TOYOHASHI SHIDEN
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

終戦直後の豊橋駅

豊橋空襲
 昭和20年4月、戦いは沖縄本島にまで迫り、いよい

よアメリカ軍の本土上陸も時間の問題という危機感が

市民の胸の中をよぎっていた。たび重なる敵機の来襲

に、「警戒警報」や「空襲警報」が発令され、サイレ

ンは毎日のように市中に鳴り響いた。灯火管制の闇の

中、せめてもの防空壕が心の安全地帯であった。

 市政80年史の記録によると、昭和20年6月19日午後

11時40分ごろ突然東海軍管区司令部は「B29は渥美半

島の上空を北上中なり、空襲警報発令」の情報を流し

た。その時既に柳生川運河方面と太陽航空 (現ホリデ

ィ・イン近く) のところから火の手があがっていた。そ

れから2時間余、約90機のB29は超低空による焼夷弾

攻撃を波状的に行った。市民は郊外へ郊外へと逃げ惑

った。明け方までに焼けるものはほとんど焼け落ち、

午前8時頃になっても余燐が残っていたが、誰も手を

つけられない文字通りの焼野原となった。以後焼け落

ちた駅舎の三角屋根は、遠くからも見える戦災の原風

景として、今も心に残っている。


NEXT
伊奈彦定のイラストでつづる車両たち | 豊橋鉄道市内線の軌道変遷略図 | 伊奈 彦定

HOME


とよはし市電を愛する会
www.toyohasisiden.com

とよはし市電を愛する会
© 1997 Hikosada Ina and Amita Internet. All rights reserved.
Republication and redissemination is expressly prohibited without
the prior written consent of the author and artist, Hikosada Ina.
Copyright 2008-2009 Toyohashi Shiden wo Aisurukai , Kazuhiko NAKANO & Kaz Laboratory All Rights reserved.

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください