このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
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「夏肥え」を積んだ北前船は6〜7月ごろに、「秋肥え」を積んだ北前船は9〜10月ごろにやってくる。
馬関(下関)から早飛脚で『北前船が来る』という知らせが伝わると、港はにわかに活気づく。
問屋は蔵を開けて荷積みの用意をはじめ、金策にとび廻る。仲仕頭は仲仕集めに懸命になる。
港町の遊女たちもまた、髪結屋にかけこんでみがきをかけ、とっておきの晴れ着の手入れに忙しくなる。
いよいよ北前船が入ると蔵の段取りから仲仕の斡旋、天候の様子、相場の取り決めと積荷のさばき
等々で少なくとも数日を必要としたという。
この間、船乗りたちは帆前の修理から船の点検整備に忙しく、港の「船具屋」もまた忙しくなる。
とにもかくにも1隻の船に少なくとも10数名の船乗りがおり、それが一度に20隻とか、さらには30隻以上
とも入港するとなると、港は巨大な船と300〜500人余りもの船乗りでいっぱいとなり、熱気であふれる
こととなる。
風呂屋をはじめとして、飲み屋小料理屋、遊女屋はもちろん呉服屋・小間物屋・下駄屋などが一斉に
にぎわったといわれる。
・・・なんで海の男に呉服屋・小間物屋・下駄屋がにぎわうのかって・・野暮なことは聞かないでほしい。
港の女たちは精一杯愛嬌をふりまき、海の男たちは女の気を引くために彼女の欲しがるくし・こうがい・
かんざしとか羽織やゆかたの1枚でも、また江戸時代では庶民にとってはぜいたくであった下駄でも
一足買って与えてやったものさ
問屋では船頭が風呂屋へ入浴するときには湯女や下女をさしむけて背中を流させたとも云われる。
一方、港にあふれた船乗りたちは、2ヶ月に余る海上生活に板子一枚海の底と、帆に運命を託して
やってきた1年の総決算、色と欲との修羅と化す。
海の男たちの熱気をうけとめ、優しくときほぐしたのは港の女たちであったが、その大半ははかない
一夜妻でもあった。
売られ売られて風の如くに来たり、また風の如くに消えていった悲話は語り継がれることもなく
消滅している。
かっての色町のあちこちに残る地蔵像が、わずかに昔日の哀史を物語っているのみである。
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【余話・・御手洗港と「おちょろ舟」】広島県大崎下島の御手洗港は古くから下関・鞆・兵庫・大坂と並ぶ商港として、瀬戸内海を
往き来する千石船の中継港であり、また、海路を行く西国大名の参勤交代の停泊地としても
繁盛した港町である。
大小さまざまな船が入港するごとに「おちょろさん」たちが小船に乗って漕ぎ寄せる。
交渉成立で一夜妻となり、水夫たちの食事の世話から洗濯、つくろい物までする彼女たちには、
やがて出帆とともに悲しい別れが待っている。
『御手洗港を素通る船は親子乗りかよ、金無しか』
哀れな港町の遊女の話はいずくも同じ。しかし「おちょろさん」たちの哀話は一汐胸にしみるものがある。
厳しい職階制のもとで、同族的な団結力を持っていたという。当初は発生地の北陸出身者が
多かったというが、後には瀬戸内,大坂方面の者もいくらか乗るようになったと云われている。
一般的にには大坂を起点・終点にして1年周期で航海する。大坂に帰ってくる頃はちょうど年の暮れで、
船員たちは大坂に船を置いて、家族の待つ故郷の北陸へ歩いて戻り、正月を終えてからまた
大阪に戻ってくる・・という生活を送っていた。
名称 | 給金 | 主な仕事 |
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船頭 | 3両(約23万円) | 船の最高責任者であるが大きく3つの形態があった 1.直乗(じきのり)又はお手船ともいう・・船主が船頭を兼ねる 2.準直乗・・船主の親戚が船主代理で船頭を務める 3.雇船頭又は沖船頭・・他人を雇った船頭 |
知工(ちく) | 2両(約15万円) | 事務長(会計・経理・賃金担当) |
表(おもて) | 2両(約15万円) | 航海士(船首に立って船の運行を導く) |
片表(かたおもて) | 航海士の補佐役 | |
親司(おやじ) | 2両(約15万円) | 水夫長(若衆を直接指揮し、帆前・梶前・かまど前 物資の積み下ろしなど労務の指図役) |
若衆(わかいしゅう) | 1両(約7.5万円) | 船員 |
炊(かしき) | 2歩(約3.5万円) | 水夫見習(最年少者で常に炊事方や雑用を務めた) |
大体1隻に20人前後の船乗りがいたようである。またそれぞれの給金は1年分のものであって、
今から考えると危険の多い仕事の割には、大変安いものであった。
・・しかしこれはあくまでも固定給のことである。
いつの場合も同じであるが、荷主としては積荷が安全でしかも有利に取引されることが望ましい
条件であることから、それを前提条件として船頭と知工には「帆待(ほまち)」という特権を与え、
船頭・知工が自力で金策して荷物を買い集め、荷主の積荷と一緒に積みこんで、自分で商売して
その利益を自分の収入にすることが認められていた。
また、一般の船乗りたちには、「切出(きりだし)」という特典があり、積荷の一定割合(積荷総量の
3〜9%程度)が船乗り全員に平等に分け与えられていたようである。
『運んだ荷物について何分かくれる切出しも目切れがするともらえないことになる。遠くへ運ぶほど
ニシンが乾燥して目切れを出すので,塩を水に溶かしてそれを沸かしてニシンにかけて、目方が
重くなるようにする。大抵の船が港に着く数日前にやるのだ。普通は1航海で50円ぐらい、炊は
その半分ほど。
明治の終わりごろ玉島港で上げたときは、目が千貫余りも出たので、特別な切出しで若衆1人
200円ももらったことがあった』という話も残っている。
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