このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
「ワタシノムネ、アナタトオナジ」信徒発見 「長崎県」の目次へ | |
建って間もない「フランス寺」は、美しさと物珍しさで評判になり、長崎の住民たちが大勢見物に押し寄せとった。 | |
やがて、五島、外海、神の島、黒島
(黒島天主堂参照)
など長崎の各地から、遠くは福岡県の今村
(今村天主堂参照)
からまでも、多くのキリスト教徒が名乗り出て、こっそり信仰ば守り続けとったことが分かった。これは、キリスト教禁教令が出されてからなんと250年も後のことやった。 大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)は、長崎市にあるカトリックの教会堂で、現存するキリスト教の建築物では日本最古のもんゲナ。また国宝に指定された唯一の洋風建築(木造ゴシック造り)てもいわれとる。 正式名は「日本二十六聖殉教者聖堂」ていう。その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂やケン、天主堂は殉教地の西坂の丘に向けて建てられとる。 天主堂が出来るまでの経緯はこうタイ。 ゴシック様式ていうとは、中世以降のヨーロッパの教会堂の建築様式のひとつで、心ば高く保つごと高い尖塔ば持ち、なかばステンドグラスで明るうして、心ば神に向けさせようとした造り方。 昭和20年(1945)8月9日の原爆投下では、屋根、正面大門扉、ステンドグラスなどに大きな被害ば受けたバッテン、爆心地から比較的離れとったケンさいわいにも焼失は免れた。 上・この像は天主堂の内、向かって右側の小祭壇に飾られとる。創建当時にプチジャン神父がフランスから持ってきたもんゲナ。 このマリア像が「信徒発見のマリア像」て言われるようになったとは、もちろん1865年3月17日の信徒発見の出来事に由来しとる。 この像は「日本に数多くの隠れキリシタンたちがおった」いうニュースが全世界に伝えられた後、フランスからその記念に贈られてきたもんで、プチジャン神父は最初、天主堂の門前に据付け、信徒発見の記念祭典ば催しなったて云われとる。その後天主堂の改築で、聖堂が2倍の大きさに広げられたときに、現在の入口正面に置かれたていう。 旧羅典神学校 大浦天主堂に向かって右側の建物で、これも国の重要文化財。明治6年(1873) キリスト教禁教が解除され、各地に配流されとった浦上村の信徒が釈放されたのばきっかけに、プチジャン神父は神学校の設立ば計画しなった。 上・旧羅典神学校のたてものと、キリシタン関係の貴重な展示物 天主堂へ向かう坂の左手には、慶応元年(1865)3月17日の潜伏信徒発見から100周年ば記念した公園がある。昭和40年(1965)にレリーフ像がでけた。プチジャン神父の像もある。 | |
場所・長崎市大浦町。長崎自動車道の終点から、そのまま出島道路に入れば、市民病院の横に出てくる。左折して市電に沿い大浦海岸通ば500m。松ヶ枝の信号ば直進すればすぐ松ヶ枝駐車場がある。どこでもよかケン、このへんの駐車場に車は置いて、あとは天主堂への坂道ば歩いて登る。 取材日 2008.2.19 | |
待合室へ | 「長崎県」の目次へ |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |