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〜繁栄を極めた玉島湊とシンボル的存在の羽黒山〜




<羽黒山縁起>
標高わずか10m余、山麓の周囲約300m程の小じんまりした山。
かつては「阿弥陀山」とも呼ばれ、矢出町の北の海中に浮かぶ一小島であった。

江戸時代の初め万冶元年(1658)、備中松山藩主水谷(みずのや)伊勢守勝隆(かつたか)が
玉島新田の開発を行い、その鎮護と発展を祈って、前任地常陸国下館(しもだて)より「羽黒宮」
を勧請して祀ったことから「羽黒山」と呼ぶようになったといわれている。引続いて、寛文5年
(1665)水谷左京亮勝宗(かつむね)が社殿を改築して松山藩水谷氏の祈願所とした。

羽黒神社の社伝に曰く
『謹ミテ社記ヲ按スルニ 御祭神ハ玉依姫命 素戔鳴命 大国主命 事代主命ノ
 四神ニ在シテ万治元年 松山藩主水谷勝隆公 干拓ニ方リ出羽国羽黒権現ヲ
 勧請、社殿ヲ祈願セシヨリ開拓後 移住者ニ繁ク 遂ニ内海ノ要津小浪華ノ
 称アルニ至ル(後略)』
(昭和49年10月 羽黒神社奉賛会選書より抜すい)
羽黒山の境内敷地は1反5畝1歩(約13アール)あり、
祭日は10月15日と定められていたという。また同じ
寛文5年に勝宗は、仙海和尚を開祖として清滝寺を
建立し、羽黒神社と合わせ、その社寺領として9石余を
与えた。
水谷家断絶後は、松山藩主となった安藤家、石川家、板倉家、と引続いて崇敬を受けて、
維持されてきた。
創建当時の羽黒山には、東西南北の四方に参道があったといわれているが、いつのころか
北口は閉鎖されたようである。今でも人家の間から、それらしい石段が見える。
維新後、神仏分離令によって明治3年(1870)、
羽黒神社と改称し、清滝寺と分離してそれぞれ
独立して今日に至っている。
また大正5年(1916)には、町内各所に散在して
いた祠と丸山の住吉神社を合祀して現在の姿に
なったともいわれている。

<柏島と本覚寺>
今は昔、柏島村西山の本覚寺(現秋葉町と西山との境界付近にあったという)に
一本の「柏」の霊木があったという。これによって「柏島」の地名がついたと伝えている。
9世紀の初め入唐の際この沖に泊まった慈覚大師が枯れた柏の霊木を刻んで、
十一面観音像を造り祀ったことから、本覚寺の歴史が始まる。
しかし、12世紀末の源平水島合戦以降、荒廃が
はげしく廃寺となっていたのを、元禄5年(1692)
水谷出羽守勝美によって再建され、十一面観音を
本尊として祀り、近郷近在の崇敬厚く隆盛した。
この時、かつて慈覚大師が十一面観音に供えるための水(「阿伽」という)を汲んだと
いう跡を「阿伽崎」と称するようになり、後に「阿賀崎」と呼ぶようになって、今日の
地名になったと伝えている。本覚寺は今、その姿を消してしまっている。
(近年、信者の手により小堂宇が再建された)

<玉島湊古図>
江戸時代末の文政年間に作成されたといわれる「備中州玉嶋湊圓通寺築山図」
(彩色木版画)によると羽黒宮を中心に当時の玉島湊を描き出した図がある。
先ず目につくのは羽黒山が3段の石垣によって築き上げられ、その上に玉垣を
巡らして羽黒宮が鎮座している様子が描かれていることである。
羽黒山を中心に港町が発達したといわれているが、図はそのことを物語っているように思う。
三段の石垣は大正末頃まで健在であったと伝えられているが、その後は人家の密集に
ともなって次第にくずされてしまったという。また、西参道入口付近には大井戸もあったと
伝えているが、これも今では姿を消している。
(左図は羽黒宮の屋根に鎮座する烏天狗の鬼瓦)
さらに阿弥陀水門小屋らしい建物が、大きな石灯篭の頭部当りの水路上に描かれているのが見えるが、
これも大正末頃まで、金光堂新町店付近に健在で排水水門として活躍していたが、その後水門の
統合改廃にともなって姿を消し、羽黒山の西下の街の様子も今では大きく変わってしまった。

続いて図の中央から左手前にかけては、北前舟の入港でにぎわった新町土手も、港に面した
船着場には大小さまざまな蔵がずらりと軒を並べ、通りをへだてた北側には問屋などの商家が
軒を連ねている様子が描かれている。

北前船が一度に何十艘も入港すると問屋の蔵はいっぱいになり、あふれた魚肥やその他の荷物は、
わずかに人の通路だけを残して道路一杯に山のように高く積み上げられたという。

翁の話によると明治時代にも同様であったらしく、子供のころ道路上に積み上げられた鰊(ニシン)の
山をかけ登りかけ降りて遊んでは店の人に叱られたという。このために新町通りの東西の出入口
には総門が設けられ夜になると門を閉め、夜廻りの番人が太鼓を打って時を告げて歩き、みだりに
人の通行を許さなかったともいわれている。

図の中では羽黒山の下方に東の総門らしい建物が見える。
また、灯台らしき大きな石灯篭が見えるが、現在川崎みなと公園内に設置されている二基の石灯篭
のうち、『金毘羅大権現永代常夜灯』「明和5年(1768)世話人小平治」の刻文のある常夜灯が
港出入りの船のための目印として、当時活躍していたようである。

公園内の説明板には「当初港町の新庄屋付近に設置された」といっているが、図中の大きな石灯篭が
それではないかと推測している。

図ではさらに羽黒山の右へ通町へ通ずる「柳橋」から「中島、矢出」の街並みや「矢出山」と思われる
ものも見え、港には北前船のいわゆる千石船や高瀬舟などの姿が見える。

川田甕江
   幕末の歌人であり、儒学者であった甕江は玉島事変で何をしたか?



     


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