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夢が迎えた終着駅
ふるさと銀河線の終焉を見る(その3)



エル・アルコン  2006年5月22日



雪に埋もれた駅名標。星占いはしし座(境野)


※この作品は「交通総合フォーラム」とのシェアコンテンツです。

特記なき写真は2005年12月撮影

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●ふるさと銀河線の黄昏
ふるさと銀河線はなぜ「二度目の廃止」に至ったのか。
第三セクター鉄道転換そのものが無謀だったといってしまうと詮無い話ですが、存続を前提とした場合を考えて見ましょう。

昔ながらの琺瑯のサボ


◇ダイヤ面の問題
国鉄時代最後の改正となった1986年11月改正で、輸送量がそれなりにあった北見−置戸は9往復、訓子府まではさらに1往復あったわけですが、北見からの帰りこそ22時の置戸行き(置戸22時58分着)がありましたが、北見への行きは置戸7時3分発(北見7時49分着)と遅く、北見では上りの「オホーツク2号」に乗り継げないなど、使い勝手という意味ではかなり疑問符がつきます。陸別からで見ると池田方面の始発は6時38分(池田8時18分、帯広8時55分)で、北見方面は8時48分(北見10時31分)、最終は池田21時1分(陸別22時43分)、北見18時58分(陸別20時37分)と、陸別からは北見方面への流動は全く考慮していない感じです。
ちなみにその11月改正前は21時に訓子府行き、22時18分に置戸行きがあったのに削減されており、「廃止を前提とした暫定的な継承」を色濃く出した改正でした。

新会社発足の1989年6月ダイヤを見ると、北見発の置戸行き最終が22時10分に繰り下がったものの、本数も時間帯も池北線時代を踏襲していました。これは新型気動車が揃わずキハ22を借り入れていた影響でもあり、その後北見口は12往復(うち下り1本は土曜のみ)と増発されています。この段階でも北見行きの始発は北見着7時36分。「オホーツク2号」に3分差で間に合わないなど穴はありましたが、北見発最終は22時20分(置戸23時7分)と頑張っています。

本別駅

のちに車両運用の都合でしょうが、陸別から始発の置戸行きが設定され、置戸発北見行き始発に接続するようになり、陸別から北見方面の流動への対応は好転していますが、1999年に北見発の置戸行き最終が削減され21時8分となり、最終はその後21時半まで繰り下がりましたが、1本前の時刻が変わらないため、18時57分発と2時間半の大穴が開く結果になっていました。

ふるさと銀河線のダイヤは長大路線でもあることから単純ではなく、増解結やJR車両の乗り入れもあるのですが、車庫が北見にしかなく、夜間滞泊が出来るのがもう片方の終着である池田と、中間の陸別となっています。
これだけ見るとまずまずのようにも見えますが、置戸−訓子府−北見のメイン区間で見ると車庫が拠点側にあるため、朝の出庫、夜の入庫が流動と逆を向くことになります。

特に置戸での滞泊が出来ないのが厳しく、朝の740D、夜の757Dと送り込み、引き上げの回送同様の列車設定があり、これが始発の遅さ、最終の早さに繋がっていると考えられます。
もちろん厳寒期の夜間滞泊の条件の厳しさを考えると、線路上にアイドリングさせながら留置というわけにも行かず、国鉄時代からの設備をうまく使いまわすしかないゆえの陸別なんでしょう。
しかし、かつては北見口の最終に見合う北見行きがなかったことから、回送していたはずで、ならば回送列車で対応して利便性の高い時間帯に設定できなかったのか、という思いはあるのです。

陸別停車中


◇他交通機関との競合、協調
廃止後、北見口では現在、北海道北見バスによる代替バスが訓子府まで21往復、置戸まで17往復、陸別まで7往復の設定がありますが、実は廃止前から置戸(勝山温泉)まで北海道北見バスの路線があり、本数も訓子府まで13往復、置戸まで5.5往復ありました。
沿線の国道242号線や道道は除雪の不安はなく、駅と比べてバス停は、という心配にしても、元仮乗降所の駅は待合室があるかどうかも怪しいケースが多く、逆にバス停にも待合室の設置は可能であり、これまで鉄道とバスの両方を維持してきたことで税金を浪費してきたということも出来ます。
特に北海道北見バスは元の北見バスが1998年に事実上経営破綻して再生した会社であり、今回北海道ちほく高原鉄道が終焉したということは、まさに共倒れであり、少ないパイを奪い合った結果ということも出来ます。

一方で置戸線のバスが走っている勝山温泉。温根湯や阿寒、大雪、川湯など名の通った温泉地と比べると一歩も二歩も譲りますが、観光資源の乏しいふるさと銀河線では、何とか観光資源として生かせなかったのか。置戸−北見では競合する北海道北見バスも、置戸からのフィーダーでは協調してお互い利用を極大化使用とする努力をしてきたのでしょうか。

そして池田口では足寄が観光のキーステーションだったにもかかわらず、朽ち果ててしまっています。
十勝バスの池田経由で帯広−足寄を結ぶ路線が廃止代替で陸別に延長されましたが、2005年までは帯広から上士幌経由で足寄を結ぶ拓殖バスの路線がありました。これらの路線を延長する形で雌阿寒岳登山口を経由して阿寒湖へ抜ける観光路線が1997年まで存在しており、末期は池田経由で夏季のみ2往復でしたが、1980年代初めには冬季以外の通年運行で6往復を数えていた時代もありました。
上士幌経由は帯広に行かず、糠平から然別湖畔に抜ける観光地をはしごする路線もありましたし、池田経由は十勝川温泉を経由していたなど、カニ族全盛期の旅行の姿が見えてきます。

時代が変わり、ローカル線で観光地へアクセスする時代ではない、と言われればそれまでですし、転換でJRのネットワークから外れて各種乗車券での利用が出来なくなったことはただでさえ落ち目のところにとどめを刺した格好です。
とはいえ今でも観光バスによる道内周遊において、足寄を経由して国道240号線で阿寒湖方面を巡るコースはメインコースとも言えるわけで、道路の拠点として観光対策をすれば良いともいえますが、個人旅行回帰が鮮明な昨今、バス路線をハイシーズンでいいから確保してふるさと銀河線とセットにした売り込みを出来なかったのか、とも思います。

「ミツバチ族」も集う往年の足寄駅(1986年8月撮影)


◇そしてふるさと銀河線だけではなく...
最後に、マクロの話をしてみましょう。
今回廃止になったふるさと銀河線、北見から奥へ奥へと進む印象ですが、実は境野付近まで、石北線と並行しているのです。その間隔は10km強といったところで、実際、置戸まで北上してきた国道242号線はふるさと銀河線を分かれて留辺蕊に至り国道39号線に合流します。ちなみに留辺蕊は旭川から層雲峡経由で北見、網走を結ぶ国道39号線と、池田方面から遠軽、湧別を結ぶ国道242号線が交差する要衝です。

こうしてみると、石北線との並行は無駄ともいえたわけです。一方で留辺蕊は拠点ですが、東南にある訓子府も捨て難く、例えば留辺蕊から訓子府経由で北見に入る「新線」に一本化していれば、若干時間はかかっても集客力がものを言った可能性があります。
置戸は境野付近から分岐するか、あるいはそれくらいの距離であればそれこそ都市間と言うより置戸町内の面的対応の一角になりますから、バス対応でも可能でした。

あくまで石北「本線」と転換線である池北線という「格」の差がありますから、そのような発想に至ることはなかったのでしょうが。しかし、高速化構想から取り残され、1980年代の183系化以来変化がない旧態依然とした特急という、道内各方面を見比べても見捨てられた感もある石北線の状況は厳しく、2006年3月改正で夜行特急が流氷シーズンだけの運転になるなど、遂に縮小が始まっています。

札幌から北見、網走へのメインは4時間半から5時間かかる「オホーツク」ではなく空路であり、札幌市街から遠い新千歳発着にもかかわらず女満別線は130〜170人乗りのジェット機が就航するなど、高速化が完了した他の道内幹線流動と違う様相です。
さらに石北線に並行しては高速道路計画がないように見えて、無料の高規格道の整備は進んでおり、旭川紋別自動車道(国道450号線)として道央道比布JCTから旭川愛別道路、上越白滝道路と開通しており、遠くない将来に道東道経由と合わせて幹線流動における鉄道の存在意義そのものが問われる可能性があります。

石北線は国鉄最後の1986年11月の改正で上川−白滝間の普通列車が1日1往復に削減されるなど、区間利用に早々に見切りをつけたわけで、そうした中で幹線流動もこれでは、遠からず存廃問題が起こっても仕方がない状況と言えます。
ふるさと銀河線の廃止は、単なるローカル鉄道路線の廃止ではなく、北見エリア、網走支庁の鉄道の存廃と言う第二幕に続くのかもしれません。

変わったのは塗装と若干のアコモ?
(1986年8月撮影)






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