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イタリア20 ギベルティとブルネレスキ編
1401年。フィレンツェで 洗礼堂 の扉の製作者が公募された。審査の結果、最終選考に残ったのは二人の若者であった。一人は、ロレンツォ・ギベルティ。1378年生まれの23歳。金細工師の息子として生まれ、金細工師となっていた。もう一人の名は、フィリッポ・ブルネレスキ。1377年生まれの24歳。公証人の息子であったが家業を継がず、金細工師となっていた。
最終選考のテーマは、旧約聖書の「イサクの犠牲」。有名なシーンを彫刻で表現するというものであった。
アブラハムとサラという高齢の夫婦に息子が生まれ、イサクと名付けられる。イサクが順調に成長したある日、神は残酷な命令をアブラハムに下す。
「息子イサクを山上で焼き、神に捧げよ。」
アブラハムは悩む。やっと授かった息子を自らの手で焼き殺すことの罪と、神の教えに背くことの罪に葛藤した結果、神の教えを守ることを決心する。
アブラハムはイサクを山に連れて行き、喉元に小刀を当てた瞬間、神の声が響いた。
「お前が神を恐れる者であることが分かった。」
そして、神はアブラハムを祝福した。
このシーンを描いた二人の彫刻が、フィレンツェのバルジェッロ博物館に残っている。完璧な構図の ギベルティ に対し、奔放な構図の ブルネレスキ 。甲乙付け難く、素晴らしい出来栄えであった。
しかし、ブルネレスキは、そう考えなかった。彼だけは、実力差を感じていた。彫刻では、ギベルティに勝てない。ブルネレスキは審査を辞退した。
勝者となったギベルティは、洗礼堂の扉の作成に取り掛かった。ギベルティは全精力を注ぎ込んで作成し、北側の扉は1427年、東側の扉は1452年に完成している。審査の時は23歳だったギベルティは、74歳になっていた。3年後の1455年に逝去。精根を使い果たしたのであろうか。
後年、東側の扉はミケランジェロによって「天国の扉 (porta del paradiso)」と称された。現在ではルネサンスの最高芸術の一つとして評価されている。
下の写真では、10枚の内、8枚しか写っていない。観光客で2枚が隠れている。アップで見たい方は こちら をどうぞ。なお、現在洗礼堂に展示されているのはレプリカで、本物はドゥオーモ博物館に保管されている。
天国への扉
アダムとイブ ケインとアベル ノア アブラハムとイサク エサウとヤコブ ヨゼフ モーゼ ヨシュア ダビデとゴリアテ ソロモンとシバの女王
一方、 ドゥオーモ の工事は難航していた。1296年から開始したものの、中断。当時の技術では、クーポラの屋根を作ることが出来なかった。それどころか、設計もできなかった。
1418年、今度はクーポラの設計コンクールが開かれた。この不可能とも言われた設計に、挑戦したのがブルネレスキであった。ブルネレスキはコンクールを辞退した後、ローマで建築を学んでいた。1420年8月7日、ブルネレスキが勝者となり、彼の指示のもとで建築が開始した。ブルネレスキの設計は、八角形のクーポラを二重の壁で積み上げて、お互い支えあうことによって、崩れないようにするという独創的なものであった。
1436年、クーポラ完成。ドゥオーモの着工から140年が経過していた。電力なしで、巨大な屋根を設計し、作り上げたのは驚嘆に値する。ブルネレスキは1446年に逝去し、ドゥオーモの中に埋葬された。
クーポラ
15世紀初め、フィレンツェには二人の天才がいた。
コンクールの勝者は、その道を全うし、歴史に残る彫刻を作成した。
コンクールの敗者は、建築の道に進んで、歴史に残る建築物を残した。
二人の内どちらかしか存在しなければ、クーポラは完成しなかったかもしれない。これも神の意志であろうか。
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