)以降において頻繁に発生している。
特に占見川(現里見川)の悪水排水問題にからんでは、上流の占見新田村・八重村(現金光町)、
道越村・道口村・七島村・島地村と阿賀崎新田村との間で、たびたび論争が起こり、その都度
江戸訴訟にまで発展していた。排水問題もまた低湿地の新田地帯では大きな問題であった。
《参考》 主な抗争事件
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