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街道の風景




敦賀市〜大飯郡高浜町


(1)敦賀市〜三方郡



関峠付近の国道27号関峠付近にある石仏安置の厨子


◎ はじめに

 越前国敦賀津(敦賀市)から若狭国を横断して丹後国田辺(京都府舞鶴市)、宮津(京都府宮津市)へ通じた街道です。

  丹後街道は越前側からの呼称で丹後からは若狭街道と呼ばれました。

 若狭国府(小浜市)〜松原駅(敦賀市)は古代の官道で、この間に弥美(三方郡美浜町郷市)、濃飯(遠敷郡上中町)の二駅がありました。

  小浜以西も古来から若狭湾岸を貫く重要な道であったと思われます。

 近世(江戸期)になると街道も整備され、小浜藩主酒井氏は丹後国境の吉坂峠のふもと蒜畠(大飯郡高浜町蒜畠)に関所を置きました。

  現在、敦賀市〜舞鶴市間は国道27号によって引き継がれています。


若狭の街道 正保2年[若狭敦賀之絵図](酒井家文書)により作成


1 古代北陸道と丹後街道

 古代の北陸道は近江から江若国境の粟柄峠を越えて耳川に沿って下り、「弥美駅」の郷市、河原市(三方郡美浜町)を経て、

 ここを右折して椿峠、佐田(三方郡美浜町)、関峠を越え沓見、馬坂を通って「松原駅」(いずれも敦賀市)に至ったといいます。

 それが関、金山、野神、三島(いずれも敦賀市)を経由する丹後街道に変わったようです。

 古代北陸道が大きく沓見や馬坂辺りを迂回したのは、笙ノ川をはじめ黒河川、砂流川、井ノ口川などが、しばしば起こす洪水禍を避けるためだったと見られます。

 古い道ほど山の尾根や山裾につけられたのは、全国的に共通したことです。

 他方、一説には奈良の平城京などを起点に、いくつかの官道が整備されましたが、

 奈良から北陸に向かう道が琵琶湖の西岸沿いを北上し、敦賀へ通じる北陸道として整備されたとき、

 この北陸道から分岐した若狭国府を経由し敦賀へ向かっていた道が若狭支路になったという説です。

 この若狭支路は東は丹後街道とほぼ重なり、西は海産物の運搬で若狭国府を結ぶ重要な道でした。

 平安後期になると丹後街道の西部域は「巡礼道」と呼ばれ、西国三十三ヶ所の霊場を巡礼する人達が29番目の松尾寺(舞鶴市)から

 30番目の宝厳寺(琵琶湖の竹生島)に向かう途中、高浜(大飯郡高浜町)から日笠(遠敷郡上中町日笠)までの丹後街道を巡礼道と呼んで利用しました。



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2 主な街道沿いの宿駅・旧蹟・名所

 丹後街道の起点である敦賀湊は、西近江路の項で紹介しましたので省略します。

 敦賀湊を出発した街道は旗護山(標高318m)の南にある狭隘な関峠を越えて若狭国へ入りました。



◎ 関峠(敦賀市・三方郡美浜町)

 関(敦賀市関)は敦賀平野の南西、大瀬川によって形成された小扇状地にあり、その西に越前国と若狭国の国境をなす関峠(標高約100m)がありました。

 古来、この付近に関が設けられていたことから、この地名がついたと言われます。
             この付近の地図参照

 峠の西にある佐田村(美浜町佐田)と東にある関村(敦賀市関)との間に、かって四角の石が屹立して国境石があったそうです。

 今は頂上の北側にある厨子の中に石仏が安置されています。この国境石から丹後の吉坂まで17里30町(約70km)、小浜まで9里(約35km)、敦賀まで2里34町(約12km)の道程でした。


佐柿(美浜町佐柿)の町並み国吉城跡(美浜町佐柿)


 関峠を下りてきた丹後街道は、現在は佐田(美浜町佐田)の帝釈堂付近を直進して佐柿(美浜町佐柿)へ向かう道と右折して美浜原電へ向かう道とに分かれます。
 
 昔はもっと手前の敦賀寄りで分岐し佐田から金瀬川沿いに山裾を回って山本(美浜町山本)に至り、

さらに大田川沿いに山上(美浜町山上)に下り、機織池の山側を伝って椿峠に出たという「古代北陸道」の二つの道がありました。



◎ 椿峠

 三方郡美浜町坂尻と佐柿の境にあった標高約60mの峠で、御岳山から北北西に延びる尾根と天王山の鞍部にあり、かっては丹後街道が通っていました。
 
 古来、この峠は越前方面からの若狭侵攻に対する天然要害の役目を果たし、峠を見下ろす南東の山上に中世の国吉城址があります。

 永禄6年(1563)朝倉氏が若狭攻めをした時、この国吉城は主戦場になりました。
 
 明治18年(1885)若越二州車道が開通し、峠が切下げられて馬車の通行が容易になり、

 さらに昭和39年(1964)峠下に国道27号の椿トンネルが完成しました。



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◎ 佐柿(三方郡美浜町佐柿)

 古くから若狭に入る交通の要衝として重視されてきた集落で、すぐ東側にある御岳山の小尾根が北に走る標高197mの頂上に、

 中世末から近世初頭にかけて山城が築かれ、東方からの侵攻に備えて常国国吉が築城したので国吉城といわれました。

 戦国期、若狭守護武田氏が分裂し、弱体化しつつあった頃、武田氏重臣粟屋越中守勝久は、

 永禄6年〜12年(1563〜1569)の越前守護朝倉氏の再三の攻撃にも屈しなかったといわれます。

 天正期(1573〜1592)国吉城主木村常陸介は、豊臣秀吉の命で佐柿に町屋を造ったと伝えられます。

 慶長5年(1600)若狭入封の京極高次は、佐柿に重臣を配置して越前との国境を固めさせました。

 寛永11年(1634)入封した酒井忠勝は、佐柿に茶屋(陣屋)を設けて奉行を置き、また、女留番所を併置して婦女の出国を取締りました。

 このように佐柿は戦国期、城下町として機能していましたが、江戸期の寛文9年(1669)遠敷郡熊川とともに「泊り村」に指定され、宿場町として機能するようになりました。

 元禄年間(1688〜1703)には野瀬町、南町、堅町、横町、中ノ町、北町があり、小規模ながら町場ができています。

 19世紀初頭には丹後街道に面して表家が100軒、裏家が21軒あったといいます。



三方五湖近景三方五湖遠景


◎ 三方郡の概要

 三方郡は若狭三郡の1つで北は日本海、西は遠敷郡、南は近江国、東は敦賀郡に接しています。

 中世に山東、山西両郡が成立したことに伴い、弥美郷の耳川以西は耳西郷と呼ばれるようになり、弘安年間(1278〜1287)には春日社領となりました。

 三方郷からは田井保、世久見浦、向笠荘などの地が自立し、能登郷は中世、能登野という地名を残し、郷の大部分が倉見荘になりました。

 当郡内の国御家人らは荘園領主だった延暦寺などとの結びつきが深く、国御家人の多くは、南北朝内乱や

観応2年(1351)、応安4年(1371)の若狭国一揆のなかで没落し、山東氏を除いて戦国期には見えなくなりました。

 室町前期の守護一色氏のとき、三方郡を本拠とした三方氏が守護代として勢力を伸ばしましたが、武田氏支配下では、有力家臣の熊谷氏や粟屋氏の勢力が強くなりました。

 中世の三方郡では、神事の祭礼や芸能に注目すべきものがあります。とりわけ耳西郷気山の宇波西神社の王の舞神事は、現在、国選択無形民族文化財に指定されています。



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