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・・翁の語る・・
玉島は水郷の街言うてもええし、また水門がぎょうさんあったからに、水門の街言うても
おかしゅうはない程じゃった。
水門はなあ、海の水が七分か八分くらい干上がったころに水門の番人がやって来て、
仕切板ちゅうてなあ、分厚い細長い板を「えんや−なー」と掛け声をかけながら何枚も
巻き上げて、内側の川に溜まった水を海に向かって吐き出させるんじゃ。
水門のあけしめはいつどんな時にするか、ようはわからんけど、多分海と川の水位の
差が何尺とかいう目安があったりしたんじゃろうが、とにかく番人の勘でしていたらしい。
せえからなあ、わしら子供の頃には、水門の近くは
ええ釣り場で唯一の遊び場でもあったんじゃ。
初夏から夏には、「せい」を釣ったり・・・時には
1尺(約30cm)もある大物がとれたり、夜には
うなぎを釣ったり・・・これもたまに3、40匁
(約150g)もある大鰻を釣り上げて胸おどらせ
たりしたもんだ。
また、石垣についている牡蠣(かき)をとったり、石垣伝いに餌をあさってゆっくり移動する
「こんごうえび」を網ですくったり、秋には「あんごうえび」を餌にして「こっぱぢぬ」を
釣ったりしたもんじゃった。
溜川ではフナ・ハエ・ナマズ・ウナギや川ハゼなんかもよく釣れた。それから裏川では
「イナ」がよく捕れるのだが、川底が粘土質であったけん、「イナ」の腹の中は特別に黒く、
だべ臭いので誰も食べんかった。腹黒い人間のことを「裏川のイナ」という玉島独特の
言葉も出来たくらいじゃ。
海抜0mから1m前後の低湿地である
玉島平野は、不要な水を排水する
ために平野一帯を排水路が縦横に
張り巡らされている。上成・爪崎・吉浦
方面からは溜川へ、亀山・道口・七島
方面からは道口川へ、金光町占見新田
・八重・道越方面からは里見川へと
合流して羽黒山周辺へ集まり、海へ
放流される。
水門は川と海との境に作られ、水の流れを調節してきた。大正から昭和にかけて
多くの水門が統廃合され、里見川の川尻に昭和水門が、溜川の川尻には港橋
水門が建設、整備充実されてきた。現在ではさらに排水能力の大きい水門が
新港橋に建設、稼動中である。(コラムを参照)
玉島のような低湿地地帯では水門が果たす役割は大変重要なものであった。満潮時には
海水の逆流と流下する川水とが合流するため増水し、水田が水に浸かることは自明のこと
である。江戸時代以降、羽黒山周辺の海への出口には、大小様々な水門が至るところに
設けられて浸水を防いできた。
冒頭で翁が語ったように、満潮時には水門を閉じて、海水の逆流を防ぎ、
干潮時には水門を開けて内側に溜まった水を放流する。
水門によっては、水門ごとごっぽりと小さな建物で覆われていたものも
あって、これを水門小屋と呼んでいた。
小屋の中には水門の仕切板を引き上げるための「滑車」や滑車に取り
付けられた縄を巻き上げる輪軸などの道具がうまく仕掛けられていて、
機械がなかった頃の人たちの工夫ががしのばれたが、今では全く消滅
してしまった。
また、川の流水を一時溜めておくための広い遊水池も必要であり、玉島には大小様々な遊水池が
たくさんあったが、これも今では整備されて全体に狭くなったり、中には姿を消したものもある。
江戸時代末の古い版画に描かれた玉島港
付近の絵図の中に「阿弥陀水門小屋」と
思われる建物が見られる。また大正時代
初め頃と思われる羽黒山西下付近を撮った
写真にも、阿弥陀水門小屋が写っているの
を見た。
そこで冒頭の翁が語る思い出話をたぐりな
がら、水門小屋とその内部構造について
復元を試みた。十分な資料に恵まれずに
多分に想像の域を出ないところもある。
【注】 阿弥陀水門小屋の名称の由来について
羽黒山がその昔阿弥陀山と呼ばれていたことにもとづくという。
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