このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
春もうららな高瀬通を舟が行くといえば、いかにものどかそうであるが、実際には
生やさしいものではなかったようである。船頭は3人1組(親方ともいわれた船頭が
1人と曳子ともいわれた小船頭が2人)というのが原則であったようだ。
下り舟では先乗り(船首)・中乗り・後乗り(船尾)で櫂と棒を使って下っていった。 しかし上り舟ともなると大変な苦労をする。今しも山峡の清流を高瀬舟が上って行く。 船首の船頭は川底に竿をつき、その端を自らの胸に当てて、船尾に向かって ふんばって歩きつつ舟を押し進めながら船頭歌をうたう。胸には皮製の竿当て用の 前掛けが見える。 | |
一方、舟から斜め上手に五十尋(約70m)も伸びた曳綱のかなたには、猿かとまごう かっこうで小船頭が綱を肩に腰を曲げ、河岸の船頭道に並べられた敷石に手をかけ ]ながら、四つんばいになって船頭の唄にあわせて、ジワリ、エッチラ、ジワリ、エッチラ と、歩を運びつつ舟を曳いていく。 |
「向こうをー 娘が3人通るヨーオ、かさがじゃまだヨーオ、風が吹かんかヨーオ
ヨーイヤナー、ソーリャーヨ」
「娘さん赤いやつを出してヨーオ、せんたくしとるゾーオ、娘さんかくさんでもエエゾー
ヨーイヤナー、ソーリャーヨ」
船頭のうたう歌はまのびした節廻しであるが、文句は河岸の風物を即興的にとって唄う。
瀬が急になると叱咤の号令となる。
いよいよ瀬が急で舟が進まなくなると、船頭は川に飛び降りて船首の舷(ふなばた)にある
小穴に桧棒を通して、肩にかつぎ曳綱と歩調を合わせて舟を曳き上げる。
阿哲郡誌によると、寛政7年(1795)6月8日、高梁川の洪水により高瀬舟が難船し、
多数の死者が出たことが記録されている。
舟の安定性とか安全とかは、今ほど重視されなかったであろうし、犠牲は他にもいろいろと
たくさんあったことと想像される。したがって、楽しく風流なものでは決してなかったといえる。
【・・翁が語る高瀬舟風景】
わしが15・6才のころ(大正初期・1915頃)玉島の町へ「醤油」をよく買いに行かされたもんじゃ。
たいてい月に1回ぐらいの割で5升樽(約9リットル入り)をかついで帰ってきたもんだ
野呂の山道を越して爪崎に出て、そこからは高瀬通の土手伝いに玉島の町へ行くんじゃ。
片道1里半(約6Km)ぐらいかな。
帰りは重たい「醤油樽」をかついで山道を登らにゃならんで、 だいぶ時間がかかった。たぶん往復には半日かかったんじゃ ろう。それでもなあ、高瀬通の土手を歩くんが楽しみじゃった。 高瀬舟が5〜6隻一団となって、たいてい親子で舟をあやつっ て通るのが見られた。特に正月を前にした12月にはよく見られ たもんじゃった。 下り舟にはたいてい高梁方面から「木炭・薪」時には鉄みたいな もんもあったかあー・・などを運んで来て、裁判所(現玉島図書館付近) の北側から玉島支所がある辺にかけて問屋が何軒かあったが、 そこに荷を降ろしていた。 |
帰りの上り舟には「みかん・するめ・干ざかな」などの正月用品(年末には)を中心に
して、山家(やまが)には無い品物をいっぱい積み込んで、元気な若い衆の方が長い
綱を曳いて土手道を歩き、年老いた親父が竹竿で舟をあやつりながら、高梁方面へ
帰っていったんを見るのが珍らしゅうてなあ。
それから、玉島の町の中では高瀬通の水路のあちこちに 「撥橋(はねばし)」ちゅうのがあって、高瀬舟が通るときには、 橋番というのが、支柱に支えられた綱を手繰って、橋を釣上 げて舟を通す。 そして、舟が通り過ぎたらまた降ろされて、 通路の橋になる仕掛けがあって、珍しゅうてあきもせずに 眺めていたもんじゃった。 そういえば、もっと珍しかったのは、高瀬通の土手道を(その ころは駅道とも呼んでいたらしい)玉島駅(現新倉敷駅)と 港町を結ぶ乗合馬車と出会うことじゃった。 プープーとラッパを吹き鳴らしながら、やせた馬が小さな箱型の 車を引いて、親方に背中をむちでたたかれながら力一杯走っていた。 今から思うと自転車よりも遅かったんじゃなかろうか。乗っている お客も多くはなかったようじゃった。なんせ運賃が10銭から15銭 もしたんじゃから、わしらのような貧乏人では乗りたくても銭がなかった。 10銭もあったら、そのころ米が1升も買えて家族みんなが、おかず はなんものうてええ。米の飯だけでも腹一杯食べられて、ごちそう だったというほどに値打ちがあったもんだ |
【高瀬通のルートをたどる】
船穂・長尾町境の「長崎」バス停付近から県道金光船穂倉敷線に沿って西へ、長尾口
から市街地の中を流れる。
長尾小学校の前で屈折して西へ一直線に爪崎西へ、ここから南へ向けてさらに一直線に
延びて、新庁舎の玉島職業安定所の前を通り、国道2号線バイパスの下を暗渠(あんきょ)
で横切って、玉島武道館の東までたどることが出来る。
しかし、かっての高瀬通も今は全線がコンクリートで塗り堅められ、川幅もずっと狭く
なって、わずかに用排水路としての役目を引継いでいる程度である。
新倉敷駅周辺の再開発市街地整備工事の進展にともなっては、いつしか地上から、
その姿も消え去る時も来るのではないかと一抹の寂しさを感じる。
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