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マニラ探訪
(1)2011年8月更新
    

フィリピン国有鉄道に乗る:2011年4月
















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(1)パサイ・ロード駅から通勤列車に乗る


 パサイ通りとJPリサール・ハイウェイの交差点。上がハイウェイで下が一般道路である。一般道路の手前に鉄道が走っている。つまり、ここは踏切なのである。踏切の道路標識と遮断機が見える。(右が北、左が南である)こういう大きな交差点には、新聞、ガム、たばこ等を売る少年が集まっている。



 踏切の中から南をみる。左に踏切の管理室と遮断機が見える。しかし、実際、遮断機は下りることはない。列車が来ると、係のおっさんがストップのプラカードを持って、車の進入を止める。中央奥に見えるのが、パサイ・ロード駅である。踏切管理室の左側に小道があって、歩いて行くと駅にぶつかる。そのままホームに上がることが出来る。反対側のホームに行く時は、線路を横切る。 



 踏切の北側の風景。鉄道の敷地は広いが、手入れはひどい。レールが波打っているので、汽車は少々揺れる。また、スピードは出せない。この線は複線であるが、運行本数が少ないので、単線と同じである。



 写真奥が北、手前が南である。列車は南行、アラバン行きが入線したところ。フィリピン国鉄は右側通行である。
 ホームの高さが異なっている。この線には16の駅があるが、すべて段差の異なる二つのホームがある。もともとは低いホームのみだったが、新型の通勤列車を導入する際に、新しく設置したものと思われる。列車の床面とホームを同じ高さにしないと、乗り降りに時間がかかり、かつ、ステップにすると危険だからである。



 北行(トゥトゥバン行き)が入線する。汽車の窓には頑丈な金網が張ってある。理由はよくわからないが、防犯対策かもしれない。降りる際に、特に切符のチェックはない。不正乗車はないのだろうか。何回か乗車したが、検札に会ったのは、一回だけだ。ちょっと心配。



 チョークで手書きの時刻表。大体、30分に1本の割合である。左側が北行で、マニラ行き。マニラという駅はない。これの終点はトゥトゥバン駅である。右側が南行で、アラバン行き。所要時間はトゥトゥバンからアラバンまでだいたい1時間ぐらいであり、このパサイ・ロード駅がほぼ中間である。列車番号は、CX-101から123まで奇数になっているので、こちらが下り南行、左が上り北行である。



 右側の娘さんが切符販売の担当者である。建物に出札窓口があるのだが、使っていない。料金はトゥトゥバンまで10ペソ(20円)である。アラバンも同様に10ペソであった。では、終点から終点はどうかというと、乗ったことがないので、わからない。




                            

(2)列車内の様子


 Rotemは韓国の鉄道車両製造会社である。ヒョンデ(現代)、デウ(大宇)、ハンジン(韓進)の鉄道部門が合体してできた会社である。韓国新幹線KTXの車両もRotem製だそうだ。



  
 冷房があるので、中は涼しい。節電なのか、蛍光灯の数が少ないので、車内は薄暗い。窓が金網で覆われているので、閉そく感がある。



 吊革の数が少ない。椅子はプラスチック板で堅い。清掃は比較的行き届いており、及第点だろう。フィリピンの鉄道は、先頭車は女性・子供専用である。かろうじて、老人男性は女性専用車両に乗れるようだ。 




 ドアの上に路線図が貼ってある。Tutuban駅が始発駅である。現在、路線図右手に伸びている南行アラバン方面のみが運行されているようだ。北行CALOOCAN行きは見たことがない。今度また行く機会があれば、確かめてみたい。
 





                            

          (3)トゥトゥバン駅


  
 トゥトゥバン駅の構内ホームから駅舎を見る。中央の列車が現在運行しているもの。左が日本から最近寄贈された寝台客車、右も日本製の客車である。現在使っているかどうかは不明。



 この寝台客車は最近日本から寄贈されたものである。10両まとめて海を渡ってきた。日本では北陸本線、寝台特急列車「北陸」号に使われていたという。2011年6月から、マニラ−ナガ(NAGA)間を走り始めた。出発は夕方の6時。乗客は非常に少なかったと、地元の新聞にあった。ナガまで250キロぐらいあるが、ちゃんと走ったのだろうか。



 車体にはフィリピン国鉄のマークがきれいに印刷されている。「オ」は車両の重量でかなり重い方である。「ハ」は普通車、「ネ」は寝台車(「寝る」から「ネ」である)を表す。14は列車の型番、91は製造番号ということ。オハネ14と言うと、マニアックな人は、どこどこで使われた、こんな車と分かるそうだ。
 
 
 これも日本製の車両である。フィリピンは線路の幅が日本の在来線と同じで、狭軌1067ミリである。この室内も何か懐かしい見覚えのある雰囲気である。 



 座席番号と窓側、通路側の表示が見える。



 スハフ12型。「ス」は車両の重量を表し、「ハ」は普通車(二等車)、「フ」はブレーキを持っている車両という意味だそうだ。かつて日本のどこかで私達を運んでくれた客車である。フィリピンで第二の奉公をしたのだろう。



 トゥトゥバン駅入り口に蒸気機関車の展示がある。のどかな時代があったのでしょうねえ。

 フィリピン国鉄の歴史
 フィリピン鉄道の歴史は、1875年6月、当時フィリピンを支配していたスペイン当局が、ルソン島における鉄道建設の基本計画を検討したことに始まる。1887年7月、現在のマニラ市Tutuban駅の位置に鉄道の起点標識が置かれ、1891年3月、マニラ鉄道会社の手により、最初のマニラ−バグバグ間45kmの運行が開始され、翌1892年11月には、この区間を含むマニラ−ダグバン間195kmの路線が開通した。(ダグバンはルソン島リンガエン湾に面する地方都市である)。その後、マニラ−カバナツアン−サンホセ線、マニラ−ナガ−レガスピ線も整備された。現在運行されているのは、マニラ−ナガのみである。
 面白いところでは、パナイ島のロハス−イロイロ間にも鉄道がかつてあったという。現在、復活の計画はあるが、実現はしていない。(「世界の鉄道」社団法人海外鉄道協力協会編2005年を参考にした)




(4)鉄道沿線風景



 Tutuban駅近くの踏切。痩せこけた犬がわんさかと歩いている。昼は暑いので、ぐったりしてるが、たぶん、夜は元気に走るのだろう。馬車は「カレッサ」と言うそうだ。中華街に行くと、観光客を乗せて活躍している。これはたぶん、昼食で家に帰るところだと思う。ここから中華街は近い。



 (上)踏切。列車が通過中。(下)列車が通過したあとは、線路は封鎖される。昔、この光景をマレーシアで初めて見た時は驚いた。写真奥の方がTutuban駅である。



 鉄道の沿線にはこのようなバラックの家が圧倒的に多い。鉄道の両脇や川岸は土地の所有者が公的な機関の場合が多いからか、不法居住が発生しやすい。このフィリピン国鉄の両脇も、全線的に不法居住らしい建物が続いている。
 金網の籠にいるのはニワトリである。いわゆる「闘鶏」用のニワトリである。



  
 列車が通過すると、人々が集まってくる。仕事なのか、仕事じゃないのか、よくわからない。薪を作って運ぶようだが、売り物なのか、自家用なのか不明。
 Tutuban駅を出た列車は、この分岐点を右へ曲がって南行線に入る。直進は北行線になるのだが、こちらに行く列車は見たことがない。たぶん、運行していないと思うのだが、確かめてはいない。また、乗車する機会があれば、確かめたいと思っている。 



 
突然、葬儀の行列がやってきた。この後ろに何台か車が連なっている。








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