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〜西日本を駆け巡った貿易船団の実態を検証〜

【北前船ってどんな船?】
千石船は「北前船」(きたまえせん)又は「弁財船」(べんざいせん)とも呼ばれ、
300石から1500石(約45〜230トン)の荷を積んだといわれ、江戸時代の中
ごろ玉島港の最盛期には、弁財船の帆柱が林立して活気を帯び、瀬戸内海
屈指の商業港として大いに栄えたという。

『北前船』 「北の方から来る船」という意味で、瀬戸内海沿岸の人々の間で
呼びならわしていたようである。
18世紀後半ごろから瀬戸内地方では綿・藍の栽培が盛んになるにつれて、
それに必要な魚肥としての北海道産のニシンの需要が高まり、それを運搬する
北国(北陸地方)の船を北前船と呼ぶようになったといわれている。
発祥地の北陸地方では「弁財船」(べんざい船又はべざい船)、
あるいは「ばい船」と呼んでいた。「ばい船」の呼称については、
大阪から下関を経て松前(北海道渡島(おしま)半島の沿岸)に
往復した「買積船」(ばいづみせん)からの転化らしく、江戸と大阪
の間を往復した菱垣回船や樽回船とちがって、単なる運送業者
ではなく、自分で積荷を買い集め、自分の持ち船で運送し、それ
を自分で売りさばく商人であったことに由来するという。

また、船の形から「どんぐり船」とも呼んだといわれる。帆が26反
(約26〜20メートル)、櫓が左右8丁ずつ計16丁の船であったという。

『千石船』 日本の津々浦々で活躍していた漁舟(いさりぶね)を
原型として、ひきのばして大型化した、構造的には大昔のくり舟に
毛のはえたようなもので、風浪に弱くすぐ難船や破船した。
【江戸幕府は藩の大型造船を禁止した】
17世紀初頭、江戸幕府は大名統制の必要から、徳川家康が慶長14年(1609)諸大名に
対して、500石以上の船を持つことを禁止した。
これより以前、織田信長、豊臣秀吉の時代には、東南アジアの国々と「御朱印船」
(ごしゅいんせん)によるいわゆる南蛮貿易が盛んに行われ、外洋船の造船技術や
航海術も発達しつゝあった。しかし、この禁止令に引続いて250年にわたる鎖国政策
が、造船・航海等にかかわる進歩発達を阻害したといえる。

禁止令のねらいは、西国大名に千石船以上の大船を持たせれば、海上から江戸を
攻撃される心配が大へん大きいことへの着目であった。
例えば、鹿児島の島津藩や山口の毛利藩などが大船に陸兵を乗せ、志摩半島の
鳥羽からまっすぐに太平洋を突っ切って行けば、順風を得るかぎり3日で江戸湾に入る。
ところが500石以下の船だと沿岸の地乗りしかできず、ちょっと小走りしては沿岸の港
々に寄らねば航海ができず、港のない遠州灘では危険で航海しにくい。
ましてや遠州灘の沖乗りは至難のことであった。
【商業用の千石船の制約】
一方、町船(まちぶね)と呼ばれた商業用の船については、やや大目に見られ千石船
ぐらいまでは許された。しかし、竜骨構造は許されず、帆柱1本に帆も1枚というように
厳しく制限された。したがって千石船といっても、ただ図体だけが大きくて、構造的には
木の葉を縦に折ったようなV字形の断面の船体に、甲板というものが全くなくて、荷物は
船底からじかに積み上げる。積み上げていって舷側(ふなばた)を越すほどの大盛りにする。
盛りあげた荷物が海にこぼれて落ちないように両舷に垣をたてる。この垣が菱形の目の
ように結んでいることから「菱垣船」(ひがきぶね)と呼ばれるようになった。そして盛りあげた
荷物の上には、わら屋根のように苫(とま)をかぶせて波や雨から荷物を守った。

もっとも困ったことには、船尾の舵(かじ)が船体不相応に大きすぎた。もともと帆船は常に
帆をななめにして風を受け、舵をまげっぱなしにして進むが、多帆船では色々な帆が舵の
代わりをするため、舵は小さくてよい。
しかし、千石船の場合は、1枚帆であるために、帆いっぱいの風の力が水中の舵に加わる
圧力が大きいので、舵そのものがとてつもなく大きいものにならざるを得ない。
しかも、舵が大き過ぎるために、浅瀬ではつかえてしまう。日本の港は河口港が多く、
土砂が堆積して浅いのが通常である。そのため、舵を固定しないで、多くの綱で釣ったような
形式をとり、入港するときには、それを引き上げて船を乗り入れるようにしていたのである。
〔千石船の項は 中公文庫「歴史の世界から」司馬遷太郎著による〕

玉島港がついには、里見・道口両河川の流し出す土砂のために、海底が浅くなり、千石船が
入港できなくなったのも、千石船の構造とも大きなかかわりがあったというべきであろう。
【北前船の航海のパターン】
大阪を根拠地とする船の場合、1年かかって大阪から出て大阪に帰るといういわゆる
1年1航海方式をとる。
冬の季節風(北西風)を利用して、年明けに大坂を出発し、その年の暮れに戻ってくる。
一般的なパターンは次のようになっている
行程
主な寄港地
時期
備考
行き
約40日前後
大坂1月上旬〜3月上旬出発
下関3月上旬〜4月上旬
敦賀・伏木4月上旬
鰺ヶ沢5月中旬
北海道(小樽)5月下旬到着
帰り
約40日前後
北海道8月上旬出発
下関10月下旬〜11月
大坂11月下旬〜12月下旬到着
この代表的な航路とは別に、北海道の物資や庄内・越後米などを北陸の敦賀で陸揚げし、
大坂へ運ぶというルートもあった。
また、もう1つの大消費地江戸に対しては日本海側〜津軽海峡〜江戸という北回りルートや
大坂〜太平洋岸〜江戸(菱垣廻船)、灘の酒を江戸へ運ぶ(樽廻船)などがあった。
【新倉敷駅構内に北前船の模型がある】
JR山陽本線新倉敷駅構内に北前船の模型が飾ってある。こんな船で日本海の荒波を
超えて物資を運んだのであろうかと古人の勇気には感心させられる。

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