このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
アンコール遺跡−26 キリング・フィールド
2005年8月22日(月)。4日目の朝である。この日の晩の夜行便で日本に帰ることになっており、観光が出来るのは16時までである。この日最初に向かったのはキリング・フィールドである。
ここで、第二次世界大戦後のカンボジアの歴史を簡単にまとめてみたい。「ポル・ポト<革命>史」(山田寛著)を参考にした。 前日 はバテバテでホテルに17時前に戻って時間があったため、この本を読んで予習した。
1952/6 シアヌーク国王の「王様クーデター」。国会を解散し、全権力を握る。 1953/11 シアヌーク国王、フランスより完全独立を達成。 1965 サロト・サル(後のポル・ポト)が北ベトナム、中国を訪問し、大きな影響を受ける。 1970/3 ロン・ノル首相のクーデターで、外国旅行中のシアヌーク国王が追放される。シアヌーク国王は、中国などの勧めでカンボジア解放勢力と統一戦線を組み、王国民族連合政府を樹立して内戦に突入。 1975/4 クメール・ルージュが、プノンペンを陥落させ、内戦に勝利。暗黒政治が始まる。 1976/1 シアヌーク北京より帰国。民主カンボジア新憲法公布。 1976/4 ポル・ポト首相就任。シアヌークの幽閉生活が始まる。 1976/6 ツールスレンに虐殺センター「S21」を設立。 1977/12 ベトナムとの断交を発表。東南アジア版中ソ対立が火を噴いた。 1978/12 ポル・ポト政権打倒を目指す「カンボジア救国民族統一戦線」が結成され、下旬にベトナム軍が大攻撃を開始する。 1979/1 ベトナム軍の侵攻でプノンペン陥落。ポル・ポト政権指導者たちは再びジャングルに戻り、抵抗運動を続ける。シアヌークは北京へ脱出し、国連でベトナム非難の熱弁をふるう。プノンペンには親ベトナム政権のカンボジア人民共和国(通称ヘン・サムリン政権)が樹立。 1982/6 ポル・ポト派、ソン・サン(元首相)派、シアヌーク派の反ベトナム・反プノンペン政権三派連合が成立する。中国、タイや西側諸国が支援。 1991/10 ポル・ポト派を含む四派と関係18ヶ国がパリで和平協定に調印。 1991/11 シアヌークが12年ぶりに帰国。カンボジア最高国民協議会が正式に発足。 1992/3 国連カンボジア暫定統治機構(UNITAC)が発足。 1993/5 国連管理による制憲議会選挙が実施された。国連ボランティア、中田厚仁さんが銃殺される。 1993/9 シアヌークを国王とするカンボジア王国が発足。 1997/7 第二首相のフン・センが、第一首相のラナリットを追放し、実権を掌握。国際社会から非難を浴び、国際援助が一時停止される。 1998/4 ポル・ポト死亡。
カンボジアは、内戦と混乱の歴史であった。1970年から1991年まで、カンボジアの国民は死と隣り合わせであった。特にポル・ポトが統治した1975年4月から1979年1月までの約4年間は、暗黒の時代と言われている。まさに狂気と殺戮の時代であった。
プノンペン陥落は1975年4月17日。ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)のカンボジア統治は、市民の即時強制退去から始まった。強制退去は、革命の敵が集結した悪と腐敗の巣窟の都市を壊滅させるためであった。全国民を農民、労働者にし、生産に邁進させるのが目的であったという。病人や老人、妊産婦、子供も強制移住の対象者となった。
国全体で、このとき強制移住させられた人は400万人と推定されている。当時のカンボジアの全人口は800万人だから、2人に1人である。
1976年1月5日には民主カンボジア新憲法が公布された。また、⑤と⑥は憲法には書かれていないが、廃止された。
① 宗教の禁止 僧侶も強制労働に駆り出され、寺院は破壊された。 ② 教育の廃止 前文に「全てのものが肉体労働に従事」と書かれている。小学校教育は1日30分程度だった。中学校教育はまったく存在しなかった。 ③ 旧文化の廃止 西洋文化は排斥された。流行歌や踊り、遊びなどもすべて敵となった。 アプサラダンス の師匠や踊り子は殺害された。 ④ 国際援助の拒否 ユニセフなどの援助も受け付けなかったが、中国や北朝鮮からの援助は受け入れた。 ⑤ 通貨と市場の廃止 通貨があるから私利私欲が起こり、革命推進に有害になるとして廃止された。 ⑥ 家族での食事の廃止 家族ごとの食事が許されず、村落の共同食堂で集団で食事をとらなければならなかった。
1976年6月、ポル・ポト政権の治安警察が首都プノンペンの南部のツールスレンに本拠を移し、そこを尋問・拷問・虐殺センター「S21」とした。ツールスレンでは、ポル・ポト政権の最高に近い幹部から、粛清の嵐に巻き込まれた地域の幹部、無名の老若男女が14,000人以上殺害された。ツールスレンを生きて出たことが分かっているのは、わずか7人である。国内各地の地方監獄も含めると100,000人が監獄で殺害されたという。
ポル・ポト政権は物を何も知らないこと、頭の中に旧来の知識や外国からの知識、腐った知識が入っていないことを重視した。したがって大人は信じられず、信じられるのは子供だけとなる。子供兵士が戦場に送り込まれ、子供獄吏が囚人を殺害し、子供医師の誤った「治療」で続々と市民が殺害された。
1978年12月25日、ベトナム軍15万人の大攻撃の火蓋が切られる。子供兵士の多いポル・ポト政権では太刀打ちできず、1979年1月7日にプノンペンが陥落した。ポル・ポトや政権高官はカンボジアの北西部に脱出し、ゲリラ戦を繰り広げることとなった。ポル・ポト政権下での死者数には諸説あるが、「ポル・ポト<革命>史」では150万人としている。当時の人口が800万人だから、5人に1人が犠牲になったということになる。
しかも、ポル・ポト政権の崩壊後も悲劇は終わっていない。カンボジア全土に埋設された地雷は推定400万個と言われており、いまだに市民を傷つけている。
いったい誰がポル・ポト政権に影響を与え、彼らを虐殺に駆り立てたのか。中国共産党に大きな影響を受けたのは間違いない。
ポル・ポトは1965年に北京を訪問して鄧小平と面談している。1976年にシアヌークに帰国を命じたのは、ともに死期が近付いていた毛沢東と周恩来であった。
上述の「物を何も知らないこと、頭の中に旧来の知識や外国からの知識、腐った知識が入っていないこと」を重視したというのは、文化大革命と酷似する。ポル・ポト政権では子供兵士達が、文化大革命では紅衛兵が暴れまわった。
ベトナムとの断交も中国が影響している。ポル・ポト政権を支援する中国と、ベトナムを支援するソ連という共産主義二大陣営の対立であった。鄧小平はポル・ポト政権を評価していなかったようだが、それでもベトナムにカンボジアを支配させるのは許さず、ポル・ポト政権に対して軍事援助を行っている。
ポル・ポト政権の虐殺が文化大革命の影響を受けていると知り、慄然とした。中国共産党には恐怖さえ感じる。まさに革命の輸出である。
カンボジアの混乱は、中国共産党のみならず、諸国の思惑が入り乱れた結果生じたものである。カンボジアの復興について国際社会のよりいっそうの支援が必要であろう。
この日で観光3日目。3日とも同じ運転手である。キリングフィールドへ向かう車の中で、運転手に思い切って尋ねてみた。
「How do you think about Pol Pot?(ポル・ポトについてどう思う?)」
運転手は、吐き捨てるように言った。
「Pol Pot was very bad. My mom was killed by Pol Pot.(ポル・ポトは悪いやつだった。俺の母親はポル・ポトに殺されたんだ。)」
彼の母親はポル・ポト政権の犠牲者だった。日本からやって来た無知で脳天気な旅行者に対して、彼は説明してくれた。
彼が生まれたのは1963年。したがって、ポル・ポトが政権を取った1975年に、彼は12歳であった。日本の12歳といえば小学校6年生から中学校1年生にかけてであり、知識欲も旺盛な年頃である。その大事なときに、彼は学校に行くことができなかった。クメールの強烈な日差しが照り付ける中、朝から晩まで農作業をやらされていたのである。集団での食事も粗末なものであったそうだ。
僕は、彼に辛いことを思い出させてしまった。多くのカンボジア人にとって、ポル・ポトは遠い昔の話ではない。戦争はまだ終わっていない。
キリング・フィールドは、シェムリアップ市街からアンコールワットに行く途中にある。一見すると、どうってことのない普通の寺院もしくは学校に見える。しかし、ここはポル・ポト政権時代は刑務所として使用され、数千人ともいわれる人々が犠牲になった場所である。
下の写真の右の方に白い慰霊塔があるのがお分かりいただけると思う。慰霊塔の中には、人骨が無造作に納められている。ガラスの中には頭蓋骨も見える。狂気と殺戮の象徴である慰霊塔の前で、手を合わせて黙祷した。
キリング・フィールド
このページを書いている本日の日付は2005年12月24日。奇しくもクリスマス・イブである。運転手とそのご家族に、キリング・フィールドに住んでいる子供達に、そしてカンボジアの全ての子供達に、メリークリスマス。
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |